- Diary 2010/06

2010/06/30/Wed.

人工知能の話題を追いかけていると、「将棋のプログラムは随分と強くなった」という文句を定期的に見かける。日夜進歩している様子が門外漢にも伝わって来て、頼もしい限りである。一方、囲碁のプログラムについてはとんと噂を聞かぬ。

「いい度胸」

そんなところに、「世界最強銀星囲碁ハイブリッドモンテカルロ」(PS3)が登場する。物凄いネーミングだが、これはアルゴリズムの形式(ハイブリッド型モンテカルロ法)に由来するという。

モンテカルロ法と聞いて驚いた。これは要するにランダム法なのである。「モンテカルロ法とは多項式時間で処理が終了されることは保証されるが、導かれる答えが必ずしも正しいとは限らない乱択アルゴリズム(ランダム・アルゴリズム)と一般に定義される」(「モンテカルロ法 - Wikipedia」)。

囲碁のプログラムが弱いのは何故か。

よくいわれるのは、序盤における囲碁の多様性である。駒の初期配置が決まっている将棋に比べ、真っ白の画布にデッサンの当たりを付けるがごとく始まる囲碁の序盤は、なるほど「手を読む」という感じが希薄である。また——素人考えではあるが——、碁石の「生死」という概念も、感覚的な要素が大きい(アルゴリズムに落としにくい)ように思われる。

「いい度胸」

つまり、ハイブリッドモンテカルロでは、「感覚的な要素」をモンテカルロ法によって再現・攻略しようとしているのである。そして、この「モンテカルロエンジンが生成した手を、もうひとつのエンジンが評価」する(「世界最強銀星囲碁10」)。ゆえに「ハイブリッド」なのだという。ハイブリッドだからマルチスレッドと相性が良い。プラットフォームが PS3 になるのも納得がいく。

寡聞にして知らなかったが、PC 版も発売されており、当然マルチコアに対応している。実力は二段だというから、なかなかのものである(「4Gemer.net - ハイブリッド型モンテカルロエンジン搭載「世界最強銀星囲碁10」12月18日に発売」)。

2010/06/27/Sun.

保阪正康『天皇が十九人いた』を読み、天皇家について色々と考えた。

天皇家は万世一系ということになっているが、南北朝問題に見られる通り、歴史を通して盤石であったわけではない。古い時代では継体天皇(第二十六代)などは相当怪しい。

それから、女性天皇の問題がある。江戸時代の明正天皇(第百九代)と後桜町天皇(第百十七代)を除き、女性天皇は推古天皇(第三十三代)から称徳天皇(第四十八代)までの間に集中している。

推古は皇女にして皇后ではあったが、聖徳太子という聡明な皇子がいながら、慣例を破ってまで即位した理由は謎である。聖徳太子に蘇我氏の血が入っているからという説もある(推古も蘇我氏の娘だが)。

推古から、次の女帝である皇極天皇(第三十五代)=斉明天皇(第三十七代)に至るまでも面白のだが、ここでは割愛する。この時代はとにかく系図がややこしい。

斉明の跡を、息子の天智が襲うことになる。ここで「王朝」というものをどう考えるか、という問題が出てくる。下記の系図を参照してほしい(数字は代数、太字は女性)。

     ┌─────弘文39           高野新笠
     │                     ┠───桓武50
     ├─────施基皇子───────────光仁49
     ├─────元明43            ┃
┌天智38┤      ┃              ┃
│    └持統41  ┠──┬文武42─聖武45┬井上内親王
│      ┃    ┃  └元正44     └孝謙46
│      ┠───草壁皇子          (称徳48
│      ┃
└─────天武40─舎人親王─淳仁47

天智(中大兄皇子)と天武(大海人皇子)は斉明の息子であるといわれているが、天武は天智の異父兄弟とする説もある。仮にそれが真実であれば、これまた万世一系を危うくする一事である。

天智が大化の改新で蘇我氏を血祭にあげた事実は、推古ー斉明の流れを考えると興味深い。ともかく天智は即位し、その後は天武ということになった(とされる)。しかし天智は、自らの息子である弘文(大友皇子)に位を譲りたくなる。それを察した天武は吉野に隠棲し、天智の死後には弘文が即位した。ところが天武は壬申の乱を起こして皇位を奪取する。天皇家の内乱であり、南北朝分裂に匹敵する事件でもある。

ここで「天智朝/天武朝」とできれば簡単なのだが、ことはもう少し複雑である。天武の皇后は天智の娘・持統である。持統は息子の草壁皇子を即位させたかったが、草壁は若くして死んでしまう。そこで、草壁の息子・文武(軽皇子)の即位を目指し、持統自身が帝位に就くことになる。持統は皇女にして皇后でもあるから、推古の例と似ていなくもない。

やがて成人した文武が即位するが、この天皇もまた早世してしまう。そこで、文武の息子・聖武までのつなぎとして、元明が即位する。彼女は皇后ではないが、皇女ではある。

元明の後には、文武の姉・元正が即位する。父が天皇ではない唯一の女帝である。未婚のまま天皇となったので、結婚もできない。完全に、聖武に位をつなぐためだけの女帝である。

聖武には成人した男児がいなかったので、娘の孝謙が跡を継いだ。彼女もまた未婚のまま即位したので、やはり結婚はできない。弓削道鏡との噂が取り沙汰されたのはこのためである。

孝謙は後に、天武系の淳仁(舎人親王の母も天智皇女だが)に位を譲るが、この天皇は間もなく廃位を宣告される(淡路廃帝)。孝謙は称徳天皇として重祚するが、いかんせん天武の血を持つ男子がいない。仕方なく、姉の井上内親王と結婚していた光仁に位を譲ることになる。

光仁と井上内親王の間には男子がおり、皇太子にも叙せられていたが、これも何故か廃され、代わりに高野新笠が生んだ桓武が立てられる。高野新笠は百済系渡来人の末裔とされており、今上陛下がその出自に触れられたこともある。桓武の即位により天武の血統は途絶えた。

この王朝はいったい何であろうか。天武朝といっても、血統的には天智朝でもある。全体的に、むしろ天智の血の方が濃い。天武朝などなかったとすらいえる。

持統、元明、元正は、何の血統を維持するために女帝となったのだろうか。事跡の多い持統はともかく、元明、元正は明らかにつなぎである。特に元正のケースは極めて危うい。それから、直系男子がいない状態で即位した孝謙天皇、彼女は何を考えていたのか。彼女はつなぎですらない。仮に愛子内親王が即位すれば、その立場は孝謙と似た難しさに直面するだろう(悠仁親王の誕生で、この心配はほぼなくなったが)。

2010/06/26/Sat.

有害図書を指定したり、非実在青少年を保護するというのなら、まずは『源氏物語』を焚書にすればどうか。少女監禁飼育事件(若紫)などはヒドいものである。

芸術と猥褻の間に法律で線を引くのは愚かなことである。澁澤龍彦の例を出すまでもない。

これと関連して、娯楽作品における性と暴力の問題もまた論じるだけ虚しい。Apple ではこの規制が厳しく、日本の漫画の掲載は絶望的だと聞く。性や暴力を扱わない娯楽作品がどれだけ存在するというのか。ディズニーとジブリ、あとは『サザエさん』くらいか。二十歳を越えてもこのような作品にしか興味を示さぬ者がいたら、その方がよほど恐ろしい。

ところで、'00 年代最高の映画は『ダークナイト』である、という評があるらしい。これに対して激怒していたブログがあり、意を同じくした。『ダークナイト』は『ダークナイト』である以前に『バットマン』である。「最も面白い映画」というのなら理解もできるが、「最高」という評価は不見識としかいえない。

各人が評価を戦わせるには、前提として評価軸の一致を要する。価値観といっても良い。現代ではこれが多様化しているので、議論が成り立たない場合も多い。しかし、他者と語り合う必要などあるのだろうか。溢れるほどのコンテンツに囲まれるようになった今、ふとそんなことを思う。触れるべき作品は多く、人生は短い。

価値観の多様性は認められるべきである。結果としての孤立をどう受け止めるべきか、それこそが問われている。孤高をもって自らの価値観を守るなら、孤独に耐えられぬ者どもの群れとも、ときに対峙せねばならぬ。エネルギーを費やして戦わぬまでも、自分の評価軸を語る言葉くらいは用意しておいた方が良い。

2010/06/20/Sun.

元テクニシャン S 嬢の結婚式・披露宴に出席した。チャペルでの簡単な式と、友人たちだけの立食パーティで、虚飾を好まぬ彼女らしい(彼女は普段、化粧をすることもない)宴であった。新郎新婦は随分と前から同棲・入籍しており、また皆もそのことを知っているので、今日になってことさらに涙を流す者もなく、全般的に明るい雰囲気で大変良かった。ドレス姿にも関わらず、軽快な足取りで闊歩し、あちこちを盛り上げる S 嬢の姿が印象的な一日だった。

おめでとう。

2010/06/17/Thu.

膜宇宙論という理論がある。それから、アカシック・レコードという概念がある。宇宙と細胞は同じではないのか。無論、冗談である。

歴史に興味があり、その時代時代の文化や社会、法律や経済にも関心がある。けれども、現在におけるそれらには食指が動かない。過去は固定されているが、「今」は流動しているからである。

生物学では、「今」眼の前に生きている生物を実験の対象にする。しかしその過程で我々が触れるのは「今」ではない。Homo sapiens は約二十五万年前に成立した。したがってヒトの研究は、二十五万年前に関する研究でもある。例えば DNA は、モノとしてこの考えを担保する。歴史における文献のようなものである。

化学反応や物理法則、あるいは数学も同様である。程度の差こそあれ、いずれも固定され、流動していない。これを普遍性という。普遍だから解き明かす意義がある。

逆説的だが、普遍性には限界がある。我々の生物学は、地球の生命に対してのみ有効である。我々の知る物理法則は、ビックバンからある時間後においてのみ適用される。ある公理系で得られた定理は、その公理系でしか使えない。

科学の研究は、しばしば「最先端」と形容される。最新の望遠鏡は最古の銀河を捕捉する。発揮される普遍性は、固定されているがゆえに時空を超越する。いつどこで見ても同じだからである。

2010/06/16/Wed.

最近読んだ本を掲げて書評に代える。

いずれも大変面白かった。面白かっただけに、書評を物すのが億劫である。書きたいことが沢山あり、時間が取られるからだ。真面目に書くと、一作に一、二時間かかることもある。しかし力を注いだところで、しょせんは評論、創作物である元の本を越えることはない。

下手な書評を書くよりは、その時間で他の本を読みたい——。Book Review は、このジレンマをいまだ解決できずにいる。

2010/06/15/Tue.

モデムが故障して、先週末はインターネットに接続できない状態で過ごす羽目になった。随分と不自由である。おかげで読書に耽ることができたが、逐一の調べものができなかったので、消化不良の感も残った。

小説などの文芸作品は別として、書籍単体で充分な満足を得ることは難しい。詳細な註釈、最新の情報をインターネットで補完するといった作業を、読書家は日常的に行っていることだろう。

現在の検索サイトは、検索語を入力することでその真価を発揮するという設計になっている。「調べたいこと」がない者にとって、Google は何の価値もないサイトである。インターネットを利用した情報の収集には能動性が要求される。「求めよ、さらば与えられん」。情報格差が生じる理由がここにある。

本は、上記のような自発的な行動の動機を提供する。したがって、不完全でも不親切でも構わない。大枠を提唱し、観点を提示し、関係を提起することこそ重要である。読者は必要に応じて知識を補完すれば良い。その過程で得られた情報の断片が一定量を越えれば、新たに関係付け、体系化したいという欲求が生じる。彼の手は次の書籍に伸びるだろう。本はなくならないと信じられる所以である。媒体は電子化されても、本という形式は生き残るに違いない。

インターネットが一般的になる以前にも、このような循環は存在した。しかし、補完作業には辞書を始めとする膨大な資料を物理的に用意しなければならなかった。仮に準備できたとしても、目的の情報に達するには手間と暇が要る。インターネットは、これらの行為にかかるコストを劇的に下げた。読書循環への参入障壁は取り払われたのである。Amazon の台頭によって書籍の入手も容易になった。結果として、本はもっと売れても良いはずである。

だが、現実は必ずしもそうなってはいない。理由の一つは、出版点数の多さであろう。本の形をした便所紙の束が多過ぎる。一方で、ここ十年来の復刊ブームが続いている。良書の需要が高まり、供給側もそれに応えようとしている動向を確かに感じる。悪書と良書、どちらがどちらを駆逐するのか、現在はその分岐点ではないのか。

在庫の必要がない電子書籍は、「売れない」本——しばしば良書がそうである——と相性が良い。逆に、何となく目に付いた本を買う、といった購入の仕方とは縁が薄い。電子書籍の販売は、本屋でのそれとは全く違う読者の積極性、能動性に左右される。教養の格差もまた、ますます拡がっていくだろう。

2010/06/05/Sat.

今年度から、週末のたびに下手糞なピアノを弾き散らかす輩が近隣に現れて辟易している。クラシック音楽なら、何をしても許されるとでも考えているのか。

この種の理不尽に遭遇したとき、頭に血が昇りやすい人間は、極端な一般化をして過激な理論を確立する。すなわちクラシック音楽はクソであり、クラシック愛好家はクズである。何となれば、他人の迷惑を顧みずに鍵盤を叩く人間はクズに決まっており、クズが愛好する音楽はクソに決まっているからだ。

クズやクソはどれほど罵倒しても構わない。いきおい、「怒る者」は攻撃的になる。

これではラスコーリニコフである。

しかし温厚な者にはこの構造がよくわからない。「何をそんなに怒っているの?」という台詞に、そのあたりの不明がよく現れている。ラスコーリニコフに対する理解もまた、「怒る者」とは異なってくる。

「伝説の英雄のような人類の指導者となるべき選ばれし者は、より大局的な正義を為すためならば、既存の法や規範をも超越する資格を持つ」という独自の理論を持つ青年・ラスコーリニコフは、経済的困窮から志半ばにして法学の道を断念し、荒んだ日々を送っていた。彼は、偶然、阿漕な高利貸しの老婆・アリョーナの話を耳にして以来、もし、自らに、その資格があるのならば、「選ばれし者」として正義の鉄槌を下すべきではないかとの思索を巡らし始め、ある日、遂に、アリョーナの殺害に及ぶ。

罪と罰 - Wikipedia

一般的に、『罪と罰』のストーリーは上のように諒解されている。

しかし「怒る者」にいわせれば、ラスコーリニコフの理論は「独自の」ものでも何でもない。そもそもこの粗筋は順番が逆である。「経済的困窮から志半ばにして法学の道を断念し」たラスコーリニコフは、「伝説の〜資格を持つ」という「理論を持つ」に至る——、というのが正しい。理不尽な状況に対する怒りが、理論以前に動機として存在する。

同じような構造を、ナチス・ドイツによるユダヤ人の迫害に見ることができる。ヴェルサイユ体制によって理不尽な苦痛を味わったという怒りが、ドイツ人にユダヤ排斥の理論を支持させた。

ユダヤ人は「最低の人種」、「悪魔の民」、「反人間」、「非人間」、「他の人種、国家に巣くう寄生虫」であり、アーリア人種とは正反対の存在であるとされた。しかしこれはユダヤ人が無能力であることを指すのではなく、マルクシズム、ボルシェヴィズム、資本主義、自由主義、平等主義、民主主義など「ドイツ的でないもの」の全ての創造者であり、第一次世界大戦の張本人で大戦後のドイツの混乱を生み出した黒幕、つまりドイツの徹底的破壊を狙う大扇動者であるとされた。

ナチズム - Wikipedia、傍線引用者)

偏見によってユダヤ人を「最低の人種」というのではない、ドイツ破壊の「黒幕」だから「最低」なのである、という理屈である。ラスコーリニコフに似た、「怒る者」の理論といえよう(ヒトラーは常に「怒っている」イメージが強いが、これはなかなか示唆的である)。理論により、それが偏見ではないと保証されることで、「怒る者」の良心は呵責を免れる。もちろん、このような理論の奥底に、実際は偏見が潜んでいることはいうまでもない(ラスコーリニコフのロシアにおける「金貸し」が、ユダヤ人を象徴していることは注意するべきである)。

ところで、良心に基づいて罪を自白した(とされる)ラスコーリニコフだが、流刑先のシベリアにおいても、自らの理論について考え続けている。これは何を意味するのか。彼はまだ怒っているのだろうか。