- 「批判のための批判」批判

2005/03/08/Tue.「批判のための批判」批判

今年の初乗りを果たした T です。こんばんは。

バイク日記

久し振りに愛車にまたがった。最後の「バイク日記」が昨年の 11月 12日だったから、実に 4ヶ月ぶりだ。暖かくなったら乗ろうと思ってはいたのだが、何だかんだで再開する気分になれず、今日までカバーをかぶせたままだった。可哀想なことをしたと反省する。

走らせたら走らせたで、やっぱり楽しい。ヘルメットをかぶっていても、その解放感は自動車の比ではない。米国のどこかの州では、バイク乗車時のヘルメット装着義務がないという。羨ましい話だ。一度、「バイクを乗りに」米国に行ってみたい。レンタルするのは、もちろんハーレー・ダビッドソン。いつ実現することやら。

そんなことより、我が愛車をこれからも維持できるのかという方が大問題だ。現在の状態がズルズルと続くと、糊口をしのぐためにマシンを手放す可能性も出てくる。そこまで困窮しなくとも、5月には車検がある。その費用をあがなえなければ、いずれ公道を走ることは無理になる。

俺がバイクに入れ込んでいるのは、バイク自体がもたらす快楽は元より、それを手に入れるまでのプロセスにも沢山の思い出があるからだ。少し大袈裟に言うならば、我が大学生活の半身であったといっても良い。そんな愛車を売り払うのは断腸の思いだが、自分にオーナーの資格がないとなれば致し方あるまい。身から出た錆。そうならないように願うばかりである。って、願ったところで効果はないんだけど。頑張るしかねえな。

批判のための批判

と、何を書いてもテンション下がり気味なのが最近の悩み。そこで、「文章のテンションを上げるには?」みたいなキーワードで検索したところ、何とも微妙なページに辿り着いた。某評論家が書いた「国語教科書の朗読」に関する論文を、国語教育関係者が批判しているページだった。サブタイトルが「XX 批判」(XX は論文のタイトル)とあって、もうそこでゲンナリである。

俺も日記で色んな事柄を叩いたりしているが、なるべく建設的な意見や提言を書くように心がけているつもりだ。「批判のための批判」は何も産まない。せいぜい執筆者の歪んだ優越感を満たすくらいで、第三者にとって有益なものになることは、まずない。

この国語教育関係者の文章を読んで、俺が何とも言えない気分に捕らわれたのは、先日交わしたにはふ兄との会話が恐らく関係している。在野の自然科学研究者というのは現代においてほとんど考えられないが、人文科学の分野には、沢山の在野研究者が存在するらしい。その多くが中学や高校の教諭であるとのことだが、ほとんどが自己満足のレベルで終わっているというのが大兄の指摘であった。俺には縁のない世界であり、その真偽のほどは保証しかねる。が、今日目にした国語教育関係者の文章は、にはふ兄が言うところの典型であったような印象を受けたのは事実である。

在野の研究者全てがそうであるとは思わない。そもそも「在野」という言葉に、アカデミズムの傲慢な差別意識すら感じる。そこには明らかに、「アカデミズム=中央」という図式が存在する。そんなに単純なものではない、というよりもむしろ、あってはならないと信じたい。自己満足というならば、学問自体が自己満足の世界ではないか。その価値は、各研究の成果によってのみ評価されるべきだ。

ならばこそ、在野の人は自らのコンプレックスを払拭しなければならない。「批判のための批判」は、最初から批判対象の「権威」を認めていることに等しい。学問にアンチもレジスタンスもない。そんなものは思考にとっての足枷だ。学問に限った話ではないが、でき得る限りの資料を揃え、自分の頭で考えたことのみが意味を持つ。結果として、他の論と内容的に対立することもあるだろう。相手との相違を比較するのは有意義なことである。相手が誤っている(と自分には思える)点を指摘するのも良いだろう。が、「批判」することで何が産まれるのか。相手を折伏したら、自分が正しくなるのか? 違うだろ。政治じゃないんだから。学問には、常に豊かな裾野が必要だと俺は思うのである。

なんて長々と書いたけれど、サイエンスとは違う世界なので、トンチンカンな意見かもしれない。「証明不可能な問題」について、様々な論説が林立するという事態そのものにピンと来ないからだ。サイエンスであれば、「いずれ証明されるであろう現象」に対する考察はあくまで「仮説」であり、大抵の場合、いつか白黒がハッキリする。狭義の自然科学が「証明可能な問題」のみを扱う以上、「折伏」は起こり得ない。折伏に熱心な研究者がいたら、まず政治屋と見て間違いないだろう。どちらの世界にもそれぞれ問題はあるのだろうが、せめて個人としては真摯でありたいよなあ。