- 芸術的な、あまりに芸術的な

2005/03/22/Tue.芸術的な、あまりに芸術的な

ポエマー (poemer; 詩人。Poet とは別物) が嫌いな T です。こんばんは。

芸術とルール

俺は滅多に詩を読まない。書いたことは一度もない。詩は最も自由な文芸である。それ故、良くも悪くも芸術的だといえる。「芸術」の定義も難しいところだが、「対象を評価するとき、その基準を自己の中にしか持ち得ないもの」と仮定してみる。客観的評価基準の希薄な創作分野ほど、その芸術性が高いということになる (「芸術的価値が高い」のではない点に注意)。

具体的な例として、俳句を分析してみよう。俳句は「五七五の 17音で表現し、その中に季語を含む」というルールがある。それによって我々は、ある句を評価するとき、「ルールに則っているかどうか」という判断基準を外部に求めることができる。あるいは逆説的に、「墓のうらに廻る」(尾崎放哉) という句を「破句」として評価することができる。ルールに従うべきはずの「俳句」として発表したからこそ、「墓のうらに廻る」という句は評価され得る。このセンテンスが 1編の「詩」として発表されたら、どういう評価を受けただろうか。まァ無視されるだろうな。

創作には常にこの問題がつきまとう。どこまでルールを遵守するか、どのルールを破るか。意識の高い創作者であれば、自らが切り開いた境地を律するルールの整備すら視野に入れているかもしれない。しかし、ルールを土台に据えているという事実は変わらない。ここが決定的に詩と違う。

ルールなき芸術 - 詩

ここで「詩」と書いているものは、主に散文詩を想定している。字数や音律に厳しい漢詩などは、どちらかというと俳句などに近い。旋律に乗せて人間が歌うという前提を考慮した歌詞なども、ゆるやかながらルールが存在する。これらは比較的評価がしやすい。取っ付きやすいと言い換えても良い。評価の枠組みがあるからだ。この「枠組み」というのは重要である。99% の凡人は、この枠組みがないと不安になる。「何物にも縛られずに自由に書いた詩です。貴方の感性で評価して下さい」と言われて喜ぶ人間は少ないだろう。誰だって、自分の感性に自信なんか持てない。

作者の観点から立つと、自分の詩を評価されるための基盤がないということになる。彼の力作が評価されないのは、「鑑賞者の感性」に評価されなかったからである。こんな苦しい創作はない。それ故に、最も芸術性が高いと俺は思う。これがルールでガンジガラメにされた探偵小説ならば、もっと話はスッキリする。「犯人がすぐわかる」「このトリックは物理的にあり得ない」など、非常に客観的な価値観で評価される。明快だ。そこで「探偵小説は文学でない」という論争が起こるわけだが、少なくとも「探偵小説の芸術性は低い」という主張は正論だと俺は思う (繰り返し述べるが、探偵小説の「価値が低い」わけではない)。

とまあ、ストイックに考えれば、詩作というのは大変厳しいものである。ルーズに考えれば、これほど作者に逃げ道が用意されている創作分野もない。作者はいつでも「お前らは俺のゲージュツを理解できない」と言うことができる。この主張を「誤りである」と証明することは不可能だ。だからといって「正しい」という証明もできないから、論争は延々と平行線をたどる。「詩のサイトは荒れる」というジンクスがあるらしいが、当然の帰結といえよう。それに耐え得る者のみが、本当の芸術家としての一歩を踏み出すことができる。