- 細胞の「状態」

2010/07/29/Thu.細胞の「状態」

心臓の再生医療を行いたいとする。皮膚のような細胞から大量の心筋細胞を作ることができれば随分と便利である。現時点でも、皮膚細胞を iPS 細胞化し、得られた iPS 細胞を心筋細胞に分化させれば、目的を達成することができる。また、皮膚細胞を直接に心筋細胞へと transform できればなお良い。このような研究は既になされている。近い内に技術も確立されるだろう。

以下は比喩というより、妄想の類である。

酵素反応論の教科書で必ず見られる図がある。例えば次のようなものである(「酵素反応速度論 - Wikipedia」より)。

酵素反応

上記の例でいえば、reactants に皮膚細胞、products に心筋細胞を当て嵌めても違和感がない。Energy level に相当するのが differentiation potential である。中間生成物を経る(energy level の山を越える)過程は、細胞を脱分化させる過程に似ている。適当な酵素によって反応に必要なエネルギーが抑制されるのと同様に、適切な因子を導入することで細胞の reprogramming 効率を高めることができる。

(以下では「エネルギー」を多様な意味で用いる。細胞が利用できる資源、といった意を含んでもいる)

Differentiation potential の物理的実体は chromatin の特定の状態、すなわち epigenetics であろう。直感的な仮説だが、その epigenetics の維持(chromatin の修飾、remodeling/transcriptional factor の発現、外来遺伝子の silencing など)に細胞が要する、ないし費やすエネルギーは、恐らく未分化な細胞ほど大きい。これは、ES/iPS 細胞の核が大きく細胞質が小さいという形態的特徴や、未分化な細胞ほど活発に分裂する事実と無関係ではないだろう。

逆に、分化した細胞の epigenetics(を含む様々の状態)は、低いエネルギーで物理化学的に安定するような構造であると思われる。だから分化は spontaneous に進行し、分化するべき細胞へとしか分化しない

体細胞の種類は、たかだか数百である。これは、iPS 細胞のような artificial な細胞の状態が、放っておいても数百の内のどれかに収束することを意味する。これは実は不思議なことである。iPS 細胞はずっと未分化なままでも良いし、nature に存在しない細胞へと変化しても構わないはずだが、しかし必ず体細胞へと分化する。分化した細胞はエネルギー的に安定した状態だからである——、そう考えると一応の説明がつく。

精密に制御された分化の過程というイメージは、多分、幻想である。実際はかなりの部分が「自動的」であるのだろう。生命は省エネルギーである。起こるべき反応が起こるべくして起こるのは、それが物理化学的な意味で「自然」だからである。不自然を演出するときにのみエネルギーが使われる(細胞内外のイオン濃度勾配の実現など)。

最終分化した心筋細胞や神経細胞が分裂しないこと、長期間に渡って活動し続けること、活動に必要な物質を外部からの供給に依存していることなどについても、上記の観点から考えると面白い。一つ付け加えるなら、分裂しない細胞の genome は、あらゆる意味で「遺伝」情報ではない。

心筋や神経といった重要な細胞には情報に過誤があってはならず、それが広がる(個体内で遺伝する)のは論外である。しかし、細胞が分裂するという高いエネルギー状態はしばしば誤りの侵入を許し、これを検出・修正するにはさらなるエネルギーが要る(ES 細胞のような高エネルギー状態)。絶え間なく旺盛に活動する細胞に、これらのエネルギーを追加で供給することは難しい。よって、心筋細胞や神経細胞は分裂しない=低エネルギーで安定させるという方針で運営される。

この仮説は、体細胞の多くが使い捨てであることも説明する。全ての体細胞を完全な状態に保つのはエネルギーの無駄である。そこで、衰えた細胞は寿命で死ぬか、殺されるか、自殺してもらう。代わりに、幹細胞や前駆細胞といった少数の集団のみを高いエネルギーで維持し、必要に応じて新しい体細胞を供給する。低エネルギー状態への遷移は半ば「自動的」であり、しかも落ち着いた先で安定する。この過程は「自然」なので速やかに進行し、時間的損失は許容範囲内だから系は乱れない。かつ、全体のエネルギーは節約される。

この妄想をこれ以上展開するには、「エネルギー」についてより具体的に論じなければならず、癌細胞についても述べなければならないが、不勉強で今はその力がない。特に、epigenetics に関する我々の知識はいまだ不充分である。Genome でいえば、塩基配列を一所懸命に読んでいるような段階といえよう。その情報が意味するものを充分に汲み取れてはいない。