野谷文昭・訳。原題は "Cronica de una muerte anunciada"。
俺がガルシア = マルケスに興味を持ったのは、彼がノーベル文学賞を受賞したからではなく、他ならぬ筒井康隆がいつも激賞しているからである。そのくせ、これまで読んだことがないというのだからヒドい話だ。
言い訳を書くならば——『筒井康隆の文芸時評』などを読むと実感できるが、困ったことに、筒井の書評はわかりやすい上にメチャクチャ面白く、原作を読まずとも理解した気にさせられる、それどころか、ひょっとしたら原作はこの書評よりもつまらないのではないかとすら思ってしまう、という部分がある。実際に、筒井が書評をした本を読んだことは少ない。また、俺が海外作品をあまり積極的に手に取らないという個人的な悪習もある。
ともかく今回、元部長氏から本書を頂戴する僥倖に恵まれ、むさぼるように読んだ。そして後悔した。何でこれまで読まなかったのか。アホか。
以下、本書の内容にかなり踏み込む形で長い感想を述べる。元部長氏の書評・その 1 とその 2 はリンクを参照。
本書は五部構成であり、小説の舞台となる短い時間が、極めて効果的に分解・再構築されている。文体は濃密で、ディティールは緊密だ。以下、簡単にあらすじを確認しておく。
「わたし」の実家がある田舎町に現れた得体の知れぬ金持ち、バヤルド・サン・ロマン。彼は洗練された身のこなしと強引な性格を合わせ持つが、町の人々からは概ね好意的に受け入れられる。そして彼は、古風な家に生まれ育ったアンヘラ・ビカリオと婚約し、数ヶ月後には祝儀を挙げる。しかし初夜の際、処女でないことが明らかになったアンヘラ・ビカリオは、結婚式の僅か数時間後に、バヤルド・サン・ロマンによって実家に戻される。アンヘラ・ビカリオは、処女を奪った相手が「わたし」の友人であるサンティアゴ・ナサールであると家族に告白する。パブロ・ビカリオとペドロ・ビカリオの双子の兄弟は、妹の名誉を回復するためにサンティアゴ・ナサールを殺害する。
——筋にするとこれだけである。タイトルにもある「予告された殺人」は、ビカリオ兄弟が、サンティアゴ・ナサールを殺すつもりであることを町中に喧伝していたことに由来する。
どうやらビカリオ兄弟は、人に見られず即座に殺すのに都合のいいことは、何ひとつせず、むしろ誰かに犯行を阻んでもらうための努力を、思いつく限り試みたというのが真相らしい。だが、その努力は実らなかった。
「これほど十分に予告された殺人は、例がなかった」にも関わらず、事件は起こった。なぜなら、サンティアゴ・ナサールや、彼の周辺にいた「わたし」やクリスト・ベドヤだけがこの「予告」を知らなかったからだ。これではいかにも御都合主義のように思える。それは、この事件の調書を記した検察官も同様であったらしい。
別けても、彼が絶えず不当を感じていたのは、文学には禁じられている偶然が、人々の間でいくつも重なることによって、あれほど十分に予告された殺人が、行われてしまったことだ。
無論、この検察官とて作中の人物なのであり、これは本作に対する自己言及的でメタな批判 (というジョーク) であると理解できる。本書にはこのような構造が散見される。
とまれ、殺人は起こった。「文学」的で、都合の良過ぎる「偶然」によって成立したこの事件が、何故かくもリアリティを伴って我々の前に屹立するのか。それは全編を通じて活写される人物背景の効果もあるが、何よりも登場人物達が、演じるべき「役割」をしっかりと担わされているからである。
大勢の人間がいる中でただひとり、バヤルド・サン・ロマンだけが犠牲者だった。彼以外の悲劇の登場人物たちは、人生が自分たちに振り当てた得な役回りを、誇らしく、またある種の威厳をもって演じたと言えるだろう。サンティアゴ・ナサールは陵辱の罪を死によってあがない、ビカリオ兄弟は自分たちが男であることを証明した。その結果、辱しめを受けた妹は名誉を回復した。何もかも失った人間、それはバヤルド・サン・ロマンただひとりだった。
したがって、事件は起こるべくして起こった——と思わせる構造を本書は持つ。バヤルド・サン・ロマンだけが「犠牲者」になったのは、恐らく故意であろう。彼が「町」にとっての異邦人であったことがその証左だ。外来者であるバヤルド・サン・ロマンには、共同体の中で真に演じる「役割」はない。このことは逆に、外来者の存在なくしては演じる「役割」すら顕現しない共同体の親密さと、その裏返しである前近代性を暗示している。
アンヘラ・ビカリオとサンティアゴ・ナサールの関係は、バヤルド・サン・ロマンが訪れる前の「町」で起こった。また、ビカリオ兄弟が妹の名誉のためにサンティアゴ・ナサールに報復しようとするのも「町」のルールである (サンティアゴ・ナサールが既に婚約していた事実を思い出そう)。問題は既に内在していた。それらがバヤルド・サン・ロマンという触媒によって一気に表面化する。不可逆的な反応が進行する中で、しかし触媒が演じるべき「役割」はない。
……と、ここまでであればそれほど複雑な構造ではない。しかし本作はまだまだ複層的な深みを持っている。
非常に重要なポイントとして、アンヘラ・ビカリオの処女を奪ったのはサンティアゴ・ナサールではない、という疑惑がある。アンヘラ・ビカリオとサンティアゴ・ナサールの間には、接点というものがなかった。
彼らは互いに別の世界に属していた。二人が一緒にいるのを見た者はいない上に、いつでも他の誰かと一緒だったからだ。サンティアゴ・ナサールは、彼女に目をつけるには、気位が高すぎた。「お前のいとこの馬鹿娘が」彼女について触れなければならないとき、彼は私にそう言ったものである。
ビカリオ兄弟の「殺人予告」を知らなかったサンティアゴ・ナサールは、だから「彼は自分がなぜ殺されるのかを分からずに死んだのだ」。これが恐ろしい。彼の死体は「豪華な柩ができ上がるまで、遺体は広間の真ん中の、幅の狭い簡易ベッドに横たえられ、人々の目に晒された」。神父がサンティアゴ・ナサールの遺体を解剖するのだが、「神父は、ずたずたになったはらわたを元から引き抜いたものの、結局どうしていいか分からず、腹立ちまぎれに祝福を施すと、それをゴミ捨て用の桶に放り込んでしまったのだ」。
アンヘラ・ビオリカとの姦通が濡れ衣であるのならば、サンティアゴ・ナサールは浮かばれない。アンヘラ・ビオリカはなぜ、サンティアゴ・ナサールの名を出したのだろう。「つまり、アンヘラ・ビオリカは本当に愛していた相手の男を庇っている、彼女がサンティアゴ・ナサールの名前を選んだのは、まさか兄弟が彼といさかいをするとは思わなかったからだ、というのである」。
作中の描写から、アンヘラ・ビオリカが処女でなかったのは真実であると思われる。また、その相手がサンティアゴ・ナサールでないことも恐らく真であろう。しかし彼女の相手の正体は最後まで明かされない。彼女は、サンティアゴ・ナサールを犠牲にし、誰にも (読者にも!) 秘密を明かすことなく自己の保身に走ったわけである。しかも、「町」から夜逃げをするように出ていったアンヘラ・ビカリオは、新しい土地で母親 (を代表とする旧家の桎梏) から逃れたかのように精神を解放する。
窓辺のその牧歌的な構図の中にいるのをみたとき、わたしはその女性が、自分が思っていた彼女だとは信じたくなかった。なぜなら、人の一生が、三文小説そっくりの結末を迎えるのを、認める気になれなかったからだ。
ここでまたもやメタ・レベルの批判が記される。それに応えるように、アンヘラ・ビオリカの「その後」が語られる。
「相手」の名前を決して明かさなかったアンヘラ・ビオリカだが、彼女にも「心の奥底でなお炎を放っていた真の不幸」を抱えたまま生きていたのである (と書かれる)。それは「彼女はバヤルド・サン・ロマンに実家に連れ戻されてからというもの、彼のことを常に想い続けてきたということである」。
ある「偶然」からバヤルド・サン・ロマンの姿を再見した彼女は、彼に手紙を書き送る。その内容は段々とエスカレートしていき、「初めのうちは紋切り型の簡単なものだった手紙は、その後、片想いの女の気持ちを短く綴ったものとなり、はかなかった新妻の香りのする手紙、仕事についての覚え書き、愛の記録、そしてついには、棄てられた妻がよりを戻すためにひどい仮病を使うような品のない手紙となった」「彼女はその中で、あの忌まわしい夜以来胸に抱き続け、もはや腐ってしまっている、苦い真実を、恥じらうことなくぶちまけた。彼が自分の体の裡に残した痕のこと、彼の気の利いた言葉、アフリカ人を想わせる熱い一物のことなどを書き連ねた」。
そして彼女の「想い」に審判が下される。
彼は着替えの詰まった旅行カバンのほかに、もうひとつ同じものを持ってきていた。それには彼女が彼に書き送った、二千通余りの手紙が詰まっていた。手紙は日付の順に束ねられ、色つきのリボンで縛ってあったが、すべて封は切られていなかった。
かつての彼女を規定していた古い家の慣習 (「町」の基本的な倫理の象徴) から「解放」された彼女の新しい精神は、外部に対して無効であったことがここで示される。しかしだからといって、彼女が「町」に戻るという選択肢は、無名の相手との初交渉 (これは「町」の崩壊の暗示でもある) と、バヤルド・サン・ロマンとの短い結婚によって、あらかじめ潰されている。
事件に対する「町」の反応はどうであったか。
「事件から十二日後、調書作成のために検察官が、生皮を剥がれてぴりぴりとしている町を訪れた」ところ、「劇的事件において自分が重要な役割を果したことを誇示したくて、呼ばれもしないのに、先を争って証言しようとする群衆」が大挙して訪れる。
共同体は個々人がそれぞれの「役割」を演じてこそ維持される。実際、事件前の描写では、町の人々の様子が、その職業や生活習慣を含めて、極めて克明に描写される。だが、異邦人であるバヤルド・サン・ロマンが催した盛大な結婚式によって、住民は日常の「役割」から一旦解放され、弛緩する。その後、サンティアゴ・ナサールを中心とする事件の関係者が、「人生が自分たちに振り当てた得な役回りを、誇らしく、またある種の威厳をもって演じた」。
この事件が住民の意識を刺激し、誰もが「劇的事件において自分が重要な役割を果したことを誇示したく」なる。この過程で、検察官もまた異邦人として設定されていることに注意したい。住民は共同体外部からの評価を欲し始めた。かくして「町」は精神的に解体する。
——などなど、書きたいことは山ほどあるが、長くなってきたのでこのあたりで終了する。この書評では小説の枠組みを中心に感想を書いてみたが、本作の面白さはディティールに依るところが大きい。特にビカリオ兄弟が刃物を 2回研いだり、ペドロ・ビカリオが淋病であったりする場面は爆笑ものである。逆に、サンティアゴ・ナサールの母であるプロシダ・リネロが表玄関を閉じるあたりには戦慄を覚える。特にクライマックスの殺人シーンは圧巻であり、この部分は是非自身の眼で御一読願いたい。
殺人事件は「偶然」と揶揄的に自己言及されているが、全てのディティールは辻褄が合うように慎重に記述されている。その「偶然」がどのような経緯で起こったか、それは全て明らかになっている。そこに隠された意味を探すのもまた楽しいだろう。
最後に、愛すべきアポンテ大佐の描写を紹介する。本作は、このような細部の面白さに充ち満ちている。
「怪しいからといって人を捕まえるわけにはいかんのだよ」と彼は言った。「今すべきことは、サンティアゴ・ナサールに用心させることだ。謹賀新年、めでたし、めでたし」
クロティルデ・アルメンタはその後、アポンテ大佐のいかにも呑気な性格に不愉快な想いをさせられたことを、決して忘れなかった。それに対し、わたしの覚えている彼は、通信教育で習った交霊術を独りで試していたため、頭の方はいくらかおかしかったが、好ましい人物だった。