- 天の高さを知る、されど大海を知らず

2008/08/08/Fri.天の高さを知る、されど大海を知らず

井の中の T です。こんばんは。

「井の中の蛙、大海を知らず。されど天の高さを知る」という文句が嫌いだ。「井の中の蛙、天の高さを知る。されど大海を知らず」と書けば、この蛙のしょうもなさが伝わるだろうか。

随分と以前にこんなことを書いた。

「貧しくとも楽しい我が家」

実に良い言葉である。(中略)

「楽しくとも貧しい我が家」

実に嫌な感じである。最初の言葉と意味は同じなのだが印象が全然違う。

つまるところ、この手の言い種は詭弁であり、詐術なのだ。別にそれは良い。テクニックに善悪はない。使い方と受け取り方の問題。で、どちらかというと、乗せられたり騙されたりする方がバカなんだよな。

研究日記

「論文は量よりも質が大事」というのは真であるが、やはり自己欺瞞的な言説である。この表現において軽んじられている量もまた、重要であることは言を待たない。役所に研究費の無心をするときは、むしろ量が決定的な役割を果たすことも多い (ように観察される)。

「量よりも質が大事」という言説を、「量がない人間の負け惜しみ」と解釈するのは非常に簡単である。しかし果たしてそれだけであろうか。むしろ量を保持する側 (これは大抵、質を持つ側でもある) が、自分達の advantage を冒されぬよう意図的に流した高等なデマゴギーである可能性はないか。という読みをするのも面白い。

いずれにせよ、「俺は天の高さを知っているから」といって安心する蛙が一番のバカを見る。得意になって喧伝までするのだから、何とも愚かなことだ。海の広さも天の高さも知っている蛙はゴマンといる。そういう客観的な姿勢のみが言説の詐術を看破する。

話はスライドする。一個の業績によって一人の天才を評価することは可能だが、組織に対してはこれが成り立たない。個々の能力によるバラつきを吸収するのが組織の役割の一つであるから、長期的に見て統計的な安定性を示さない組織は「良い組織」ではない。組織の実績を量が担保するのはそのためである。

ラボという場所は「組織」と呼ぶには小さ過ぎ、個々人の能力による影響が非常に大きい。そういう場においては、「組織の中の人」として個人が振る舞うよりも、個々人が「組織的な人」を演じることが大切である。とか何とか。具体的にイメージはできないけれど。

テクニシャン嬢、隣の研究員嬢と夕食。食事が終わった頃に北京オリンピックの開会式が始まった。30分ほど観たが、退屈だったので帰宅。