- 音学

2008/07/13/Sun.音学

物持ちは良い方だと思う T です。こんばんは。

20世紀に買った服をいまだに着ていたりする。ビンテージ、というわけではもちろんない。

物持ちが良くても、時間が経てばモノは劣化してくる。どれほど大事に使っても、消費財は捨てる日がいつか来る。今日はパソコンのバックアップを取りながら、幾つかのモノを捨てた。

モノが増えて困る、という感覚が僕には希薄だ。購入するモノは大抵、廃棄した分の「補充」である。補充であるから、減りこそすれ増えはしない。これは、廃棄したモノと補充したモノが (僕にとって) 交換可能である、と換言しても良い。

「増える」のは、だから交換不能のものである。一言で表すとコンテンツだ。新しい本を買ったから古い本を捨てよう、とはならない。両者は別物だから、両方を置いておくことに価値がある。我が家にあるコンテンツといえば、そこそこの書籍と幾ばくかの漫画、それから少しばかりのコンピュータ・ソフトウェアと音楽 CD くらいのものだ。昨今、後二者は媒体という呪縛から解放されつつある (ダウンロード販売など)。一方、電子書籍の普及には今しばらくかかるだろう。また、解像度の問題で、電子コミックの一般化はその後にならざるを得ない。記号純度の高いものからデジタル化されていく。

「音楽より文字の方が記号度が高くね?」という疑問があるかもしれない。これは難しい問題である。文章と同様に、器楽は楽譜があれば再現できる (MIDI を想起すれば良い)。記号論的な劣化もない。これが文学と音楽に「古典」が存在する理由である。それでも「声楽はアナログにならざるを得ないなあ」と思っていたが、初音ミクの登場でそれもわからなくなってきた。考えてみれば、音は全て波として定義可能であるから、それほど不思議なことでもない。

言葉も、有限種類の文字の、有限個の並びとして定義できる。ただ、言語の「文脈」は常に変化する。「ド」の音 (波) は未来永劫「ド」の音であり続けるが、「ヒト」という文字がいつまでも "ヒト" を「意味」し続けるかはわからない。僕達が古語を理解できないことを思い出そう。

言語はシニフィアンでもあると同時にシニフィエでもある。音楽は今のところ、シニフィアン (音) でしかない。ビバルディの『春』(というシニフィアン) を聴いて、"春" というイメージ (シニフィエ) を思い浮かべることは可能である。しかし言葉ほど厳密な対応や普遍性はなく、ましてその「意味」「理由」を尋ねられて答えられる人間となると絶無だろう。

シニフィエを考慮する必要がない分、器楽の方が言語より純記号的だという議論は成立する (そうなると「記号」の定義から話を始めなければならないが。何をもって「純粋」とするか)。というか、そもそも器楽にシニフィエは存在しないのか、という疑問は抱かれてしかるべきだろう。恐らく、存在はするのだろう。棚上げになっているだけだと思われる。そんなことを考えながら音楽を聴く人間は少ない。

ところで、声楽になると話は一気に難しくなる。言語としての歌詞の意味に、音楽としてのメロディが掛け合わされるからだ。"Let It Be" の歌詞を言語学的に解析することは困難ではないだろう。しかし、あの音階に乗せて歌われたときの感動を分析することは不可能だ。それを記述する言葉を僕達は持たない。音楽の意味論を構築できれば、それは「音学」となるかもしれない。