- Diary 2005/03

2005/03/31/Thu.

面接に行ってきた T です。こんばんは。

面白いというか、ヤバいというか、知らずとも良いことまで知ってしまったような、そんな面接だった。メチャクチャ楽しかったけど、今ここで、そのことについて書くのははばかりがある。結果は、遅くとも来週末には出るという。期待しないで待ちましょう>俺。

法的にも、本日をもって 18年間に及んだ学生生活が終了する。明日からは無位無官の身。社会的に丸腰の状態で、どのように道を切り開くか。徒手空拳。アチョー。

2005/03/29/Tue.

今日はよく歩いた T です。こんばんは。

大学関係の手続きとか、就職活動の準備とかで、ドタバタと 1日を終えた。車を出してもらったり、書類を印刷してもらったりと、ヒゲマン氏には大変お世話になる。ありがとうございました。件の面接は明日。関西で行われるので、明晩は実家に寄る予定。

就職活動日記

で、その面接に持っていく資料なんだけど、最初の1枚と最後の 1枚の色調が全然違っていることに、さっき気付いた。俺はいつも、自分が研究しているタンパク質をスカイブルーで塗っているのだが、それがどんどんとドス黒くなっていき、最後には静脈血のような色になってしまっている。どうやら、ブルーのインク・カートリッジの残量が途中で切れたようだ。パラパラとめくっていくと、グラデーションがかかって面白い。

先方から資料の持参を要求されているわけではなく、使うかどうかもわからないので、別に構わない。配ったとしても、隣の人のプリントとはほとんど色が変わらないのでバレることもないだろう(円卓だったら困るけど)。どうしても気になるなら、コンビニで白黒コピーにしてしまえば良い。

……何だか俺も図太くなったよなあ。細かいことなんか、一々気にしてられっか。

2005/03/28/Mon.

ここ数日、書くことがなくて困っている T です。こんばんは。

就職活動日記

履歴書を書く。やたらと書き損じてはイライラする。一回もミスをせずに、手書きで B4 用紙を埋めるなんて、人間には不可能なんじゃないかとすら思えてくる。コンピュータで文章を書くことに慣れ切ってしまったため、キメ書きができない。このまま期日までに履歴書が用意できないのでは、という妄想に襲われる。そんなバカなことはあり得ないし、何だかんだで書き上げたんだけれども、エラく時間がかかってしまった。

散髪に行ってから、履歴書に添付する写真を撮る。Yシャツとネクタイもクリーニング屋に出してきた。2ヶ月前にもネクタイの洗い方で迷ったことがあるが、悩んでいる時間がないのでクリーニングに出した。ネクタイ2本の洗濯代が、Yシャツ 5枚分のそれと同じだったので少し驚く。自分で洗えということか。

小心者

昨日の日記をアップした直後、余所様とカブっていることに気付いて慌てる。時事ネタを扱う以上、ある程度の共時性は覚悟しなければならないのだろうが、俺はあまり時事ネタを書かないことにしているので、たまにこういうことがあるとアセる。パクリじゃないですよ、えへへ。この手のことに関しては、我ながら気が小さい。

2005/03/27/Sun.

21世紀にもなって、今さら万博もないだろうと思う T です。こんばんは。

愛・地球博

愛知万博がイマイチ盛り上がっていないらしい。

愛知万博 開幕 3日目 想定 45万人を大きく下回る(毎日新聞)

今日び、万博なぞに行かなくとも、日本国中に娯楽施設は溢れている。「環境を守るため」だか何だか知らないが、弁当の持ち込みすらできないような所に誰が行くんだ。環境を守りたかったら、今すぐ万博をやめれば良かろう。で、そこまでして守られている森に住んでいるのが、「モリゾー&キッコロ」という名のイメージ・キャラクター。

モリゾー&キッコロ < こいつらじゃあ盛り上げられんだろ。

就職活動日記

懸案の面接の日程が決まった。色々と考えてしまうが、この1年間の経験から、想像は悪い方へと膨らむばかり。何も考えまい。受験あるのみ。

2005/03/26/Sat.

久し振りに心から驚いた T です。こんばんは。

自分が日常的に使用している語彙の数に興味がある。正確に調べるのは困難だろうが、例えば「修羅場、どっと混む」の全ファイルをスキャンすれば、およそのオーダーは判明すると思う。そこで、文章から単語を抜き出してインデックスするようなプログラムを作ってみようかと考えたのだが、いざコードを書こうとすると途方に暮れる。

日本語は「膠着語」(こうちゃくご)という言語グループに属する。単語と単語を助詞(いわゆる「てにをは」)で接続する言語である。このような言語の解析は難しい。英語なら単語がスペースで区切られているので、機械的に単語を抽出することができる。しかし日本語は、まず「どこからどこまでが単語か」という判断から始めなければならない。この判断を「形態素解析」という。大袈裟な名称だが、Webサイトの検索などを思い起こせば、意外と馴染みの深い概念であることに気付くだろう。

形態素解析を行うには単語のデータベースが必要になるが、個人で用意するのは難しい。そこで、愛機にインストールしている電子辞書のファイルを利用できないものかと思い、試しにエディタで開こうとしたらシステムが吹っ飛んだ。後から確認すると、ファイルサイズが 160 MB もある。そりゃ無理だ。見出し語を抽出できればと思ったのだが……。

言語解析に関するサイトを見て回っているうちに、「uzura」という人工無能の存在を知って驚いた。これはスゴい。ちょっと形態素解析を勉強してみるか。

2005/03/25/Fri.

修士課程を卒業した T です。こんばんは。

俺は参加しなかったが、今日は卒業式だった。おめでとうございます > 卒業される方々。ありがとうございました > 皆様。

K.N.嬢より学位記を受け取る。紙切れには恭しく「理学(修士)」なんて書かれてあるが、自分が「理学を修めた」という実感はない。これはあくまで名刺みたいなもので、これからも一生勉強は続く。それでも「理学を修める」のは無理だろうがな。っていうか、漠然としている。本気で「理学とは何か」などと考え始めたら、気が狂うに違いない。学問に呑み込まれてはダメだし、淫するのも良くない。

「学ぶのに時間を費やし過ぎるのは怠惰である」(フランシス・ベーコン)

キツいね、ベーコン先生。彼の考え方は多分にエリート主義的なところがあるから、愚昧な俺には受け入れ難い部分もあるんだけれど、しかしこの言葉は真理だろうな。とにかく立ち止まらないようにせねば。仕事、早く決めないとなあ。昨日の就職活動日記に書いた面接の件だが、いまだ日程は定まらず。来週か。筋肉の話ができそうなので、それはちょっと楽しみ。

2005/03/24/Thu.

学生人生もあと1週間の T です。こんばんは。

大学院から「博士課程に進学しないのなら辞退届を出せ」という連絡が来る。日記に書くのをウッカリ忘れていたが、入試には合格していたのである。書類を出しに、久し振りに大学へ行った。その後、ヒゲマン氏とカレー屋へ。骨付きのチキン(よく煮込んであって、肉がボロボロとこそげ落とせる)のカレーとチャイを食す。さらに、ビールと肴を買い込み、午後は我が豪邸で語らいあった。ありがとうございました。

就職活動日記

応募していた仕事の一つから返事が来る。近く面接の予定。ありがたい。

Server Change つづき

サーバを移転してから 24時間が経過。DNS サーバの設定というのは一斉に切り替わるのではなく、個々のサーバでマチマチに変更されるようだ。経由するアクセスポイントによって、旧サーバのデータが表示されたり、新サーバのデータが表示されたりする(トップの「お知らせ」の文言が違うので判別できる)。全面的な移行までには、今少し時間がかかりそうだ。

新しいレンタルサーバでは Perl 5.8.0 が利用できる。このバージョンのPerlには、テキストのエンコード/デコード機能が標準で搭載されている。これで「News」も文字化けなしで読めるようになった。出力されるテキストのエンコーディングを統一できるので、UTF だろうが EUC だろうが ISO だろうが、どんな RSS/RDF ファイルでも拾ってくることができる。っていうか、用途は RSS に限らないけどな。また面白い使い道を思い付いたら、シコシコとコードを書いてみるつもり。動くモノをすぐに作れるのが、スクリプトの良いところだ。

これはプログラムには関係ないけれど、.htaccess(これは前のサーバでも使えたが)を利用してオリジナルのエラーページを作ったり、ひとしきり遊ぶ。新しいサーバでは自由にサブドメインを作れるので、これも有効な利用法があれば試してみたい。

それから、ついに Movable Type(フリーの blog システム。以下「MT」と略す)が利用できるようになった。NCBl システムを作るときに、数社の blog サービスを利用して研究したんだけど、以前のサーバでは、blog の総本山とも言うべき MT をインストールできなかったのだ。そのときに始めた blog の一つは、今でもメモ書き(ネットで見かけた気になる情報を、ひたすらコピー・ペーストした簡易データベースみたいな感じ)に利用しているが、これを機会に、自分のドメインで MT を運用してみるのも良い勉強になりそうだ。

2005/03/23/Wed.

サーバを移転した。DNS (Domain Name System) サーバの設定が反映されるまで、24〜48時間かかるらしいが、引っ越しへの猶予期間みたいなものか。レンタルサーバ自体は使えるようになっているので、ユーザアカウントでアクセスしてチェック済み。以前と全く変わらない環境を準備して、サーバが切り替わるのを待っている状態。

とはいえ、サーバが Win ベースから Unix ベースに変わったことで、幾つかの CGI が動作しないというトラブルにも見舞われた。改行コードやパスをいじっただけで直ったものの、「動くからエエわ」という姿勢ではいかんなあと反省。以前のサーバは凄く設定がゆるやかで、パーミッションやファイル・パスの指定が曖昧でも動作するようになっていた。それは利用者の便宜を図った結果なのかもしれないけれど、やっぱりそういう基礎的な部分を理解していないと、いつかは痛い目に会う。良い勉強になった。

2005/03/22/Tue.

ポエマー (poemer; 詩人。Poet とは別物) が嫌いな T です。こんばんは。

芸術とルール

俺は滅多に詩を読まない。書いたことは一度もない。詩は最も自由な文芸である。それ故、良くも悪くも芸術的だといえる。「芸術」の定義も難しいところだが、「対象を評価するとき、その基準を自己の中にしか持ち得ないもの」と仮定してみる。客観的評価基準の希薄な創作分野ほど、その芸術性が高いということになる (「芸術的価値が高い」のではない点に注意)。

具体的な例として、俳句を分析してみよう。俳句は「五七五の 17音で表現し、その中に季語を含む」というルールがある。それによって我々は、ある句を評価するとき、「ルールに則っているかどうか」という判断基準を外部に求めることができる。あるいは逆説的に、「墓のうらに廻る」(尾崎放哉) という句を「破句」として評価することができる。ルールに従うべきはずの「俳句」として発表したからこそ、「墓のうらに廻る」という句は評価され得る。このセンテンスが 1編の「詩」として発表されたら、どういう評価を受けただろうか。まァ無視されるだろうな。

創作には常にこの問題がつきまとう。どこまでルールを遵守するか、どのルールを破るか。意識の高い創作者であれば、自らが切り開いた境地を律するルールの整備すら視野に入れているかもしれない。しかし、ルールを土台に据えているという事実は変わらない。ここが決定的に詩と違う。

ルールなき芸術 - 詩

ここで「詩」と書いているものは、主に散文詩を想定している。字数や音律に厳しい漢詩などは、どちらかというと俳句などに近い。旋律に乗せて人間が歌うという前提を考慮した歌詞なども、ゆるやかながらルールが存在する。これらは比較的評価がしやすい。取っ付きやすいと言い換えても良い。評価の枠組みがあるからだ。この「枠組み」というのは重要である。99% の凡人は、この枠組みがないと不安になる。「何物にも縛られずに自由に書いた詩です。貴方の感性で評価して下さい」と言われて喜ぶ人間は少ないだろう。誰だって、自分の感性に自信なんか持てない。

作者の観点から立つと、自分の詩を評価されるための基盤がないということになる。彼の力作が評価されないのは、「鑑賞者の感性」に評価されなかったからである。こんな苦しい創作はない。それ故に、最も芸術性が高いと俺は思う。これがルールでガンジガラメにされた探偵小説ならば、もっと話はスッキリする。「犯人がすぐわかる」「このトリックは物理的にあり得ない」など、非常に客観的な価値観で評価される。明快だ。そこで「探偵小説は文学でない」という論争が起こるわけだが、少なくとも「探偵小説の芸術性は低い」という主張は正論だと俺は思う (繰り返し述べるが、探偵小説の「価値が低い」わけではない)。

とまあ、ストイックに考えれば、詩作というのは大変厳しいものである。ルーズに考えれば、これほど作者に逃げ道が用意されている創作分野もない。作者はいつでも「お前らは俺のゲージュツを理解できない」と言うことができる。この主張を「誤りである」と証明することは不可能だ。だからといって「正しい」という証明もできないから、論争は延々と平行線をたどる。「詩のサイトは荒れる」というジンクスがあるらしいが、当然の帰結といえよう。それに耐え得る者のみが、本当の芸術家としての一歩を踏み出すことができる。

2005/03/21/Mon.

春にリニューアルすることが多い T です。こんばんは。

ドメイン占い

世の中には何でもあるもので、「ドメイン占い」なんてものまである。で、「shuraba.com」を占ってみたのだが、

shuraba.comの本日の運勢は……大凶 です! アクセス数激減。誰かが悪いうわさを流してる? まずは身内を疑って!

誰だよ、「悪い噂を流している身内」ってのは。

Web日記

レンタルサーバを変えようかな、と考えている。ちなみに上記の「ドメイン占い」は、レンタルサーバ/ドメイン登録サイトを見て回っていたときに見付けたものだ。

一口にレンタルサーバと言っても、色々なサービスが展開されており、値段もピンからキリまである。現在のサーバの安定性には満足しているが、スクリプトを使うには若干の不自由があり、料金もやや高目である。レンタルサーバを変えて、いっそのことドメインも新しく取って、全く別のサイトを始めてみようかなあ、などと夢想する。まァ、暇だからそんなことを考えるわけだが。

新ドメイン云々はともかく、「修羅場、どっと混む」が肥大化しているのは事実である。例えば「Diary」では、1ヶ月分の日記を一つのファイルにまとめている。これは 1日あたりの記述が短く、更新も毎日していなかった頃のシステムを惰性で続けているだけである。月日が経つにつれ、日記の分量はどんどん増えていき、今ではちょっと実用的でないように思える。当初はバイクと CG くらいしかなかった「Special」も、現在では何かのリンク集かと思えるくらいに項目が増えてしまった。正直、見にくい。

抜本的にファイル構成やデータ処理を考え直す時期なのかもしれないが、おびただしい作業量を考えるとゾッとする。それならいっそ新サイトで……と魔が差しているわけだ。「俺は〜である」のような暑苦しい文体もやめて、素知らぬ顔で爽やか管理人を演じてみるのも面白い。その際にネックとなるのが、「修羅場、どっと混む」というサイト名。まじまじと見返すに、ホントふざけたドメインだと思う。いや、気に入ってはいるけれど。

情報と管理

「修羅場、どっと混む」は、俺が生成・保持している情報の中で、最も大きなボリュームを誇る。仕事の書類から趣味のデータまで、誰しもが日常的に様々な情報を管理しているわけだが、その管理運営方法を考えねばならない場面は、あまり存在しない。情報量が処理能力の限界に達するとどうなるか。大抵の場合、その管理方法を考えるまでもなく、情報は既存の処理システムに移行される。確立されたシステムに情報を委ねることによって、管理にかかる負担は軽減される。

日記サイトなら、以前の日記をコピー・ペーストして(それはそれで結構な労働だが)、Blogなどのシステムに管理させるというのも一つの手だろう。基本的に「管理」というのは創造的な仕事ではない。「管理システムの構築」も、本来の目的から見れば二義的な行為だ。それでも俺は、自分で管理したい。わがままだろうか。仕事ならば、そんな悠長なことは言っていられないだろうが、趣味のサイトであるし、情報管理の訓練だと思って、できるだけ効率的なシステムを組み上げたいと思っている。

それが面倒臭くて「新サイトを……」などと言い出しているから世話はない(ちょっとリセット願望も入っている)。全く説得力がないなあ。

2005/03/20/Sun.

T です。こんばんは。

昨日はラーメン屋D にて、Dr.B、ヒゲマン氏と会食。Dr. B から博士論文を頂く。ありがとうございました。

日記に書くことがない。今日は 3食全てをボンカレーで済ました。合計金額は煙草 1箱よりも安い。まことに結構な食事である。

2005/03/19/Sat.

昔は小説を書いていた T です。こんばんは。

ハードディスクからの誘い

ひょんなことから、20歳の頃に書いた小説のファイルが出てきた。出てきたも何も、最初からハードディスクの奥底に眠っていたわけだが。別のファイルを探す目的で検索したところ、そのキーワードをタイトルに含む小説が引っ掛かってきたので、つい開いてしまった。

懐かしい……とでも書けば、一種の懐旧譚になるのだろうが、とても懐かしむどころではなかった。開いたファイルは文字化けしており、読むことすら不可能であった。俺が一所懸命に小説もどきを書いていた当時の愛機は、Mac OS 8 や 9 で動作していたから無理もない。Mac OS X になったときに、フォントの仕様がガラリと変わってしまったからだ。

さすがに不憫であり、文字化けを直してやる。文章が出てくると、思わず読んでしまう。書いた俺自身も完全に内容を忘れている。執筆から数年を経て、ようやく客観的な評価を下す機会に恵まれたともいえる。そう思って読み進める。ヒドい文章が多い。思わず手直ししたくなる。が、下手に修正しても、その部分が浮くだけだ。我慢して読む。赤面、噴飯、冷汗。自分でも恥ずかしかったが、素直に面白く読めた作品もあった。アホかオマエは、と昔の俺を罵りたい部分が多いけれど、結構やるやん、と褒めたい部分もある。

そんな時間を過ごしながら、色々と過去のことを思い出した。そういうわけで、今日は回想録を書く。他人にとっては何ら面白くもないだろうが、暇ならお付き合い頂きたい。

前世紀の記憶

俺が初めて文章らしい文章を書いたのは、高校3年生の9月下旬である。何を書いたかは忘れてしまったが、この時期であることに間違いはない。「書く」というのは何と難しいことだろう、そう思った記憶だけがある。情けない話だが、そのまま放り投げてしまった。ただ、それ以後、読書量は増加したように思う。

大学生となって、文芸部に入った。何故ここに入部したのかは、自分でもよくわからない。恐らく居心地が良かったとか、そんな消極的な理由だったと思う。少なくとも、「では一筆まいらせる」という意識はなかった。文芸部では年 4回、150部の部誌を発行していたが、部員になっても執筆の義務はない、と言われた。気が向けば書くという、そのスタンスが俺を安堵させた。

大学 1年生とは、想像以上にヒマであった。入学したばかりでバイトもせず、授業もロクになく、かといって金もないので、毎日部室に行っては時間を潰した。「5月に部誌を出す」という話だったので、では一丁書いてやるか、と思い立った。件のファイルの作成日を見ると、「1999年 4月 18日(日)17:34」となっている。どうせ夕方まで寝倒した挙げ句、起きてもやることがなかったので書き始めたのだろう。

B5 用紙に縦書き 2段組で、27ページの探偵小説を2週間ほどで書き上げた。初めてにしては結構な量である。しかも、物理トリックを説明するイラストまで入っている。我ながら怖いもの知らずだと思う。当時の俺は、熱心に探偵小説を(半ば義務的ともいえる使命感をもって)体系的に読破してやろうとしていた。処女作が探偵小説というのは、必然だったのかもしれない。それにしても最初から物理トリックに挑戦するあたり、若いというか何というか。いやはや、としか言えない。

遊里郷

この小説は、そこそこの好評を賜った。多分に世辞もあったのだろうが、尻の青かった俺は嬉しかったようで、2ヶ月後の 6月 18日(土)10時 58分には、第2作に取りかかっている。この作品も探偵小説であった。プリントアウトした原稿を最初に読んでくれたのは、ふらんそわ氏だった。彼が読み進める様を、俺は隣で見守っていた。ふらんそわ氏が最後の1枚に目を通し始めてから約 1分、彼は「あっ」と声を上げた。そして、原稿から顔を上げて俺を見た。「驚いた」と言ってくれた。

「これまでで最も嬉しかったことベスト 5」に入るであろうこの瞬間、俺は「書く」という行為の虜になった。文章をしたためている人は皆、似たような経験があるのではなかろうか。それ以後、研究室に配属されるまで、幾つかの小説を書き散らした。たった数年前のことだが、今思えば、夢幻の世界に遊んでいたような感じである。

よくあんなエネルギーがあったものだ。今でも「何か書いてみようか」という気持ちが芽生えることは、ままある。しかし、それに必要な時間と労力を考えると尻込みしてしまう。書き始めたら楽しいんだろうなあ、とは思うけど、そこに持っていくまでが大変だ。毎日日記を書くことで、欲求が円滑に発散されているという面もある。小説なぞ、もう死ぬまで書かないのかもしれない。

自分の作品が掲載されている部誌は、ちゃんと保存している。久し振りに引っ張り出してみたが、かなり色褪せていた。その点、デジタルデータはいつまでも精細なフォントで、若かりし頃の文章をディスプレイに映し出す。何だか奇妙だった。掘り出したファイルを PDF に変換し、CD-ROM に焼き付けた。少しは固定化されたような気分になる。封印、という意味ではない。記念品みたいなものだ。

2005/03/18/Fri.

新潮文庫の愛読者、T です。こんばんは。

読書日記

司馬遼太郎『司馬遼太郎が考えたこと 3』『4』を読了。1960年代後半に書かれたエッセイがまとめられている。『竜馬がゆく』『坂の上の雲』が発表された頃で、エッセイも、幕末から日露戦争の話題が多い。

それにしても、このタイトルは何とかならんのか。「イチゴがたっぷりはいったヨーグルトです」とか、それが商品名(固有名詞)なのかというネーミングを、数年前からよく目にするようになった。本当にそれが「イケてる」とでも思っているのだろうか。だとしたら、言語感覚が鈍磨し切っているとしか思えない。「名前を付けるのが面倒臭い」という理由の方が、まだ救いがある。ましてや、ここで問題にしているのは書籍のタイトルである。女子供を相手にした可愛らしい食品とはワケが違うのだ。

『司馬遼太郎が考えたこと』は新潮文庫から出版されている。どうも新潮社、ここ数ヶ月の動向が怪しい。その最たるものが「文豪ナビ」と称された、一連の有名作家ガイド本である。夏目漱石、芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫と、錚々たるラインナップで発刊されている。その趣旨はよろしい。が、若者に媚び過ぎたコピーや表紙が気持ち悪い。芥川龍之介の場合、あの有名な肖像写真をトレースした不細工な線画が、表紙右下に配されている。その横には「文豪 新 体験宣言!」とある。書名が『文豪ナビ BUN-GO NAVI 芥川龍之介』、サブタイトルが「カリスマシェフは、短編料理でショーブする」というのだから笑うしかない。

俺は哀しい。大好きな新潮文庫が、ここまで書籍音痴の輩に愛嬌を振りまかねばならないという、その出版界の現実が哀しい。新潮文庫といえば、大時代的で垢抜けない表紙、小さな活字に上等とはいえない紙質、そのくせ、ヒモの栞はどんな薄い文庫にもついている。国語や歴史の教科書に掲載されている本を読もうと思えば、まずは新潮文庫を探してみる。それが海外のものならば、なおさら。そういうイメージがある。その古色蒼然たる、まこと「文庫」の名に相応しい新潮文庫が、俺は大好きだ。それが今や、「カリスマがショーブ」である。哀しい。

新潮文庫よ、もう媚びるのはやめてくれ。今更始めたって、もう遅い。昔の新潮文庫に戻ろうじゃないか。以前のように、怖くて気持ち悪い表紙を本屋に陳列してくれ。『江戸川乱歩傑作選』の装丁など、最高に気味が悪かった。カバーいっぱいに印刷されたドストエフスキーの顔写真は、彼が偉大な作家であることを雄弁に物語っていた。白い背景に朱色の文字で大書された三島由紀夫の名は、その著作が内包しているであろう禁忌的な愉悦を俺に予感させた。その栄光を捨て、「カリスマがショーブ」の世界に旅立とうというのか。もう一度よく考えろ。

……いかん。新潮文庫について語り過ぎた。もう一冊、宮嶋茂樹/大倉乾吾『不肖・宮嶋&忍者・大倉 一撮影入魂!』も読んだ。相変わらず不肖・宮嶋は面白い。本書は、相棒の忍者・大倉との対談。二人でモノにしたスクープ写真が撮影されるまでの秘話が、いつもの調子で語られている。

2005/03/17/Thu.

三下野郎の T です。こんばんは。

ヤクザはプロフェッショナル

何ともスゴいニュースがあったので取り上げる。

胸、腹刺し「間違えた。すまん」

福岡県警捜査四課と小倉北署は 16日、人違いで無関係の男性を刃物で刺したとして殺人未遂の疑いで指定暴力団工藤会系組幹部中筋賢 (28) ら2容疑者を逮捕した。2人は刺した後で人違いに気づき、「間違えた。すまんやったのう」と言い残して逃げたという。

県警によると、組の別の幹部が、同アパート 1階の一室に出入りしていた元組員と金銭トラブルになっており、部屋を間違えたとみられる。男性は元組員と年齢や背格好が似ていたという。

間違って刺された男性には気の毒だが、それ以上に、本来はプロ中のプロであるべきヤクザが、こんな初歩的なミスを犯したことに驚いてしまう。「すまんやったのう」はないだろ。カタギがヤクザに同じ過ちを犯せば、タダではすまない。そこを「すまん」で済まそうとするあたり、中筋某は全くプロ意識のないチンピラであるといえよう。ヤクザの存在の是非について、ここで論じるつもりはない。ただ、存在する以上はプロフェッショナルでなければならない。それがヤクザである。

ヤクザは文化人

ヤクザは文化人の一種、という考え方がある。彼らは売買春を斡旋し、薬物を代表とする違法な物品の流通を担い、博打のような非合法遊戯を主宰する。が、重要なのは、彼ら自身がそれを消費しているわけではないという事実だ。自らがクスリをやる人間はバイヤー失格、という話はよく聞く。ヤクザはあくまで「提供者」であり、消費するのは、時間と金を持て余す反面、刺激には飢えている旦那衆(ダンベ)なのである。

歴史的に言えば、そのようなアンダーグラウンド・サービスを提供するのがヤクザなのである。俗世では手に入らないから、金がかかる。法で守られていないから、独自の掟を遵守し、鉄の制裁も厭わない。だから彼らはプロであり、客になる方も資格がいる。江戸では、名を遂げた旦那の趣味は「一にヤクザ、二に相撲、三が役者、四に骨董、五が女」であったという。それほど金がかかる。逆に言えば、それくらい「面白い」のである(と、庶民の俺は思う)。

現代に、このような「悪貴族」ともいうべき金持ちがいなくなってしまったのも、ヤクザの質の低下の一因だろう。中学生が覚醒剤を手に入れる御時世である。致し方ないのかもしれないが、やはり庶民とヤクザが交わるのは好ましくない。本当のプロでありさえすれば、客もヤクザも、さほど問題にならないと思うのだが。

2005/03/16/Wed.

食べ過ぎで苦しい T です。こんばんは。

自炊をすると「単価を下げねば」という発想に陥ってしまい、いつも大量に作ってしまう。どうせ食べてしまうから構わないのだが、元より1回では食べ切れないので、食事のやめどきがわからなくなる。1枚の皿にテンコ盛りにしていると、2〜3食分ということを忘れて、「ああ残っている。食べなきゃ」と思ってしまうのだ。今夜も延々と2時間くらい食べ続け、腹がいっぱいというよりは、疲れたのでやめるというバカな真似をしてしてしまった。凄く苦しい。

就職活動日記

ベンチャー企業とは、何をもって「ベンチャー」と言われるのだろうか。

【venture】冒険的事業、投機的企業。投機、ヤマ。(危険を伴う)冒険。(新英和中辞典)

思ったよりもヤクザな言葉だな。「ヤマ」という訳がイカす。しかし言葉の意味がわかっても、「じゃあベンチャー企業は何を冒険しているわけ?」という質問の解答にはならない。何を冒険しているんだろうな。事業内容か、会社経営か。「そんな会社に応募する奴が一番の冒険者だ」なんて。笑えないが。

「堅実なベンチャー企業」という文句は、矛盾した言い回しだということになるなあ。「清純派 AV 女優」みたいなものか。決して存在はしないが、それゆえに魅力的なのかもしれない。

2005/03/14/Mon.

写経をしたことがない T です。こんばんは。

就職活動日記

暇である。就職活動中といっても、先方に「では会って話をしましょう」と言ってもらえなければ、基本的にやることがない。書類審査の返事がなかなか来ない。「なかなか」というのも主観的な感覚で、ひたすら待っている俺にとっての1週間と、年度末の業務に追われているであろう先方にとっての1週間では、体感的な「早さ」が全く違うことは想像に難くない。おまけに、仲介役の斡旋会社も大変に忙しいらしい。順を追って考えると、一々もっともなことばかりであり、時間を持て余している俺の方がおかしいのだということに気付く。この時期はどこも忙しい。俺は写経でもしながら待つとしよう。

コピーとバリエーション

冗談で書いた「写経」でフト思ったのだが、経典をキーボードで打ち込む行為は「写経」になるのだろうか。感覚的に「写経ではない」と断ずるのは簡単だが、「どうして写経ではないのか」という問いに答えるのは難しい。突き詰めて考えると、「肉筆かどうか」が一つの争点になると思う。肉筆というのは、言い換えれば「同じものがない」ということ。その相違に、写経した人間の個性(この場合は「祈り」や「願い」)が宿り得る。つまり「写経」という行為は、コピーではなくバリエーションを産むためのものではないか、というのが我が仮説である。

俺が写経した般若心経と、高僧が写経した般若心経は、そこに書かれている文字は同じでも、やはり別物だ。それが霊的な力の依代となる(仏教は霊魂を否定しているが、あくまで便宜的な記述)。これがキーボードで入力し、プリンタで印字したものだとどうだろう。俺の経典も高僧の経典も全く同一になってしまう。恐らく霊験も希薄であろう。それはコピーであって、バリエーションではないからだ。

あれえ、似たような話をどこかに書いたなあ。探してみたら、1月 1日の「年賀状に見るアニミズム」で同じような主張をしている。写経した経典をモノとして捉えるならば、通ずることがある考え方かもしれない。

話を戻す。バリエーションを、狭義に「個体差」と言っても差し支えはあるまい。となると、これは生命の営みにも深い関わりがある。細胞分裂を基本とする繁殖活動の根本原理は「コピー」である。しかし様々な要因が重なって、完璧なコピーは達成されず、結果としてバリエーションが生じる。それが生物種の豊饒さであり、もう少し狭く見るならば、同じヒトの中でも「私」が唯一無二であることの理由なのだ。

このように考えると、人間が「コピー」に生理的嫌悪感を抱きがちなのも、当然のように思えてくる。現代では「個人」が盛んに叫ばれているが、それはコピーが巷間に溢れていることの裏返しではないか。経典を筆写している時代には、本当の「コピー」は存在しなかった。全てがバリエーションであり、ことさらに「個」を主張するまでもなかった。そういう意味で、近代的なマスプロダクツは、人類が手にした初めての「完璧なコピー」だったのではないか。工業製品にも「個体差」はあるが、それは通常の人間の認識能力では判別できない。全きコピー品なのである。個人主義とやらは、濁流となって溢れ出したコピーに対するアンチ・テーゼなのかもしれない。

2005/03/13/Sun.

アレルギー持ちの T です。こんばんは。

花粉症とプラシーボ効果

幼少の頃はアレルギーに悩まされた俺だが、長じるに従って発症することもほとんどなくなった。その中で、いまだに花粉症だけは健在である。昨日は久し振りに外出したため、部屋に戻ってからは目が痒い。すぐに着ていたものを洗濯機に放り込む。とにかく身体から花粉を洗い流すことが大切で、外出後の風呂と洗濯は must do である。アレルゲンがなければアレルギーも起こらない。

シャワーを浴びた後、ベランダに干した洗濯物を眺め、「ザマア見ろ花粉め」と毒づく。しかし次の瞬間、洗濯物を屋外に干せば、再び花粉が衣服に付着してしまうことに気付く。何てことだ。下宿生活を始めてから 6年間、一度もそのことに思い至らなかった俺って……。しかも、「洗濯した服は花粉もついてないから快調やわ」と喜んでいたのだから、極め付けのバカである。

ううん……、それでも洗濯した服に着替えると、症状が軽減される実感はあったんだよなあ。プラシーボ効果か。花粉症も、本当にアレルギーかどうか怪しいもんだ。ポジティブ思考は身を救う。前向きに生きようと思った、風の強い午後。

2005/03/12/Sat.

ドキンちゃんが好きな T です。こんばんは。

「ちっとは出歩いた方がイイんじゃない?」というヒゲマン氏のアドバイスに従って、街中をブラブラ。ホワイトデー前の週末とあってか、人出は多い。本屋には、「平成17年の夏採用」云々という本が平積みになっていた。こんな本を作って儲かるということは、俺と似たような境遇の人間も結構いるんだなあ、などと複雑な心境に至る。

雪がチラついてきたので帰宅。暖かくなり始めたと思ったらコレだもんなあ。三寒四温か。字面からも容易に想像できるが、「三寒四温」という言葉の起源は中国にある。素人目には、大陸と日本列島の気圧配置は全く異なるように見えるが、それでも似たような気象状況が発生するようだ。ひょっとしたら、同緯度では世界的な現象なんだろうか。

音楽日記

英語を使わんといかんなあと思い、アンパンマン『勇気の鈴がリンリンリン』の英訳に挑む。

勇気の鈴が リンリンリン
不思議な冒険 ルルル
あんパン 食パン カレーパン
ジャム バター チーズ ランランラン
目玉がランラン バイキンマン
それゆけ僕らの アンパンマン

Bravery bell is Ring - ing - ing
Strange adventure, Do Do Do
Bean-jam bread, Loaf bread, Curry bread
Jam, Butter, Cheese, Dang Dang Dang!
Big eyes' shining, Rang Rang Rang, Virus Man
Let's go to fight, everyone's Bean-jam Bread Man!

怒られない程度に遊んでみようかと考えている。

2005/03/11/Fri.

T です。こんばんは。

昨夜はヒゲマン氏を我が豪邸にお招きして歓談。この 3週間でまともに人間と会うのは 2回目。バイクを売り払ったことや就職のことなど、色々と話を聞いてもらった。ありがとうございます。

躾、教育、勉強

2004年度の文部科学白書に、「日本児童の学力は世界のトップレベルとはいえない」と明記されていることがニュースになっていた。「ゆとり教育」とやらが始まったときから予測できた結果で、何を今さらという感じもあるが、危機的な状況であることには違いない。さっさと詰め込み教育を復活させれば良いのだ。これは小学校だろうが大学だろうが関係ない。「詰め込む」以外の勉強方法があるのなら教えてほしいものだ。是非、試してみたい。

「勉強」という言葉は、「強いて勉める」と書く。自分でやるか、他者にやらせられるかは別として、そもそもが強制的な性格を持つ行為である。ある程度の年齢になれば、自発的に己を強制できるようになるが、児童にそんなものを期待できるわけがない。子供に「勉強」させたいのなら、最初は大人が「詰め込んでやる」しかない。それが教育だと思うのだが。

これは体罰とも関係してくる考え方ではないか。「二度とひっぱたかなくても済むように」、最初の過誤はどつき回してでも矯正しなければならない。そういう意味で、俺は体罰肯定論者である。「言ったらわかる」なんて、そんなことは信じない。「言ったらわかる」奴は「言わなくてもわかる」場合が多く、「言わなければわからない」奴は「言ってもわからない」ことがほとんどだ。その明暗を分かつのが、最初の一撃ではないか。再び漢字の話になるが、「躾」(しつけ)という文字は、「身が美しい」と書く。身体で覚えさせなければならないことは、確実に存在する。

勉強のやり方を身に付けるまでは、無理矢理にでも机の前に座らせるしかない。それさえできれば、テストの点数なんか後から付いてくるさ。

2005/03/10/Thu.

ライダー失格の T です。こんばんは。

就職活動日記

昨日の日記で「担当者、死んでんじゃねえの?」と書いたその直後、「残念ながら意に添えない」というメールを受け取った。別にそれは構わんのだが、放置プレイで貴重な時間が浪費されるのは困る。先方もそれは承知のようで、

連絡が遅れましてまことに申し訳ございません。
これからも宜しくお願い致します。
これからも宜しくお願い致します。
これからも宜しくお願い致します。

って、お願いし過ぎ! 恐らくテンプレートのコピーを失敗したのだろうが、ちょっと怖かったぞ。そこまで卑屈にならなくとも……。これからも宜しくしないわけにはいかんな。

というわけで、新たな仕事にエントリー。今度は早く返事が来ると良いのだが。

バイク日記

愛車の点検も兼ねて、バイク屋に車検の見積もりを頼んだ。タイヤとブレーキ・パッドが摩耗しているから交換した方が良いと言われる。なるほど、そこは俺も気になっていた所だ。いくら大事に乗っているとはいえ、タイヤやパッドは消耗品である。ヘタれば交換、当たり前の話だ。ましてや、購入してから既に 4年が経過している。距離を走っていなくとも、そろそろ本格的な整備が必要になる時期なのだ。

見積書には、ちょっと払えないような金額が記されていた。ボラれているわけではなく、俺の予想よりも安いくらいだったが、我が支払い能力をオーバーしていることに違いはない。車検貯金をしていた最初の 2年間とは異なり、後半の2年間はバイトもせず、学会へ行くたびに破産しては親に泣きつくような有り様だったので、車検これあるを知りつつも、全く手持ちがない。潮時なんだろうなと思った。色々と。

「売るなら今だよ」と店員氏に言われる。4月になると、税金、名義変更がややこしい。3月も下旬になっては、手続きが間に合わないという。俺には、4月以降も愛車を保持する資格があるのだろうか。そんなことを自問する。そもそも、来月から自分がどうなるのかもわからない状況で、バイクもクソもないだろうと思えてくる。手放したくはない。しかし、ロクに整備もできぬまま、愛車を路上の錆とするのか。公道を走るために作られたエンジンが、火もつけられずにカバーをかぶっているのを眺めて、「俺の所有物。我が愛車」と悦に浸るのか。それは違うだろう。

愛車を売った。

歩いて部屋に帰り、即金で支払われた万札でパンパンにふくらんだ財布を壁に叩きつける。後悔はしていない。ただただ自分が情けない。そりゃあ金策をすれば、どうにか解決はできただろう。でもそれは俺にとって、何というか、「違う」としか言い様がない。何が「違う」のかは不分明だが、再びバイクにまたがれる日まで頑張れば、自ずと答えは出てくるのだろう。

2005/03/09/Wed.

急に新しいパソコンが欲しくなった T です。こんばんは。

Mac日記

たまには Mac オタクっぽいことを書いてみる。

Mac ユーザになって丸9年、今までに 3台の愛機を使用してきた。ほぼ 3年ごとに買い替えているわけで、そろそろ新しいマシンが欲しくなるのも無理からぬことだ。単なる物欲ではなく、最新のソフトを使って「遅い」と思うことも多くなってきた。これまでに使った 3台の内、2台は PowerBook(ノート型)である。多少割高であるが、「どこでも使える」という魅力は捨て難い。

ちょうど現行の PowerBook G4 が良い具合に枯れており、長く使えそうに思える。iMac G5 の価格は魅力的だが、PowerMac G5 と差別するために、わざとデチューンしているので買うのがバカバカしい。ベンチマークのスコアが iMac G4 とほとんど変わらないってアホか。G5 を載せる意味がない。それもこれも G5 の開発が遅れているせいだがな。しっかりしろよ、IBM。Apple の CEO、Steve Jobs が「3 GHz の G5 を出す」と約束した期限はとっくに過ぎている。いつになったら PowerBook に G5 が搭載されるのか。まだまだ先のことになりそうなので、やはり選択肢としては現 PowerBook G4 が最良と思える。iBook G4 との差別化を図るため、こちらは良い意味でのチューン、価格設定がなされているし。

……とか書いてたら、ますます欲しくなってきたぞ。ああ、メモリをたらふく積んだマシンで、3D モデルをヌルヌル動かしたい。

就職活動日記

「担当者、死んでんじゃねえの?」と思えるくらいに返事が来ない。忙しいのはわかるけど。ちょっと別件も考えねばならんな……ということで、求人情報を巡る。ここで投げ遣りになってはイカン、と頭では理解しているけど、正直しんどい。

2005/03/08/Tue.

今年の初乗りを果たした T です。こんばんは。

バイク日記

久し振りに愛車にまたがった。最後の「バイク日記」が昨年の 11月 12日だったから、実に 4ヶ月ぶりだ。暖かくなったら乗ろうと思ってはいたのだが、何だかんだで再開する気分になれず、今日までカバーをかぶせたままだった。可哀想なことをしたと反省する。

走らせたら走らせたで、やっぱり楽しい。ヘルメットをかぶっていても、その解放感は自動車の比ではない。米国のどこかの州では、バイク乗車時のヘルメット装着義務がないという。羨ましい話だ。一度、「バイクを乗りに」米国に行ってみたい。レンタルするのは、もちろんハーレー・ダビッドソン。いつ実現することやら。

そんなことより、我が愛車をこれからも維持できるのかという方が大問題だ。現在の状態がズルズルと続くと、糊口をしのぐためにマシンを手放す可能性も出てくる。そこまで困窮しなくとも、5月には車検がある。その費用をあがなえなければ、いずれ公道を走ることは無理になる。

俺がバイクに入れ込んでいるのは、バイク自体がもたらす快楽は元より、それを手に入れるまでのプロセスにも沢山の思い出があるからだ。少し大袈裟に言うならば、我が大学生活の半身であったといっても良い。そんな愛車を売り払うのは断腸の思いだが、自分にオーナーの資格がないとなれば致し方あるまい。身から出た錆。そうならないように願うばかりである。って、願ったところで効果はないんだけど。頑張るしかねえな。

批判のための批判

と、何を書いてもテンション下がり気味なのが最近の悩み。そこで、「文章のテンションを上げるには?」みたいなキーワードで検索したところ、何とも微妙なページに辿り着いた。某評論家が書いた「国語教科書の朗読」に関する論文を、国語教育関係者が批判しているページだった。サブタイトルが「XX 批判」(XX は論文のタイトル)とあって、もうそこでゲンナリである。

俺も日記で色んな事柄を叩いたりしているが、なるべく建設的な意見や提言を書くように心がけているつもりだ。「批判のための批判」は何も産まない。せいぜい執筆者の歪んだ優越感を満たすくらいで、第三者にとって有益なものになることは、まずない。

この国語教育関係者の文章を読んで、俺が何とも言えない気分に捕らわれたのは、先日交わしたにはふ兄との会話が恐らく関係している。在野の自然科学研究者というのは現代においてほとんど考えられないが、人文科学の分野には、沢山の在野研究者が存在するらしい。その多くが中学や高校の教諭であるとのことだが、ほとんどが自己満足のレベルで終わっているというのが大兄の指摘であった。俺には縁のない世界であり、その真偽のほどは保証しかねる。が、今日目にした国語教育関係者の文章は、にはふ兄が言うところの典型であったような印象を受けたのは事実である。

在野の研究者全てがそうであるとは思わない。そもそも「在野」という言葉に、アカデミズムの傲慢な差別意識すら感じる。そこには明らかに、「アカデミズム=中央」という図式が存在する。そんなに単純なものではない、というよりもむしろ、あってはならないと信じたい。自己満足というならば、学問自体が自己満足の世界ではないか。その価値は、各研究の成果によってのみ評価されるべきだ。

ならばこそ、在野の人は自らのコンプレックスを払拭しなければならない。「批判のための批判」は、最初から批判対象の「権威」を認めていることに等しい。学問にアンチもレジスタンスもない。そんなものは思考にとっての足枷だ。学問に限った話ではないが、でき得る限りの資料を揃え、自分の頭で考えたことのみが意味を持つ。結果として、他の論と内容的に対立することもあるだろう。相手との相違を比較するのは有意義なことである。相手が誤っている(と自分には思える)点を指摘するのも良いだろう。が、「批判」することで何が産まれるのか。相手を折伏したら、自分が正しくなるのか? 違うだろ。政治じゃないんだから。学問には、常に豊かな裾野が必要だと俺は思うのである。

なんて長々と書いたけれど、サイエンスとは違う世界なので、トンチンカンな意見かもしれない。「証明不可能な問題」について、様々な論説が林立するという事態そのものにピンと来ないからだ。サイエンスであれば、「いずれ証明されるであろう現象」に対する考察はあくまで「仮説」であり、大抵の場合、いつか白黒がハッキリする。狭義の自然科学が「証明可能な問題」のみを扱う以上、「折伏」は起こり得ない。折伏に熱心な研究者がいたら、まず政治屋と見て間違いないだろう。どちらの世界にもそれぞれ問題はあるのだろうが、せめて個人としては真摯でありたいよなあ。

2005/03/06/Sun.

さすがに日曜は就職活動に動きがないため、進展はないけれど何だかホッとする T です。こんばんは。

酒宴日記

昨夜は義兄達と居酒屋R にて飲み会。いつもと似たような話を、いつものように語り合って、割と早めに解散。「いつものように」というのは、ただ馴れ合っているだけじゃないのかという気もするけれど、若干の楽観的感想を含めて、やはり違うと断じたい。何故なら、俺に対して最も辛辣な意見を述べてくれるのが彼らであるからだ。と同時に、全肯定もしてくれるわけだけれど。まァ、こういう友人を持っている人には、何となく理解して頂けるかと思う。万全の体調ではなかったので少し疲れたが、楽しい会だった。ありがとうございました。

自分付き合い

朝起きて、掃除、洗濯、風呂と立て続けにやっつけたら多少はスッキリした。午後はボンヤリと、色んなことを考える。なかなか手に入らないものが多くてヤキモキする。金で買えるなら方策の立てようもあるが、そう簡単に解決するものばかりではない。焦燥感というのは、何かをやり遂げるためには絶対に必要であると思うけれど、時間、つまり「待つ」という行為も欠くべからざる要素なのではないか。そんなことが脳裏を去来する。バランスが難しいところだ。今さら、という感もあるが。

「金では買えないものがある」という箴言は全面的に真ではあるけれど、あまりにも自明過ぎることであり、格言的な価値は低い。「金で買えないものをどうやって手に入れるか」という、しごく現実的な課題に答えるところがないからだ。「金で買えないもの」は多岐に渡り、それを獲得するための具体的方法も千差万別である。自分で考えろということか。必要なのは努力だろうか。運だろうか。その中に「時間」という解答はあるのだろうか。待っているつもりで、実は単に惰眠を貪っているだけではないのだろうか。

「果報は寝て待て」「待てば海路の日和あり」「急がば回れ」など、「待つ」ことの必要性を説く成句は多い。一方で、「光陰矢の如し」「少年老いやすく学成りがたし」など、立ち止まることを戒める言葉も存在する。この事実が、もはや一般論など成立しないことを如実に証明している。全てから逃げ出したいならば、「何をしようと最初から結果は決まっている」と言って、悲観的な運命論者に転向ことすら可能だ。何を選ぶにせよ、それは自分の自由と責任である。

……と、こんな抽象的思考に淫すること自体、現実からの逃避ではないのか。という、冷静でメタな分析をする自分もいる。己の分身といえど、同時に全員と上手く付き合うことは難しい。困ったものだ。

2005/03/05/Sat.

善き兄達に恵まれた T です。こんばんは。

就職活動日記

Mac OS X 10.3.8 アップデートにより、Mail.app でメールの送信ができなくなる不具合が発生する(こともある)という記事を見かけて蒼ざめる。まさか、エントリーしたつもりになっているだけで、実はメールが届いていないのではないかという不安に駆られる。ログファイルを確認したところ、全て無事に送信されていたようで一安心。

相手とリアルタイムのやりとりをせずに済むのが、メールの便利なところである。しかしそれは、連絡が伝わったかどうかを確認する術がないということでもある。仮にメールが届いたところで、相手が読むという保証もない。せめて読まれたかどうかだけでも知りたい、という場合も現実にはある。この点が解決されない限り、通信手段としての電話はまだまだ生き残るだろう。とまァ、これは電話嫌いな俺の意見である。

買物日記

久々に外出。本屋にて、大山倍達『強くなれ! わが肉体改造論』、京極夏彦『続巷説百物語』、司馬遼太郎『司馬遼太郎が考えたこと 4』を購入。

酒宴日記

今夜はこれから義兄弟で酒宴。4人が揃うのは昨夏以来であろうか。人間と対面するのは 2週間ぶりなので、少し緊張する。

2005/03/04/Fri.

T です。こんばんは。

普段の買い物でクレジットカードを使うことなんてないのだけれど、学会の参加費やホテルの宿泊費は、ネット上で予約・決済することが多い。何だかんだで、それなりのポイントが溜まっている。カード会社から送られてきた今月の決済書には、ポイントの有効期限が切れそうなので早めに消費しろと書いてあった。こういう貧乏臭いサービスは嫌いで、大抵の場合は無視するのだが、学会のたびに見舞われた金銭的苦労を思い出すと捨てるには忍びなく、物品と交換することにした。その直後、その考え方こそが貧乏臭いということに気付いて情けなくなる。

それが数日前のこと。そして今日、頼んだ景品が届くというので朝から待っていたのだが、一向にやって来ない。煙草が切れ、腹も減ってくるが外出できないので困る。たとえ数分でも、その間に配達夫が来訪するかもしれない。仮にそうなると、彼と俺とに一つずつ余分な仕事が増えることになる。そんな面倒はゴメンだ。クレジットカードの景品ごときにそんな手間をかけたくない、という気持ちもあって、ここらへんの考え方もやはり貧乏臭い。それを回避するためにジッと部屋で待ち続けるのも似たようなものだが。ポイント交換などした俺がバカであったと胸をかきむしる。

夕方、ようやく荷物が届く。欲しくもない景品リストの中から、最も実用的であると思われた小皿のセットを注文していたのだが、開封したところ、ものの見事に割れていた。

2005/03/03/Thu.

ムダ飯ばかり食っている T です。こんばんは。

これまでにも何度か日記で、「安易なカタカナ語やアルファベットの略語は嫌いだ。日本語を使え」と書いてきたが、その理由について詳しく述べた記憶がないので書くことにする。

カタカナやアルファベットで容易に置き換えられてしまう日本語は、ネガティブな意味を持つ場合が大半である。表意文字である漢字は、見ただけで悪い印象を醸し出す。それを無味無臭のカタカナやアルファベットで代用するのは、要するに隠れ蓑ということだ。現実は何も変わらないのに、あたかもマシになったかのように錯覚する。というよりはむしろ自己暗示に近く、これは文明人、あるいは日本語という優れた言語を操る文化人として欺瞞ではないのか。

開国以降、太平洋戦争までの日本が驚異的な発展を見せたのは、知恵を絞って外国語を訳し続けた明治人の功績に負うところが大きい。日本の初等教育の効果が優れているのは、比較的高等な概念、特に科学に関するそれを、既に定着した母国語で習得することができるからだという。例えば基本的な元素を表す日本語、水素、酸素、窒素などなどが存在しない世界で化学を勉強することを想像すれば、その恩恵がいかに巨大かということがわかる(逆にこのことは、外国語を会得する必要性を相対的に下げてしまったことにもなるわけだが)。

しかしそれは半世紀から1世紀も前の話、という意見もあろう。現代において英語の習得は不可欠であり、「新しく入ってくる言葉」をわざわざ日本語に訳す必要性は薄れつつある。コンピュータ、インターネット、データベースなどに対する訳語の需要はない。何ヶ月前であったか、政府の委員会がこれらの言葉を「正しい」日本語にしようと原案を練っていたが、出てきたのは奇態な訳語ばかりであった。明治人ほどのセンスがないのであれば、もう訳す必要はないと思う。

ではいったい何が問題なのか。俺が腹立たしく思うのは、「立派な日本語がありながら、それをカタカナやアルファベットに置き換えること」である。合理的な理由があるのならばともかく、臭いものには蓋とばかりに、都合の悪い言葉ばかり言い換えるのは言語に対する冒涜だ。例えば「NEET」なんかはその典型だ。何がニートだ。ちゃんと「穀潰し」という日本語があるではないか。心の中で「自分ハ無職ノ穀潰シデス」と呟いてみろ。俺のことだが。ゲッソリするよ。何せ「穀を潰す」のだからな。凄い言葉だ。

とまあ、素晴らしい日本語というのは、このような自省を促すほどの魔力がある。こんな味と歴史のある言葉を、どうして捨てようとするのか。そんなに他人を、自分を傷つけるのがイヤか。殺傷力のある言葉を使いこなせない人間は、言葉で他人を幸福にすることもできないと俺は思うのだが。

2005/03/02/Wed.

「ゴルゴ13」のデータベースでも作ろうかと考えている T です。こんばんは。

今月の「ゴルゴ13」を熟読。我もかくありたし、と強く思う。毎月思っているような気もするが。

「ゴルゴ13 がホームページを作ったら」という想定のネタサイトがあれば面白いだろうなあ、などと考える。ゴルゴのデータベースは沢山あるけれど、そういう「なりきり系」は目にしたことがない。誰かがやるというのであれば、このアイデアを使って頂いて構わない。ただし俺に URL を教えること。少し脱線するが、東条英機のなりきりサイトがあって、個人的にかなり注目していたのだが、最近になって閉鎖されてしまった。いずこから圧力でもあったのだろうか。

ゴルゴ13 自らが運営するサイトがあったとして、果たしてそれはどんなものか。日記とか書いてほしいよなあ。ほとんど「……」としか書かれておらず、たまに「仕事を引き受けた」と近況報告。これじゃあ、つまらんか。ネットでは別人格、という設定の方が良いかもしれない。「今、仕事でパリに来ています! エールフランスの機内食は美味しいですよ (^^)」とか。凄く読みたい。掲示板も各国からの依頼で盛り上がっている。

初めてカキコします。CIA のジョン☆スミスと申します <(_)>ペコリ。

いつも管理人さんのお仕事には感動しています! 私も頼みたいお仕事があるので、メアド貼っときますね。ペタペタ。

sjohn@cia.org

PASS を頂けたらチャットに行かせてもらうので、そのときはヨロシクです。私がよく出現するのは午後 11時以降です。あ、これは米国時間ですね。管理人さん、どこに住んでるのかわからないから(爆)うまく時間が合うと良いんですけどねえw

わはははは。自分で書いていて何だが、笑える。誰かに作ってほしい。

2005/03/01/Tue.

筒井康隆をよくパクる T です。こんばんは。

一昨日の夢日記「鮎の串焼き」を書いてから、「夢と小説」について考えている。これまた尋常ではないほど大きなテーマだが、ナニ、いつものことなので気にせず日記に書く。「鮎の串焼き」を未読の方は、そちらから御覧頂きたい。

夢の小説化

「夢を小説にする意味があるのか」というのは、それなりに古い文学論争の一つである。しかしこれは、やや評論家(=読者)寄りの話題という印象がある。筒井康隆を筆頭に、「夢の小説化には意味がある」と断じる作家(=実作者)は多い。また、優れた夢小説が多数あることはまぎれもない事実である。夢の小説化は様々な文学的課題を提供する。現場の作家がそれらを魅力的なものとして捉え、克服せんと奮闘しているのだから、必ずや大きな実りがあるだろう。意味はあるのだ。

「『夢日記』を書く効能は色んな書物で説かれている」と一昨日の日記に書いたが、これはあくまで精神医学的な効果であり、その恩恵は日記を書く本人にしか及ばない。夢自体は「個人的な体験」であるから、そこで得た感動を他者と共有するのは難しい。一方、夢を小説化するからには、読者を選ぶにしろ、ある程度以上の共感を獲得できなければ小説として失敗に終わる。「夢の小説化」における最大の困難がここにある。作者は、夢の感興を一般化・普遍化しなければならない。

まず、我々は夢の何に感動するかを知る必要がある。少し考えれば、感動の要因がストーリーにはないことに気付くはずだ(全くないというと語弊があるが、恐らく比重は小さい)。例えば「鮎の串焼き」のストーリーを要約するならば、

山奥の小さな飯屋で旨い鮎の塩焼きを食った。

となる。お世辞にも「面白そう」とは言えまい。これが小説だと、話の骨格がしっかりしていれば、技術が多少未熟でも楽しく読めるものが書ける。普通の小説のストーリーがいかに「面白そう」であるか、新潮文庫の宣伝文から引用してみよう。

松山で開催された俳句祭りで、殺人を宣告する不気味な投稿句が見つかった−−。十津川警部を翻弄する未曾有の復讐劇、いざ開幕!(西村京太郎『松山・道後十七文字の殺人』)

「鮎の串焼き」に比べて何と面白そうなことか。逆に言えば、夢、あるいは夢小説の神髄は、要約するとこぼれ落ちてしまうような細部にあるといえる。他者に自分の夢の話をするとき、どうしてもディティールをはしょってしまいやすい。しかしその細部にこそ夢の価値がある。これも感動の共有を困難にしている一因なのだろう。

夢の普遍化

ディティールに夢の神は宿る。では、夢の内容を細大漏らさず書けば、それだけで深い共感が得られるのであろうか。恐らく無理だろう。それらのフラグメントが他者にも感興を及ぼすという保証はない。むしろ、フラグメントは夢を見た本人に特化したものである可能性が高い(それゆえに感動も大きいのだが)。夢を小説化するならば、これらのフラグメントを他者とも共有可能なイデアに変換する必要がある。

「鮎の串焼き」において、出された料理が「鮎」だったことは俺にとって重要なポイントである。俺は魚が好きであり、その中でも鮎は五指に入る好物だからだ。しかし魚が嫌いな読者にとっては何の魅力もないし、そうでなくとも、鮎好きでなければ俺ほどの喜びは訪れまい。かといって、万人が好む食べ物など存在しないので、出される料理を変えれば小説として成立するという簡単な問題でもない。では諦めて、小説の冒頭に「俺は鮎が好きだ」と書けば大丈夫だろうか。それもダメなのである。「何が出てくるのか」と期待しているところに、突然「鮎」が出てくるから良いのだ。結局、鮎を変更しても効果はなく、鮎が俺の好物であると告知することもできない。読者が俺の嗜好を知らなくとも、ガツガツと鮎を食っている描写から「彼は鮎が好きなんだな」とわかるだろうが、しかしそれでは遅いのである。鮎が初めて登場したときに俺が味わった衝撃は永遠に失われる。

……なんて考え出すとキリがない。俺が感動したのは鮎だけではないのだ。登場人物、風景、時間の流れ、それらを含んだ全体の雰囲気。絶妙なバランスの上に築かれた調和を崩すことなく、このイメージを一般化するのは不可能としか思えない。夢を(面白く)小説にするのは、かくも難しい。

肯定的な考えも書いておく。上記の事柄は、「俺が得た感動のボリュームを、できるだけ落とさずに他者へ伝達する」ときの課題である。夢を「そのまま」小説化したところで「つまらない」かと言えばそうでもない。夢には、夢を見る本人が所属する共同体の原風景が現れることが多く、これらは同じ共同体のメンバーにとって概ね「快」である。「鮎の串焼き」では、「処女林の清流」「割烹着の女」「味噌汁」などがそうだ。ゆったりとした小説背景の中にこれらのアイテムが登場するだけで、大半の日本人に何らかの感興を与えるであろうことは予測できる。無意識に希求しているからこその、「こんな風景が俺の中にもあったんだ」という喜びもあろう。そういう観点から見れば、夢を単純に小説化することにも、全く意味がないとはいえない。文学のレベルに押し上げる難しさに変わりはないけれど。

一昨日に続いて長々と書いたが、これまでの夢の話は、あくまでも「願望の結実」のケースについてのみである。最も幸福なタイプの夢であり、だからこそ掘り下げて分析するのも楽しい。夢には悪夢もあり、意味不明な夢もある。これらの夢の小説化には、また違う問題が横たわっているだろう。一考の余地はあるが、素人がわざわざ不快な夢について思いを巡らすのもなあ。楽しい夢だけを見たいものだ。