- 夢と小説

2005/03/01/Tue.夢と小説

筒井康隆をよくパクる T です。こんばんは。

一昨日の夢日記「鮎の串焼き」を書いてから、「夢と小説」について考えている。これまた尋常ではないほど大きなテーマだが、ナニ、いつものことなので気にせず日記に書く。「鮎の串焼き」を未読の方は、そちらから御覧頂きたい。

夢の小説化

「夢を小説にする意味があるのか」というのは、それなりに古い文学論争の一つである。しかしこれは、やや評論家(=読者)寄りの話題という印象がある。筒井康隆を筆頭に、「夢の小説化には意味がある」と断じる作家(=実作者)は多い。また、優れた夢小説が多数あることはまぎれもない事実である。夢の小説化は様々な文学的課題を提供する。現場の作家がそれらを魅力的なものとして捉え、克服せんと奮闘しているのだから、必ずや大きな実りがあるだろう。意味はあるのだ。

「『夢日記』を書く効能は色んな書物で説かれている」と一昨日の日記に書いたが、これはあくまで精神医学的な効果であり、その恩恵は日記を書く本人にしか及ばない。夢自体は「個人的な体験」であるから、そこで得た感動を他者と共有するのは難しい。一方、夢を小説化するからには、読者を選ぶにしろ、ある程度以上の共感を獲得できなければ小説として失敗に終わる。「夢の小説化」における最大の困難がここにある。作者は、夢の感興を一般化・普遍化しなければならない。

まず、我々は夢の何に感動するかを知る必要がある。少し考えれば、感動の要因がストーリーにはないことに気付くはずだ(全くないというと語弊があるが、恐らく比重は小さい)。例えば「鮎の串焼き」のストーリーを要約するならば、

山奥の小さな飯屋で旨い鮎の塩焼きを食った。

となる。お世辞にも「面白そう」とは言えまい。これが小説だと、話の骨格がしっかりしていれば、技術が多少未熟でも楽しく読めるものが書ける。普通の小説のストーリーがいかに「面白そう」であるか、新潮文庫の宣伝文から引用してみよう。

松山で開催された俳句祭りで、殺人を宣告する不気味な投稿句が見つかった−−。十津川警部を翻弄する未曾有の復讐劇、いざ開幕!(西村京太郎『松山・道後十七文字の殺人』)

「鮎の串焼き」に比べて何と面白そうなことか。逆に言えば、夢、あるいは夢小説の神髄は、要約するとこぼれ落ちてしまうような細部にあるといえる。他者に自分の夢の話をするとき、どうしてもディティールをはしょってしまいやすい。しかしその細部にこそ夢の価値がある。これも感動の共有を困難にしている一因なのだろう。

夢の普遍化

ディティールに夢の神は宿る。では、夢の内容を細大漏らさず書けば、それだけで深い共感が得られるのであろうか。恐らく無理だろう。それらのフラグメントが他者にも感興を及ぼすという保証はない。むしろ、フラグメントは夢を見た本人に特化したものである可能性が高い(それゆえに感動も大きいのだが)。夢を小説化するならば、これらのフラグメントを他者とも共有可能なイデアに変換する必要がある。

「鮎の串焼き」において、出された料理が「鮎」だったことは俺にとって重要なポイントである。俺は魚が好きであり、その中でも鮎は五指に入る好物だからだ。しかし魚が嫌いな読者にとっては何の魅力もないし、そうでなくとも、鮎好きでなければ俺ほどの喜びは訪れまい。かといって、万人が好む食べ物など存在しないので、出される料理を変えれば小説として成立するという簡単な問題でもない。では諦めて、小説の冒頭に「俺は鮎が好きだ」と書けば大丈夫だろうか。それもダメなのである。「何が出てくるのか」と期待しているところに、突然「鮎」が出てくるから良いのだ。結局、鮎を変更しても効果はなく、鮎が俺の好物であると告知することもできない。読者が俺の嗜好を知らなくとも、ガツガツと鮎を食っている描写から「彼は鮎が好きなんだな」とわかるだろうが、しかしそれでは遅いのである。鮎が初めて登場したときに俺が味わった衝撃は永遠に失われる。

……なんて考え出すとキリがない。俺が感動したのは鮎だけではないのだ。登場人物、風景、時間の流れ、それらを含んだ全体の雰囲気。絶妙なバランスの上に築かれた調和を崩すことなく、このイメージを一般化するのは不可能としか思えない。夢を(面白く)小説にするのは、かくも難しい。

肯定的な考えも書いておく。上記の事柄は、「俺が得た感動のボリュームを、できるだけ落とさずに他者へ伝達する」ときの課題である。夢を「そのまま」小説化したところで「つまらない」かと言えばそうでもない。夢には、夢を見る本人が所属する共同体の原風景が現れることが多く、これらは同じ共同体のメンバーにとって概ね「快」である。「鮎の串焼き」では、「処女林の清流」「割烹着の女」「味噌汁」などがそうだ。ゆったりとした小説背景の中にこれらのアイテムが登場するだけで、大半の日本人に何らかの感興を与えるであろうことは予測できる。無意識に希求しているからこその、「こんな風景が俺の中にもあったんだ」という喜びもあろう。そういう観点から見れば、夢を単純に小説化することにも、全く意味がないとはいえない。文学のレベルに押し上げる難しさに変わりはないけれど。

一昨日に続いて長々と書いたが、これまでの夢の話は、あくまでも「願望の結実」のケースについてのみである。最も幸福なタイプの夢であり、だからこそ掘り下げて分析するのも楽しい。夢には悪夢もあり、意味不明な夢もある。これらの夢の小説化には、また違う問題が横たわっているだろう。一考の余地はあるが、素人がわざわざ不快な夢について思いを巡らすのもなあ。楽しい夢だけを見たいものだ。