- 読むということ

2008/07/31/Thu.読むということ

途中から破綻する日記などしょっちゅうなので、特に気にもならない T です。こんばんは。

物語を読む、ということについて書く。

——その前に、俺が考える「物語」を明らかにしておかねばならない。小説を始めとする文芸が物語であることはいうまでもないが、俺にとって歴史や科学も「物語」である。虚構 ↔ 事実という絶対的な対立軸が自分の外側に存在するわけではない (存在したとしても自分では確認できない) と思っているので、実はほとんど何でも「物語」である。以下が参考になるだろうか。

そういう広義の物語を「読む」とは、どういうことなのだろう。

統計を深く学ぶと、任意の母集団から任意の結果を導けるようになれます。

(Twitter / takashyx)

涙が出るほど笑ったが——、同じことが物語の「読み」にもいえるのではないか。まずは、一般的な小説を想定して話を進める。

物語が自明の「構造」があらかじめ内在しているというのは (少なくとも読者にとっては) 幻想だ。そんなものはない。仏師が木片の中にありもしない仏を見出すように、物語の骨組みは読者による任意の「読み」によって浮かび上がる。骨組みを取り出し、物語から引用した断片を適当に貼り付ければ、それらしい「読み」が粘土細工のようにできあがる。だから「読む」とは、ある意味では創造的な行為なのだ。

例えば俺は、ガブリエル・ガルシア = マルケス『予告された殺人の記録』を「古い共同体が自壊する物語」として「読んだ」けれども、それは『予告された〜』がそういう物語であることを意味するわけではない。リンク先の書評は、『予告された〜』を題材として俺が任意に描いた別の物語である、と換言しても良い。その気になれば、「愛と復讐の物語」としての『予告された〜』を別個に描出することも可能だろう。「読み」は自由である。メタ・ゲーム的だと言っても良い。少なくとも俺にとってはそうである。

「古い共同体が自壊する物語」「愛と復讐の物語」という「読み」は、『予告された〜』という大きな物語の一側面、つまりあらかじめ従属ないし内在する下位の物語ではないのか——、そういう疑問はある。けれども、固定されたテキストから任意の「読み」ができるとすれば、「読み」の総体はオリジナルの物語を量的に凌駕することになる。不足分はどこから来るのだろう? もちろんそれは読者の空想ないし妄想に由来する。だから全ての「読み」は誤読であるとも言える (読者は誤読しかできないと言っても良い)。このように読者の想像力を刺激し、解釈の余地が広い物語が「良い物語」(の一つ) であると広く言われている。

読む者それぞれの頭の中に「別の物語」があるのだとすれば、また物語がそのような形でしか存在できないとすれば、実は『予告された〜』という単一の「物語」など実在しない、ということになる。残るのは記号としてのテキストのみ。じゃあ話の基礎をそこに置きましょう、というのが学問としての文学なのだが、それ故につまらないと思う人間も少なくない。

以下は駆け足で述べる。機会があれば、個別に論じたい。

科学は小説とは反対の指向性を持つ。解釈は一意でなければならず、空想を許してはならない。示されるデータが増えれば増えるほど、想像の余地は狭まる (これは極めて特徴的な性質である)。もちろん、現状が明示可能な範囲には限りがある。したがってラインの彼方については討論 (discussion) する。

(暫定的な科学的真実とは可能性を否定されなかった空想である云々)

数学の系は任意の公理群から演繹的に構築される。これはテキスト原理主義的な文学と似てはいるが、その厳密さにおいて、両者の間には圧倒的な差が存在する。が、どちらも記号論理学的な操作を行っていることに変わりはなく、だから俺の興味としては接続している。

(物語のテキストを公理として捉えるなら、それはあまりにも複雑過ぎかつ多分の自己撞着を含むであろうから真に厳密な演繹はできないだろうという仮説。公理としての条件を満たす一群のテキストが物語になり得るかという疑問)

史料によって「読み」の幅を狭めるのが学問としての歴史である。しかし歴史は、基本的に証明不能という宿命を背負っている。史料がないものについては想像をせざるを得ないが、その想像は合理的であるべきという特質もある。このあたりの「読み」は探偵小説やハード SF などに通じるものがある。また、「設定」や「世界観」を重視する創作物語が「偽史」(歴史的) であることは、大塚英志『物語消費論』で指摘されている。

歴史家ではない一般の人間が興味を持つのは、例えば「なぜ明智光秀は本能寺の変を起こしたのか」「邪馬台国と卑弥呼はどこに存在したのか」「天皇家のルーツは」などという、「解釈可能な幅が広い」話題である。これらの話題は、上述した「良い物語」であるとも言えよう。

以下は宿題としての覚書。

Web 日記

MO君の、ここ数回の写真が大変素晴らしく、個人的に注目している。特にミニ四駆の写真が良い。