- Language-dependent

2008/07/04/Fri.Language-dependent

不立文字な主題について考えると日記が止まってしまう T です。こんばんは。

研究日記

大学院のセミナーに出席。1分子イメージングの話。

以前に、「僕が何かしらの生命現象をイメージするときは、いつも個々の登場人物 (多くはタンパク質) がそれぞれ独自の相貌を持ってカチャカチャと動いたり組み合わさったりする。とても機械的なのだ」と書いた。それに補足して、「僕が機械的にイメージするのはあくまでその抽象化された機構であって、例えば細胞自体を精密に組み合わされたマシンのように捉えているわけではない。細胞内の部品は、個々の単位では常に分解と生成が繰り返されている。例えば筋肉繊維は絶えず重合と脱重合に晒されているわけだ。イオンは細胞膜を頻繁に行き来するし、細胞自体も組織の中で死んだり分裂したりと様々な運命の輪廻を巡る」とも書いた。いよいよそれが実際に「見えて」くるようになってきた。

上記の議論で抜けている点を補足するなら、細胞は驚くほど省エネであることをまず指摘したい。例えばブラウン運動のような、ランダムだがエネルギーを要しない動きが上手く使われている。重要なのは、ランダムな運動を基盤にしているにも関わらず秩序があるということ。エネルギー論的に換言すれば、恐ろしいほどに効率が良い、ということになる。

その上、細胞 (組織、生命) には冗長性まである。この冗長性はどう理解すれば良いのだろう。ある目的に向かって進化したシステムがコピーされる過程で冗長性が現れるという、目的 (効率) > 冗長性 (安全性) という仮説。あるいは逆に、試行錯誤のジャンク生成の過程で、創発的に冗長性のある合目的的なシステムが現れるという可能性。どっちなんだろうね。

一般的な生物のイメージは、後者であるかのような印象が強い。けれども、ウイルスなんかは前者のタイプのような気もする。ウイルスは潔いほどまでに無駄なものがない。

——というようなことを考えるとき、「目的」だとか「冗長性」という、どうしようもないほどに人間的な概念の窮屈さを感じる。生物というシステムは、明確な意志をもってそのような事柄を指向しているわけではないからだ (というのが俺の生物観である)。「意志」とか「指向」もスゴく言葉的な言葉なんだよね。そういう檻を全て取っ払って考えたいのだけど……それは僕達には不可能なんだよなあ。

さて、何となくだが、じわじわと忙しい感じ。

先日 publish した俺の研究で、あるタンパク質の修飾部位を同定した。修飾部位がわかればペプチドも合成できるわけで、要するに、修飾型 (これは活性型でもある) タンパク質を抗原とする抗体が作成可能になる。というか、既に M先生が業者に作成を依頼している。それが来週にもでき上がるらしい。こいつが使えるようであれば、Western は当然のことながら、培養細胞や組織切片でもタンパク質の活性を可視化できるようになる。

楽しみではあるが、実際に使える抗体かどうかは試してみないとわからない。ボスは、とりあえず「こんな抗体できました」で論文 1本を書くつもりらしい。こういうのって、どういう journal に出せば良いのだろう。