- Diary 2008/08

2008/08/31/Sun.

散髪に行ってきた T です。こんばんは。

日々の読書とはまた別に、過去に読んだことのある (そして手元にない) 本の蒐集というのも我が重要な課題である。しかし一般書籍はともかく、漫画までとなると尻込みする。今日も古本屋で、宮下あきら『魁!男塾』文庫版全20巻を見付けたのだが、心惹かれつつも、結局は買わずに帰ってきた。何のために本棚を増設したのかという気にもなるが、数十冊単位で購入し続けられるほどスペースに余裕があるわけではない。

「過去に読んだ」の定義だが、連載媒体でだけ読んだ漫画をどう位置付けるか、という問題もある。週刊少年漫画誌に 20本の漫画が連載されており、各作品が 2ヶ月おきに単行本になるとすると、刊行数は 120冊/誌/年となる (文庫版になると冊数は減るけれども頁数は変わらないのでスペース的には同じである (と書いて気付いたのだが、判型が変わっても版組は変わらないのは、文字の本にはない漫画の特徴だよな))。「目にしたものを全て集める」のは、ちょっと不可能だ。

今回、6畳の書斎から本が溢れてしまった俺は、部屋の数より広さの方がインドア生活に重要なのではないかと考えを改めた。最近では 16畳 1間とか 20畳 1間といった部屋が賃貸にあるから (都市部だけ?)、次はそういう住居に引っ越そうかな、とも思う。いや、むしろ貸し事務所のようなタイプが良いかもしれない。台所いらないし。でも風呂がないとさすがに不便か。理想の書斎の探究は続く……。

どうでも良いが、「蒐集」という単語を見るたびに「鬼のように集めるんだなァ」と思うのは俺だけか。面白い字面だよな。

PC 日記

ダウンしていた Win マシンがようやく復帰した。これまでの流れをまとめておく。

やれやれだぜ。

2008/08/30/Sat.

次は三段ボックスを増設しようと思った T です。こんばんは。

A4版の保管は三段ボックスに限る。

本棚

注文していた本棚が午前中に届いたので早速組み立てた。書斎の壁面はいっぱいなので、寝室 (というか布団が敷いてあるだけの死部屋) に設置する。何となく雰囲気が出る。もう少し家具があればなァ。

書斎の漫画を寝室に移動し、漫画があった場所にあぶれている本を入れる、という形でひとまず整理をする予定。ところで、俺は文庫のカバーを外して出版社別に並べているのだが、他人様は一体どうしているのだろうか。割と気になる。棚すらなく、まるで古紙のように本を積み上げていたジョー兄は論外としても、例えばにはふ兄はどうであったか。作家別に並べていたんだっけ? カバーはかけていたはず。

……などと考えながら買い物に行く。本が焼けないように寝室用の遮光カーテンを購入。眠りも深くなれば良いのだが。起きられなくなると困るけど。

文庫版『ローマ人の物語』も購入。段々と終わりが見えてきたが、コレ、どの時点で完結するんだろう。東ローマ帝国の滅亡までを知りたかったら、やはりエドワード・ギボン『ローマ帝国衰亡史』を読まねばならんのだろうな。『ローマ人〜』が終わったら、手を出してみようと思っている。

2008/08/29/Fri.

結局は出歩かなかった T です。こんばんは。

城壁に囲まれたその街では死者を剥製として祀る習慣がある。かつてはどの家でも全身の剥製を特別の部屋に安置していたものだが、街が拡がり人が増えるにつれて死者が占める空間は次第に割愛されるようになり、今では頭部のみを棚などに陳列する簡便な形式を採る家が多い。それでも富裕な家では、蝋人形館のように生前の暮らしを再現した形で剥製を飾り立てており、それがまた経済力の証ともなっている。

家の中でも特に優秀だった者、出世した者、愛された者の頭部は屋上に祀り立てられる。街の建物の屋根は四角錐台になっており、その天面には故人の業績や言葉を彫り込んだ石造の墓標が据えられる。剥製の頭は墓標の上に固定され、死後も街を見渡しながら家の者を守護するのだ。

屋根に祀られるのはその家の中から一人のみと決まっている。遠い過去に傑出した人物を輩出した家ではずっと同じ頭が祀られることになる。風雨に晒された古い剥製は襤褸のようになって原形を留めていないこともあるが、それはその人物がいかに偉大であったかの証左でもある。少なくとも老人達はそのように考えている。口さがない若い連中は、あの家に何代も傑物が現れなかっただけさと毒を吐く。この感想の違いは、自らが剥製になるまでの予定時間と概ね一致する。もうすぐ剥製になるであろう老人は、頭が家に飾られるような人間になることの難しさを身をもって知っており、一方若者は、いずれ真新しい自分の剥製が我が家の古ぼけた頭に取って代わるに違いないという夢想を好む。

——という夢を見た。面白かったので、また続きが見たい。

夏休み 3日目。昼夜逆転の末、本日も引き篭もり。

文庫版『ローマ人の物語』の発売日が 9月 1日とあったので大人しく待っていたのだが、実はもう売っているらしい。買いに行けば良かった。

以前から疑問なのだが、昼夜を逆転させるのは簡単なのに、夜昼を再逆転させて元に戻すのはどうして困難なのだろう。

2008/08/28/Thu.

ふとカラオケに行きたくなった T です。こんばんは。

最後に行ったのは 2006年末か。先日のバーベキュー大会で、研究員君が「自分の音楽事情は 2000年でストップしている」と言っていた。俺と同じじゃないか、と笑ったものである。俺の場合、バイト中に有線放送を聞くのがポップスとの唯一の関わりだったが、それも 2002年 9月で終わっている。

夏休み 2日目。午頃に起きると雨が降っていたので、MHP2G を遊びつつダラダラ。ディアブロスの最大金冠がなかなか出ない。気が付いたら雨が止んでいる。いつからだ。また無駄に休みを過ごしてしまった。明日こそ出かけよう……。

昨日注文した本棚は週末に届くらしい。設置するために少し部屋を片付ける。バイト募集中なるも、適当な助っ人が思い浮かばない。テクニシャン君あたりに声を掛ければ手伝ってくれるとは思うが、やはり本に詳しい人が良い。新しい書棚の容量は文庫本 1200冊分ほど。大学院を卒業するまでに埋まることはないと思うが、漫画の増え方によってはわからない。

shuraba.com ドメインで運用していたメールアドレスが SPAM で機能不全に陥っていたので、Gmail に移行した。

SP3 でダウンした PC をセーフモードで起動し、SP3 を削除してみたが修復せず。OS の再インストールしかないのか。自動アップデートをかけるとは、つくづく馬鹿なことをしたものだと後悔する。

2008/08/27/Wed.

本棚を注文した T です。こんばんは。

書斎ではない方の部屋の壁に、高さ 2 m × 幅 3 m くらいで設置する予定。書斎に据えたものと全く同じである。楽しみだ。作るのが面倒だけど。本の整理はさらに大変で、バイト代を出しても良いから、誰か手伝ってくれないものかといつも思う。

夏休み初日。特に何もせず、ダラダラ。ゆっくり休めたので、明日は出かけよう。

運動日記

スポーツ・ジム 27回目。論文を書いている内に、随分と間が開いてしまった。

体脂肪の計測は食後。

2008/08/26/Tue.

Win XP を SP3 にアップデートしたら、PC が起動しなくなった T です。こんばんは。

ゴミを勝手に配布したりダウンロードしたりするなよ。

研究日記

実験動物のサンプルを解析した。

例えば、遺伝子の発現が上昇して個体の phenotype が変わる場合、mRNA の上昇 → タンパク質の上昇 → 下流のシグナルの変化 → 表現型の変化——という経過を一般的に辿るわけだが、もちろん各ステップにはタイム・ラグが存在する。そして動物実験では、表現型に焦点を合わせた time-course を設定する。逆にいうと、表現型以外のステップを観察するのに最適な条件ではない (可能性がある)。1つのサンプル (= ある特定のタイミング) で、関連する全ての指標が動いている様を確認するのは難しい。かといって、動物実験で細かく time-course を追うのも困難である。

マーカーが動いていないのなら、それはそれで良い。その時点ではもう、あるいはまだ、変化はしていないというのが真実なんだろう。「変化するはずだ」というのは極めて危険な思い込みである。Positive control がある in vitro の実験ならともかく、動物実験は (分子レベルから見ると) 複雑で不確定要素が多過ぎる。動物の中で何が起こっているのか、我々はまだ、ほとんど何も知らない。

明日から夏休みだが、天気予報は雨続き。

2008/08/25/Mon.

「ねんきん特別便」とやらを受け取った T です。こんばんは。

どうして無意味に漢字を開くの? バカにしてるの?

研究日記

実験をボチボチと。夜はセミナー。

明後日から週末まで夏休みを取っているので、仕事も閉店モード。休みをどう過ごすか、まだ何も決めていない。デジタルカメラのメモリ (1 GB) は買った。やはり遠出か。そして何か食べたい。

「旨いものが食べたいなあ」とよく思う。しかし、どうも実感にそぐわない。俺が飽いてるのは「味気のない」食事であり、したがってそれとは逆の食事をしたいのだが、「味気ない」の反語が存在しないので的確な表現ができない。「味気のある」とは言わないもんなあ。なぜだろう。「色気がある/ない」は両方存在するのに。なんてことを考えながらコンビニ弁当を食べている。

2008/08/24/Sun.

久し振りに屋外で食事をした T です。こんばんは。

かねてよりボスが熱望していたバーベキュー大会がついに開かれた。

俺がラボに来る前は、毎年鴨川の河原で肉を焼いていたらしい。しかし近年の規制によって、鴨川近辺における火気の取り締まりが厳しくなり、およそバーベキューなど実現不可能となってしまったのだ。ボスの落胆はいかばかりであったか。嗚呼!

しかして今回、キャンプ場を借りることで、ボス念願のバーベキュー大会が盛大に開催されたわけである。参加者はボス、ボスの長男君、M先生、大学院の K先生、秘書女史、研究員君、研究員嬢、テクニシャン嬢、テクニシャン君、隣の研究員嬢、私の総勢 11名。我らは M先生、K先生の 2台の乗用車に分乗し、一路愛宕山を目指したのであった。

キャンプ場では大量の肉、野菜、そしてボスこだわりのトウモロコシ (「わし、トウモロコシ屋になろうかな……」) を焼いてはむさぼり喰い、大いに堪能して帰路に就いた。ボスはよほど嬉しかったのか、ひたすら食材を焼いては皆に食べさせることに専念していた。俺が手伝ったのは野菜のカットくらいのものである。

ところで、以前に京都の強迫神経症的な景観保護を「動物園」と揶揄したが、むしろ米国におけるインディアン保護区に似ているよな、と思った。怒られるから、京都人には言わないけれど。

2008/08/23/Sat.

たくさん論文を書こうと思った T です。こんばんは。

研究日記

先日、ボスの元でポスドクとして働きたいという application が、薬科大学の留学生 (インド人) から来たという。とりあえずインタビューをということで、本日夕方から、その留学生 Dr. P にプレゼンテーションをして頂いた。ボス、M 先生、大学院の K先生、研究員君、研究員嬢、私が聴講。

Dr. P の研究は、病態モデルの実験動物に薬剤を投与し、身体機能や細胞内シグナルの変化を調べるというものである。複数の薬剤をとにかく同じモデル・手法で評価したという話だったが、データは大量で、3年間で 5本の論文 (いずれも IF = 4 前後) を書いたという。異国の地で研究をやっていくには、これくらいの馬力が必要なんだな……。効率良く論文を出すということに、俺も少し意識的に取り組まねばなるまい。

Dr. P は、ボスのある論文を見て我がラボに興味を持ったらしい。その論文は、我がラボから publish された中では最も IF の高い雑誌に掲載された 1本である。数ある論文の中から、これが彼の目に留まった。IF が高いかどうか、雑誌が有名であるかどうかは、その研究の内容を左右するものではない。しかし、他者からの評価には確実に影響を与える。良い悪いの話ではない。現実問題としてそうなのだ。

「どの雑誌に載っても研究の本質的な価値は一緒」だとすれば、むしろ研究以外の付加価値を重視した journal の選択をするべき、という考え方もできる。研究フェイズと政治フェイズは明確に分離されるべきだが、同時に有機的なサイクルとして回転させる必要もある。研究をするには研究費が要る。

インタビュー終了後、研究員嬢を除く全員で職場近くの焼き鳥屋へ。

2008/08/22/Fri.

テクマクマヤコンとネクロノミコンは似ていると思う T です。こんばんは。

アッコちゃん「テクマクマヤコン、テクマクマヤコン、我に世界を統べる力を——」。

この週末は両日ラボの用事が入っている。休日出勤というほどのものではない。

ところで、FEBS Letters の価格は次のようになっている。

Personal price:
Institutional price:

どうしてイランはユーロ立てなのか。日本一国だけが特別扱いってのもスゴいな。これは Elsevier の journal で共通するルールのようである。

Nature (nature publishing group) の地域区分は、

の 3種類。イギリスがヨーロッパから外されている。

Cell (Cell Press) は、

の 2種類だけである。

Cell Podcasts というのがあるんだな。国際学会もあるし、これで英語の勉強をしようかな。……と思ったら更新頻度が低過ぎて吹いた。

2008/08/21/Thu.

涼しくなったのが嬉しい T です。こんばんは。

研究日記

昨日、投稿論文の英文校正が返ってきた。随分と時間がかかったのは、校正会社が盆休みだったため。この会社のスタッフは全て native English speaker、つまり外国人である。盆休みで全社休業というのが、何だか可笑しい。

校正箇所をチェックして、昨夜の内にボスへと回送。OK の返事が来たので本日 submit した。これで心置きなく夏休みに入れる。

国際学会の registration を済ませた。旅行代理店に航空券の手配を依頼する。今年は原油高により、アメリカに行くだけで昨年比プラス数万円とか。やれやれだぜ。

ゲーム日記

PSP-3000 が出るという。主な変更点は内蔵マイクの追加、液晶画面の改良、そして S 端子出力。ビデオ録画する目的でテレビ de ポータブル P2 (S 端子出力用ダウン・コンバータ) を買った俺は間違いなく負け組。

2008/08/20/Wed.

自由であったり新しければ良いってもんじゃないけれどと思う T です。こんばんは。

文章を読み書きしていて絶望的な気分に陥るのはそのあまりにも単純過ぎるシーケンシャルな構造に疑問を抱いたときである。特に小説は最初の一文字から読み始め最後の一文字まで順番に読まなければならない。何という不自由!

学術論文は硬質で形式張った文章の代表格のように思われているが読み方は意外と自由である。特に理系の論文は高度にモジュール化されており必要な部分だけを抜き読みすることが可能だ。Results を読んでデータが見たくなったら figure を眺めつつ legend に目を通し実験方法を知りたくなったら materials & methods に飛べばよろしい。順番に読まなくともその内容の理解に妨げがあるわけではない。該当分野に精通しておれば introduction に目を通す必要はなく専門家ともなれば abstract を読むだけで正確に論文の全貌を把握することができる。充分な知識があれば discussion を読まずとも全く同一の議論を展開することができるだろう。

問題は小説を代表とするいわゆる文芸作品である。抜き読み斜め読み飛ばし読みをすることは不可能ではないがそのような行為にほとんど意味がない。とにもかくにも最初から最後まで通読することでしかその作品を味わう術はない。下の句を詠じてから上の句に移る詩歌がどこにあるだろうか。

文章を退屈な線形構造から遊離させるための古典的な方法として脚注が挙げられる。膨大な註釈がその本文となるいわゆる集註の体裁はあくまで実用上の要請から成立したものだが田中康夫『なんとなく、クリスタル』のように遊戯的で文学的な効果を狙った註釈小説といったものもなくはない。それが鑑賞者にとって面白いかどうかはまた全くの別問題ではあるが文学が宿命的に持つ破滅的に単調な構造に対する一つの竹槍であることには相違ない。

筒井康隆『エディプスの恋人』においては括弧などを用いた同時多発的な感情の並列表記が試みられており大きな成果と強い印象を残している。綾辻行人「殺人鬼」シリーズ「囁き」シリーズや瀬名秀明『パラサイト・イヴ』などでは括弧太文字反転文字の挿入によって時空間に近しい描写が同一のセンテンスに乗せられている。これらの表現は時間的に同じ位置にあるテキストは文章内においても同じ位置に書かれるべきという考え方に基づいている。時間軸上のそれぞれの地点において平面が切り拓かれることで小説世界はより緊密な記述を得たが逆にいうなら文学が持つシーケンシャルな時間構造をより強固にしただけともいえる。このように同時多発的な事柄を一つのパラグラフ内において文字通り同時多発的に描く手法はモザイクと呼ばれ発想としては実はそれほど新しい試みではない。

意図的なルビ (「俺の愛銃」と書いて「ワルサー P38」と読むような) は言語が持つ同時多発的な意味を視覚的に表しているという点で興味深い。ルビにさらにルビを振ることで重層的階層的な表現ができないかと考えたこともある。この考え方を援用すれば続々と実験的な手法を思い付くことができる。脚注に脚注を付ける。引用文を引用する。作中作に作中作を登場させる。あるいはこれらを組み合わせる。作中作で引用した文章に付せられた註釈が本文で振られたルビに対するものであった——などと自分でも書いていてよくわからぬ事態を現出させることも可能である。しかし一歩間違えれば目も当てられないメタ・フィクションに堕す危険性もあるので優れた作品とするためにはよほどの創意が必要ではあるだろう。

と書いていて気付いたのだが上記の効果のほとんどはハイパーリンクで実現可能であるばかりか既に多くの場所で実装されている。もっともその機能はあくまで合目的的に開発されたものであり文学的な効果を狙ったものではない。単に便利になっただけで根本的には昔から行われている文献の渉猟と同質であるともいえる。求められているのは直線的ではない全く新しい構造と読解世界を持つ単一にして完成された文芸だがそれがどのようなものであるかは想像することすら困難だ。

しかしひょっとして……シーケンシャルであることを放棄した小説はもはや小説ではなくなるのかもしれない。限りなく自由である小説という表現は何によって小説となり得るのかという問いに対する回答がこのあたりに潜んではいないか。

2008/08/19/Tue.

アキラメンのツーリング日記に「俺もまた乗りたいぜチクショー!」とコメントしたら「バイクは裏切らないぜ」と返された T です。こんばんは。

どういう意味だろう、と少し考えてしまった。

研究日記

昨夜はボスが遅くまで研究員嬢の manuscript を添削していたのだが、それもついに終わったということで、大学院の K先生、研究員嬢、ボスの長男君 (普段はアメリカ在住だが現在は帰省中) と一緒に職場近くの焼き鳥屋で晩餐。

夏休みを 27 - 29日に取ることにした。

今朝は大学に寄って研究員君とテクニシャン君に細胞へのウイルス感染を伝授した。実験が上手くいくことを祈る。祈るのは簡単だ。その後、あれこれと情報交換。

「裏切られた」というのは、自分の予測と結果現象が異なった場合、それでもなお自分の予測が正しいと信じ、現象の正統性を懐疑する感情である。

科学研究では常に、仮説 (hypothesis) を立ててその当否を検証する。予測が外れることもしばしばだが、結果に「裏切られた」という感覚を持つことはない。自然現象は絶対の真であるからだ。それがサイエンスの世界観でもある。自己の外側の世界を疑えば、それは哲学となる。世界の法則を任意に決めるなら、それは数学なり記号論理学となる。科学的世界観は非常に謙虚なのだ。「科学は傲慢」と批判する人間は、一体どのように世界を見ているのだろうか。聞いてみたいものだ。

上記を踏まえると、意図的に相手を「裏切る」には、相手の世界観を的確に把握しておかなければならないことがわかる。能動的な行為としての「裏切り」は高度に知性的だ。したがって、「バイクは裏切らない」は真である。

意図的でない裏切り——「この裏切り者め」「そんなつもりではござらぬ」というケース——、これは両者で世界観が共有されていないと見るべきで、要は擦れ違いである。この場合、「裏切り」は裏切られた側の感情にのみ存在する。逆にいえば、相手・状況に関わらず、常に「裏切られる」可能性が存在する。つまり、「バイクには裏切られない」は必ずしも真ではない。

2008/08/17/Sun.

筋肉痛の T です。こんばんは。

安全人形

「写真を加工するかどうか問題」について、MO君が「積極的に修正を入れるべき」と書いており、興味深く拝見した。絵としての写真の完成を重視するなら当然の意見であり、例えば、仕事で使う顕微鏡の写真などについては俺も同じ考え方である。カメラは自分の眼で見た景色を再現するための道具にしか過ぎない、最終的な絵こそが写真の価値である、という立場だよな。

彼の日記を読んで、俺が拘っているのは画像の修正云々ではなく、カメラの操作である、ということに気付いた。これは、電車の撮影をしたときに感じた、「動く被写体の撮影はアクション・ゲームと同じ」(限られた範囲でポジションを確保し、ズバリのタイミングでボタンを押す) という印象に通じる。その場限りでどこまでの絵が作れるか、というゲーム。だから「ちょっと明るいかな」と思ったら、後からソフトで修正するのではなく、撮影するときに陽が陰るまで待つ。そういう一々が今は楽しい。

面白い写真を見ると、「良い絵だなあ」と思う前に「上手く撮ってるなあ」という感想が湧く。撮影というプレイの方に興味の重点がある、と言い換えても良い。だから、修正したかどうかが気になる。絵としてのみ観賞しているのなら、そんなことは問題にならないはずなのだ。

いやまァ、撮影は撮影として楽しみ、写真は写真で加工すれば両得なのでは、という気がしないでもないんだけど……。

で、夏休みはどこに行って何を撮ろうかしら。——その前にデジタルカメラのメモリを増設しておかねないと。すぐに忘れるので書いておく。

2008/08/16/Sat.

カメラを手に歩いてきた T です。こんばんは。

起床し、特に目的地も決めずに外に出てみると、思ったより涼しかったので、しばらく高野川沿いを歩くことにした。途中で、このまま京阪本線沿いに歩くことに決め、最寄りの出町柳駅から中書島駅までを踏破した。具体的には、出町柳 - 丸太町 - 三条 - 四条 - 五条 - 七条 - 東福寺 - 鳥羽街道 - 伏見稲荷 - 深草 - 藤森 - 墨染 - 丹波橋 - 伏見桃山 - 中書島。地図上の直線距離は 10 km 程度に見えるが、道を探しながらウロウロしたので、実数は恐らく 15 km ほどかと思われる。

装備は、

何も考えていなかったので、仕事に行くのと同じ服装で出かけてしまった。PSP は MHP2G をするため……ではなくて、無線 LAN を拾ってネットに接続するため。地図サイトを表示すればナビ代わりになる。携帯電話のディスプレイで地図を見るのは少し辛い。

出町柳 - 七条

この区間は路線が地下に埋まっているので、ひたすら川沿いの遊歩道を行く。高野川は出町柳付近で鴨川に合流するので、以後は鴨川沿いを進む。

鴨川遊歩道鴨川の橋下

三条あたりで携帯電話で話している女性がいた。「はい……はい……、すみません……、今はちょっと四国に帰省しておりますものですから……、ええ、ちょっと無理ですね」。そうか、ここは四国であったか。

東福寺 - 伏見稲荷

七条 - 東福寺間で、京阪本線は地上に表れる。また東福寺で、京阪本線と JR 奈良線が接続しており、この 2線は以後、伏見のあたりまで並走している。したがって線路沿いに歩いていると、1分間隔 (あくまで実感だが) で電車が行き交うのを目にすることができる。踏み切りも頻繁に明滅している。また、鴨川とは別に琵琶湖疏水が表れ、京阪本線は以後これに沿って進むことになる。

JR 奈良線京阪電車琵琶湖疏水JR 奈良線JR 奈良線

割と大きな工場もあったので周囲をグルリと回ってみるが、壁がやたらと高いのでなかなか思うように接近できない。

工場工場琵琶湖疏水・JR 奈良線・工場工場工場高架下

深草 - 藤森

電車の撮影は、とにかく難しいの一言に尽きる。まず、撮影ポイントが非常に限られているということ。許された僅かな範囲で、障害物 (金網、鉄条網、鉄柵、踏み切り、信号などなど) を避けながらアングルを探さねばならない。そして当たり前だが、被写体が高速で動いているということ。これには本当に泣かされた。電車を待ちながら何十枚も撮ってみたが、どうにか使えそうなのはここに挙げた数枚のみ。とても満足のいく出来栄えではない。鉄道オタクの苦労を少し垣間見た。いやホント、電車撮影は紳士のスポーツだなァと思う。

琵琶湖疏水遊歩道朝顔京阪電車京阪電車京阪本線

丹波橋 - 中書島

丹波橋に到着した頃にはヘロヘロになっていて、ここで帰ろうかとも思ったが (特急が止まるので)、休憩して考え直す。東福寺以降、とにかく田舎景色の連続で、食事をするところもロクにない (お盆ということもあるが)。しかし伏見桃山の駅前はよく開けていて、牛丼を口にすることができた。ここなら餓死せずに暮らすことができるなあ。そして中書島。周囲をウロウロとしたが、京阪本線沿いに歩ける道を見付けることができず、リタイア (中書島にも特急が止まる)。

京阪本線伏見宇治川水門

次に再開するときは、中書島までは電車に乗って、そこから歩くということになるだろうか。一応タイトルには「(1)」と銘打っておいたが、「(2)」がいつになるのかは未定。

疲れたが、寝るのは大文字焼きを観てからにする。

関連

2008/08/15/Fri.

デジタルカメラがデスクのオブジェと化している T です。こんばんは。

早く夏休みを取らないといけない。休みを取るのは簡単だが、何をして過ごすかを決めておかないと、数日を無駄にするだけで終わってしまう。別にそれでも良いかな、と俺は思うのだが、テクニシャン嬢に「人として間違えている」と怒られたので、夏休みにすることを一所懸命に考え させられ た。

で、写真撮影の小旅行でもするか、という線に落ち着いた。あまりにも無難だが、そう決めてしまうと少しはヤル気になってくるから不思議なものだ。問題は何を撮影するかだ。

思い浮かぶのはこんなところか。夏休みは 8月最終週に取る予定だが、9月にズレ込むかも。何もかも未定。

とりあえず明日はリハビリということで、カメラを持って外に出ることに決めた。文庫でも読みながら鈍行列車に乗ろうかな。大文字焼きが早めに帰ってこないといけないけれど。

読書日記

今月末に塩野七生『ローマ人の物語』の文庫続編が刊行されると知った。また復習しないとなあ。

2008/08/14/Thu.

早速、薬の服用を忘れた T です。こんばんは。

研究日記

ここ 2年ほどの研究で我がラボは、C という天然成分が某疾患に対して有効であることを動物実験で証明した。これを受けて、ヒトでの有効性を検討するための臨床試験を始めることとなった。まずは第 I 相 (phase I) 試験で、健康な成人に低濃度の C を投与し、副作用の有無を検討する。数十人のデータが必要だということで、俺も被験者になることを志願した。

C については、既に他の疾患に対して効くということが言われており、日本やアメリカで臨床試験が行われている。今のところ副作用の報告はない。我々の第 I 相試験では、過去に日本で行われた試験と全く同じ C (製薬会社が合成したもの) を、全く同じ量だけ内服 (12週間) する。内服前、内服 3時間後、24時間後、12週間後の血中 C 濃度を測定し、簡単な問診を実施する。

以下に臨床試験の実際を簡単に記述する。被験者には、実施責任者 (あるいは研究分担者) から臨床試験の背景、目的、内容が説明される。ここで、被験者が試験に参加する意志があるかどうかが確認される。最終的に、被験者は自由意志で同意書に署名する (同時に「同意撤回書」が渡される。試験はいつでも止めることができる)。次に被験者は試験前に必要な診断 (問診、測定など) を受け、試験 (今回の場合は薬の内服) が始まる。臨床試験にかかる費用は全て実施者が受け持ち、被験者に金銭的な負担は発生しない。また、被験者は試験終了後に謝金を受領する。臨床試験に用いられる薬 (物質、器具など) は、まだ医薬品・医薬機器として認可されていない場合が多いので、試験によって身体に異常が生じても、健康保険による診療は受けられない。しかし、臨床試験のための保険というものが別にあり、被験者が特に意識することはない。

——というところだろうか。これから試験が進むにつれて、新しいことを学ぶ機会もあると思われる。そのときは再び日記で報告する予定。

国際学会に応募した抄録が採択され、今年もアメリカで発表できることになった。今回はポスターでの採択で、3年連続で口頭発表というわけにはいかなかったが、まァ気楽に発表できるので良しとしよう。

今夜は大学に寄って研究員君とディスカッション。彼は動物実験をよくしており、随分と薬の勉強をしているので色々と教えてもらうことも多い。

俺も勉強しないとな。いや、その前に夏休みを取るべきなのか、人として。最近はできるだけ土日も休んでるんだけど……って、それが当然なのか。いまだにこのあたりの価値観が確立できていない。随分と反省したつもりなんだがなァ。

2008/08/13/Wed.

人体実験の被験体となった T です。こんばんは。

職場近くの小学校で野球チームが練習をしていた。ジャガーズというらしい。リトル・リーグにはチーム名があるんだよな。我が小学校のチームはブルーサンダースといった。弟が入団しており、週末は熱心に練習に通っていたものだ。

ちょうど甲子園大会が開かれているが、高校野球もチーム名を付けたら面白いのに、と思った。京都テンプルズとか。そんなことをやりだしたら、またぞろ「桐生レイパーズ」などとネタにされたりするんだろうけど。

MO君の写真が素晴らしいと紹介した後で、あれらの写真は撮影後に Photoshop などで仕上げをしているのかな、と少し気になった。画像処理ソフトを使ったからどうだとか、使わない方が良いだとかというわけではないけれど。ちなみに俺は無修整画像が好きなので撮影したそのままの写真を載せている。

おッ、これは撮影しておくか、という景色に出会ったときに限ってカメラを携帯していない。というか、普段から持ち歩いていない。いつも反省するが、すぐに忘れる。携帯電話で撮影すれば良さそうなものだが、やはりカメラの画質には及ばないので躊躇してしまう。べべべ別に、携帯電話での撮影方法を知らないってわけじゃないんだからね! とでも書けばツンデレになるのか。痩せたキャラクターだなあ。と批判することは簡単であるが、それほど単純な問題でもないと考えている。

何も理解していない俺が敢えて書くが、そもツンデレとは、「ツンでもありデレでもある」という複層性にこそその魅力が宿っていたはずだ。しかし「ツンデレ」としてラベル (= 認識) された途端、それは単層の人物像となってしまい、例えば「べべべ別に〜じゃないんだからね!」「勘違いしないでよね!」と表現するだけで (俺のような人間にも) 容易にそのキャラクターを消費できるようになった。無論、それが悪いといっているわけではない。

「ドン・キホーテのような人物」と表現することで誰もが共通の人物像を思い浮かべることができるように、典型としてのキャラクターは創作物がもたらす共通言語という側面がある。しかし同時に、『ドン・キホーテ』という小説で描かれた一人の男の狂気や哀しみもそこからは消え失せる。またあるいは、似たような人物を眼にするたびに、「これって要するにドン・キホーテでしょ」と四捨五入で分類してしまいがちになる。

これは非常に現代的な文学 (を含む全ての創作物) の問題で、作者がどれだけ良い作品を創造しても、それはすぐさま過去の膨大な作品群のどこかに結びつけられてしまう (鑑賞者は無意識に結び付けてしまう)。作品が高い評価を得るためには、ある意味ではわかりやすい形での「新しさ」が要求される。それは新しい地平線を切り拓く原動力にもなり得るが、進化の方向が新化ばかりで一向に深化しないという弊害も見受けられる。

この情報過多の世界で、俺達が白紙の状態で創作物と向き合う機会はほぼ絶無である。日々生きているだけで、物凄い量の先入観がびっしりと脳髄に植え込まれる。良くも悪くも、それが当世というものである。損だよな、と思うことも少なくない。

研究日記

ボスの臨床研究に被験者として参加。詳細は後日。

夜はボス主催の宴会。

2008/08/12/Tue.

今月は実験も先月以上にやっている T です。こんばんは。

研究日記

1本書いてまた 1本。

英文校正に出した論文はまだ帰ってきていないが、それとはまた別に、新しい論文の figure を仕上げてボスに送った。Figure を固めてから文章に取り掛かるのがボスのスタイルだが、まァ大体どこも同じ流れだろう。いずれにせよ本文も書かねばならないので、materials & methods に手を付けつつ、参考文献の準備を始めている。Introduction に意外と時間がかかるのだが、これは普段の勉強が不足しているからである。Results のリテイクを命じられることは滅多にない (これは figure のチェックが厳しいことと裏表の関係にある)。Discussion はいつも大幅な修正を喰らうので、最近はむしろ好き放題に書いている。できるだけ沢山書いて、あとはボスに料理してもらうという感じ。

論文を執筆中の人と話をしていると、「ボスとのやり取りがしんどくて」という流れによくなる。「ボスと闘う」という表現も頻出する。自分のデータや考え、それらを表した文章が跡形もなく蹂躙されるのは決して良い気分ではない。己が信念を守るためにボスと戦うことも時には必要だろう。気持ちはよくわかる。

しかし (たかだか 1本ではあるが)、論文を publish して実感したのは、「闘うべき相手は editor であり reviewer である」ということ。当たり前だけど。Editor に accept されない限り、どんな研究も「社会的には」クソ以下の存在なんだよな。というか存在しないのと一緒。世知辛い話ではあるが、現実問題には現実的に対処しなければならない。税金で研究をしていたり、給料を貰って仕事として働いているのなら尚更。尻尾を振ってまで迎合する必要はないが、求められているものを出す責務はあるだろう。

その上でというか、同時にというか、夢や理想を目指すこともまた大事なんだよな。追求するべきものがないと、やっぱりこの仕事はダメだよなあと、個人的に思っている。うはは。青臭いぜ。

2008/08/11/Mon.

月曜恒例のラボ・セミナーをサボった T です。こんばんは。

研究日記

春から新天地で頑張っている S嬢が夏休みで帰京しているので、テクニシャン嬢と一緒に 3人で焼き肉を食べに行った。食後は鴨川のほとりで涼みながら雑談。S嬢は元気で、新しい仕事も楽しくこなしている様子だったので安心した。

2008/08/10/Sun.

今までになかった名探偵が登場する探偵小説を読みたいと思う T です。こんばんは。

エドガー・アラン・ポーが描いたオーギュスト・デュパンを始めとして、名探偵は独身だと決まっている。家族の印象も薄い。何故か。

引用箇所を探すのに疲れたのでこのへんで止めるが、実はまだ本題に入っていない。以前から思っていたのだが、「京極夏彦の京極堂シリーズにおいて、中禅寺秋彦と関口巽がともに妻帯者であるという設定は、探偵小説史上画期的なことである」のではないか。榎木津礼二郎は結婚していなけれど、そこを含めて、この問題をどう捉えるべきか。——ということで少しおさらいしてみた。

それにしてもここ数年、俺は真面目に探偵小説を読んでないんだよなあ。色んな記憶も曖昧になってきた。探偵小説について書いた学生時代のメモも沢山あるのだが、情けないことに、読み返しても理解できないものが多い。当時は拙いながらも実作していたから、アンテナや思考の感度が鋭敏だったんだろうなあ。

運動日記

スポーツ・ジム 26回目。最近はちとサボり気味。

明日から 1週間、お盆休みでジムは閉館。

2008/08/09/Sat.

一日弛緩していた T です。こんばんは。

全ての小説は過去の作品からの引用である。というのは古い議論だが、実際に「他からの引用文のみからなる小説」というのは存在するのだろうか。その気になれば簡単に作れるだろう。大して面白い試みとは思えないが。

もう少し制約を加えると、課題としての魅力が出て来るかもしれない。例えば、ある小説の文章を全て組み替えて別の小説にするとか。でもこれは「引用」とは少し違う気もする。文脈がなくなってしまうからか。つまり引用とは、文字列の並びという一次的な問題ではなくて、コンテキストを含むパラグラフ・レベルの話なんだよな。だから引用は盗作問題とも関わってくる。

話は逸れるが、「ある小説の文章を全て組み替えて別の小説にする」という試みは、既存の小説をベースにするとかなり難しいのではないか。仮にできたとしても、組み換えられてできた新しい小説が面白いものになるかどうか。やはり、あらかじめ 2種類の小説を構築することを前提として文章を作り上げないと無理だろうなあ。

そういえば、こんなネタがある。

<結婚前>↓に向って読んでください

男:やった! 待ちに待った日がようやくやってきたよ! 本当に待ちきれなかったよ!
女:後悔してもいいかな?
男:ノー、そんなのありえないよ。
女:私のこと愛してる?
男:当然だよ!
女:裏切ったりする?
男:ノー、どうしてそんな風に考えるのかな?
女:キスして。
男:もちろん。一度だけじゃ済まないよ!
女:私に暴力を振るう?
男:永遠にありえないよ!
女:あなたを信じていい?

<結婚後>↑に向って読んでください

引用云々とは全く関係なくなってしまったけれど。

運動日記

スポーツ・ジム……に行こうとしたら雨が降ってきたので中止。今年は雷を伴う激しい夕立が多い。来週 1週間はジムもお盆休みで休館となる。明日は行かねばなァ。今月はまだ 1回も行ってない。

ゲーム日記

またダラダラと MHP2G をやっている。MHP2 や MHF ではよく太刀を使っていたのだが、MHP2G になってからは全然使っていない。久し振りに使ってみて、これはやはり難しい武器だよな……、などとまたハマっておるわ。片手剣も同じ状況で、武器のマイ・ブームがそろそろ 1周してきそうな感じ。

現在の MH には数十種類のモンスターと、11種類の武器カテゴリーがある。したがって、狩猟対象と得物の関係は数百種類になるわけで、その一々に関して最適化の余地がある。ゆえに飽きないというか。とんでもない時間泥棒だわ。

2008/08/08/Fri.

井の中の T です。こんばんは。

「井の中の蛙、大海を知らず。されど天の高さを知る」という文句が嫌いだ。「井の中の蛙、天の高さを知る。されど大海を知らず」と書けば、この蛙のしょうもなさが伝わるだろうか。

随分と以前にこんなことを書いた。

「貧しくとも楽しい我が家」

実に良い言葉である。(中略)

「楽しくとも貧しい我が家」

実に嫌な感じである。最初の言葉と意味は同じなのだが印象が全然違う。

つまるところ、この手の言い種は詭弁であり、詐術なのだ。別にそれは良い。テクニックに善悪はない。使い方と受け取り方の問題。で、どちらかというと、乗せられたり騙されたりする方がバカなんだよな。

研究日記

「論文は量よりも質が大事」というのは真であるが、やはり自己欺瞞的な言説である。この表現において軽んじられている量もまた、重要であることは言を待たない。役所に研究費の無心をするときは、むしろ量が決定的な役割を果たすことも多い (ように観察される)。

「量よりも質が大事」という言説を、「量がない人間の負け惜しみ」と解釈するのは非常に簡単である。しかし果たしてそれだけであろうか。むしろ量を保持する側 (これは大抵、質を持つ側でもある) が、自分達の advantage を冒されぬよう意図的に流した高等なデマゴギーである可能性はないか。という読みをするのも面白い。

いずれにせよ、「俺は天の高さを知っているから」といって安心する蛙が一番のバカを見る。得意になって喧伝までするのだから、何とも愚かなことだ。海の広さも天の高さも知っている蛙はゴマンといる。そういう客観的な姿勢のみが言説の詐術を看破する。

話はスライドする。一個の業績によって一人の天才を評価することは可能だが、組織に対してはこれが成り立たない。個々の能力によるバラつきを吸収するのが組織の役割の一つであるから、長期的に見て統計的な安定性を示さない組織は「良い組織」ではない。組織の実績を量が担保するのはそのためである。

ラボという場所は「組織」と呼ぶには小さ過ぎ、個々人の能力による影響が非常に大きい。そういう場においては、「組織の中の人」として個人が振る舞うよりも、個々人が「組織的な人」を演じることが大切である。とか何とか。具体的にイメージはできないけれど。

テクニシャン嬢、隣の研究員嬢と夕食。食事が終わった頃に北京オリンピックの開会式が始まった。30分ほど観たが、退屈だったので帰宅。

2008/08/07/Thu.

夏休みは 9月に取ろうかなと思っている T です。こんばんは。

休む動機がないんだよな。

研究日記

今週はポツポツと結果が出た。投稿論文も、ボスとの数回のやり取りを経て英文校正に出すところまで漕ぎ着けた。来週前半には submit する予定。その後は少しゆっくりできるだろうか。お盆だしなあ。

2008/08/06/Wed.

豆は煮て食べるのが好きな T です。こんばんは。

原爆記念日であることを思い出し、黙祷した。毎年やっているわけではない。終戦記念日もあまり気にしていない。一方、阪神淡路大震災については毎年留意している。これは (俺にとっての) リアリティの問題であり、歴史的認識とはまた別のものだ。

京都の大文字焼きは毎年 8月 16日に行われる。「今年は大文字焼きを見に行くのか」と問われたりもするが、階段を一つ登って屋上に出れば眼前に大の字が現れる部屋に住んでいるので、見に行くもヘチマもない。去年は妹とその友人が訪ねてきた。大して面白いものではないが、心静かに眺めると感じるものもある。路上には観光客が犇めいているので、悠然と大文字を観賞するのは、なかなか貴重な体験であるかもしれない。

「見に行くもヘチマもない」と書いたが、これ、どうして「ヘチマ」なんだろうな。全くの謎である。「インド人もびっくり」というのも同様。なぜインド人なのか。この世は不思議に満ち溢れている。感度良く生きたい。

ヘチマは「糸瓜」と書く。南瓜はカボチャだが俺はナンキンと発音することが多い。胡瓜はキュウリ、西瓜はスイカ、木瓜はボケである。俺が子供の頃、祖母がよく我が家に花を活けに来ていた。季節の定番の中にはボケの花もあり、祖母が「今日はボケや」というたびに俺達兄弟は笑ったものである。懐かしいなあ。

「豆は穀物」だと思い込んでいるが、俺達が「豆」として食べている部分はあくまで果実である。ナス、トマト、キュウリなどは一般的に野菜として分類されているが、食す部分はやはり果実であり、その意味では果物に近い。これらの野菜や果物では、一つの果実に複数の種子が含まれている。逆にいうと、つまり豆とは、種子と果実が一対一対応している食物のことであるらしい。

「豆」と聞いて思い浮かぶのは、小豆、大豆、エンドウ、グリーンピース、空豆あたりか。トウモロコシも食べる部分は澱粉質の果実であるが、しかしあれを「豆」と呼ぶのは少し抵抗がある。あれは「粒」だろう。トウモロコシの粒は扁平であり、球形を基本とする他の豆とは若干形態が異なる。空豆なんかもかなり扁平だが、少なくとも円形ではある。また、トウモロコシの粒には「切り口」が存在し、皮による果実の包装は不完全である。どうやら豆には、円球形であること、果実が皮で覆われていることも必要であるらしい。

米は楕円形の果実が種子と一対一対応している。果実は皮に覆われているが、しかし食べる段階では脱穀されているので皮を見ることはない。

アーモンドやカシューナッツは薄皮に覆われて出されることもあって「豆」という感じがする。ピスタチオも豆ではあるのだろうが、あの固い外皮を食べることはない。ドングリも固い皮に覆われているが、あれを豆とは呼ばない。食用ではないから、という理由もあるだろうが、むしろ栗やクルミなどの「木の実」カテゴリーに属すものと考えられる。

「虫」の定義がいい加減であるように、「豆」もまた適当であるらしい。

2008/08/05/Tue.

適当に暮らしている T です。こんばんは。

どいつもこいつも俺の顔を見るなり「お忙しいところを……」などとヌカしやがる。全くもって気に喰わない。他人の目に忙しそうに映るということはつまり、余裕のなさそうな相貌なり動作なりを俺がしているわけであって、その原因はもちろん我が非力にあるのだが、まさにそこが気に入らないというか。あァやだやだ。

Web 日記

Google Map の「ストリートビュー」がスゴいと今朝から話題になっている。何がスゴいといって、こんなバカげたプロジェクトを実際にやってしまうところがスゴい。我が家も鮮明に映っていて爆笑した。

Google Map

画質良過ぎだろ。(写真は我が家と多少関係があります)

2008/08/02/Sat.

ゆで卵より目玉焼きが好きな T です。こんばんは。

昨夜は「写生文とハードボイルド」について考えていた。この問題は、「ハードボイルドの文体はキレの良いものであるべき (少なくともそれが望ましい)」という傾向と何か関係があるだろうか。

ハードボイルドの定義は色々と試みられているが、Rock のそれと同様、十人十色で結論めいたものはない。というよりむしろ、「定義しよう」という試み自体がハードボイルドあるいは Rock 「らしくない」という構造になっている。これはダンディズムについても言えることで、多分に行動主義的というか。

閑話休題。筒井康隆は「『ハードボイルド』の本質はそのパースペクティヴにある」と主張している。少し長いが引用する。

第一に、語り手が物語世界の外にいて、主観的に物語るという小説がある。この語り手は全知全能であり、すべての登場人物の心理がわかり、その行為を批判したりもする。古いタイプの物語小説がこれである。第二は語り手が主人公または登場人物のひとりで、主観的に物語る小説。(中略) 現代の日本文学にもこれが多い。一、二は共に作中人物の内面を描写するので、内的焦点化と言われる。三は物語世界外にいる語り手が客観的に語るという、多くの海外の現代小説の手法で、読者の読みに介入しない客観性ということが言われはじめて特に増えた。(中略) 第四に、物語世界の中にいる語り手が客観的に物語る小説というものがある。三と四は焦点を登場人物の外面にのみ向けているため外的焦点化と言われる。これがハードボイルド本来のパースペクティヴである。

最初はヘミングウェイが三のかたちで「殺し屋」を書いて成功し、語り口の抑制によって緊張感のある文体を創造した。(中略)

ハードボイルドは特に第四のかたち、つまり語り手が主人公であることが多く、そうでなくても語り手の視点が主人公に密着しているのでより非情さが効果的に表現される。このため、ともすればハードボイルドの主人公 = 非情と思われやすいが、そうではなく、非情なのは作者のパースペクティヴなのだ。

(筒井康隆『筒井康隆の文芸時評』「第2回」)

「非情なのは作者のパースペクティヴなのだ」という一文は、夏目漱石『写生文』における「写生文家の人間に対する同情は (中略) 冷刻ではない。世間と共にわめかないばかりである」という一文によく対応する。

で、ハードボイルドと写生文という問題に回帰するわけだが、ここで再び夏目漱石『写生文』を引用する。

この故に写生文家は自己の心的行動を叙する際にもやはり同一の筆法を用いる。彼らも喧嘩をするだろう。煩悶するだろう。泣くだろう。その平生を見れば毫も凡衆と異なるところなくふるまっているかも知れぬ。しかしひとたび筆を執って喧嘩する吾、煩悶する吾、泣く吾、を描く時はやはり大人が小児を視るごとき立場から筆を下す。

(夏目漱石『写生文』)

外的焦点化ですね、わかります。というのは冗談にしても、やっぱり写生文はハードボイルドだよな。ハードボイルドを描くために効果的な文体は写生文である、と換言しても良い。漱石先生万歳!

2008/08/01/Fri.

日記については間歇的に考えている T です。こんばんは。

昨日は「読むということ」というエラそうな日記を書いたわけだが、この種のことを考えるたびに、僕は僕の日記がこのような「読み」に耐えないという事実に直面する。もっとも僕は、首尾結構が整った日記、すなわち自由な「読み」を制限する文章を志向して書く場合が多いので、これは当然の結果でもある。昔の日記から話題を膨らますこともあるけれど、それは空想を広げてというよりも、拙かった以前の論の穴を埋めるという意味合いが強い。そのことには概ね満足している。

この日記は後の自分が読み返すことを想定して書いているので、その内容はかなりの精度で記憶している。引用やリンクの必要があれば検索して簡単に引き出すことができる。検索の確度を上げるために、普段は使わない文句を意図的に挿入することもある。その日記を書いている時点から、これは後で参照するだろうなァ、などと考えているわけだ。単に、後の自分に任せようと甘えているだけなのかもしれないが、自分と自分の対話であるからそれはそれで構わない。

極く稀に、特定の個人ないし集団を意識して書くこともあるが、大抵は焦点がズレたり言葉足らずで終わってしまう。後で書き足したり書き換えたりしたくもなるが、そうなると背景を再びまたは新たに説明する必要が生じ、面倒臭いとかいう以前により一層不分明になる予感がして躊躇する。僕の力不足といえばそれまでだが、それだけではない構成的な原因があるようにも感じる。長らく設置していた BBS をいきなり取っ払ってしまった理由もそのあたりにあるが、まだ適切に言語化できていない。

語られるべき「テキスト」の位置が問題の核心の一つとして恐らく存在する。

読む者それぞれの頭の中に「別の物語」があるのだとすれば、また物語がそのような形でしか存在できないとすれば、実は『予告された〜』という単一の「物語」など実在しない、ということになる。残るのは記号としてのテキストのみ。

(「読むということ」)

『予告された殺人の記録』というテキストはマルケスという人間が書いたものであり、彼と全く無関係である僕や僕以外の他人からは等しく離れた位置に存在する。したがってそのテキストに対して僕と他者は同じ条件で語ることが可能である。

一方、僕の日記は僕が書いたものであり、そのテキストは僕と非常に近しい位置にある。したがって僕が僕の日記について語るあるいは読むという行為は、他者が僕の日記に対して行う事柄とは別の位相にある。僕が他者と他者のテキストに対峙する場合は、全く同じ事情が鏡像のように成立する。

(「語る」というのは、あくまで文章をもって、という事態を想定している。いわゆる顔を合わせての会話ではない)

作者の頭の中にあるモヤモヤっとしたもの → 作者が書こうとする理想化されたテキスト → 実際に書かれたテキスト → そのテキストが意味する事柄 → そのテキストを読み意味を把握した読者の頭の中に顕れるモヤモヤとしたもの。このような変遷を経る過程で、我々はどこに立っているのか、何を対象に語ろうとしているのかをまず明白にしなければ、およそ対話など成立しないのではないか。という疑念がずっと僕にはあり、無論そんなことばかり考えていると何も書けないし話せなくなるので、一所懸命に「読み」を制限しようとする。

誤読が豊饒な世界を開くことを一応は承知しながら、同時に、誤読はエネルギーのロスではないのかという懐疑もある。これはそのまま、僕の生活の重要な部分を占める文芸作品と科学論文の振幅でもある。文芸は文芸として読めば良いし、論文は論文として理解すべきだから、特に困ることはない。それはそれとして、で、僕は僕の日記をどこに位置付けるべきか。

「ここにあるべき」という正答などもちろん存在しない。単なる書き方の問題である。僕は素人小説と半素人論文を書いたことがあるから、両者の距離を何となく実感できる。しかしこれらは、他者に読んでもらうことを大前提として書かれている。Web の日記は、実にこの点が曖昧模糊としている。本当に自分のためだけの日記なら、公開する必要なんてどこにもない。じゃあいつも明確に読者を想定しているかといえば、そんな覚悟はどこにもない。かといって、それを意識すれば義務化する。日記は今とは全く別物となるだろう。

そして一番不思議なのは、そんなテキストを読む人間がいるということ。僕もまた、他人の獏としたテキストを読んでいるということ。何よりそれが、少なからず楽しいということ。

Web 日記

shuraba.com Mobile が随分と前から落ちていたことに気付いて修復した。