- 小説に関する断章

2006/05/14/Sun.小説に関する断章

T です。こんばんは。

小説に関する断章

小説は小説としての面白さのみで評価するべきであって、そこに作者というファクターを加味する必要性は全くない。そういう軸が一方で存在する。作者の思想信条宗教が作品に無関係であるわけはないが、しかしそれらは作品の評価と切り離すべきで、むしろ作者に関する情報が小説を読み解く上での妨げにすらなり得る、という考え方である。

もちろん、小説を「読み解く」ことに何かの価値があるとは限らない。読み解かれた作品はバラバラにされた知恵の輪のようなものだが、2つに分かたれたリングには既に「知恵の輪」としての魅力はない。

もう一方で、小説といえども作者の表現の一形態に過ぎない、という軸が存在する。たまたま作者が小説という表現形式を採用しただけで、それがエッセイであろうと現実の言動であろうと、実はそんなに変わらないんじゃないか、ということである。重要なのは「誰の言葉か」であって、例えばネット上に溢れかえっている「無名の」人々による大量の言説に対する有効な切り口は、このあたりにあるのではないかとも思える。

小説は何をどのように書いても良い自由がある。そう主張する作家は多く、俺もまた賛同する。しかしそのような無限の自由の中で、では何をもってそれを「小説」と判断するのか、そういう疑問が出てくる。「これが小説である」という枠組みを設けた瞬間、それは乗り越えられるべき文学的課題として、続く小説に破壊される。

同様な問題が俳句にもある。五七五プラス季語というルールがあるゆえに、「破句」という存在が成立する(「芸術的な、あまりに芸術的な」参照)。では、ルールを破れば全て破句となるのか。五七五七七という「俳句」はあり得るのか。原稿用紙 400枚に及ぶ「俳句」は? 破句であっても、我々はそこに何らかの「俳句らしさ」を感じている。その「らしさ」とは何なのだろう。

筒井康隆『着想の技術』は、小説を徹底的にメタな視点から捉えた名著である。ここで筒井は「登場人物」という項を設け、これまでにない登場人物像を展開しているが、そもそも小説に登場人物が必ずいるのか、という根本的な疑問には答えていない。動物や神々が登場する小説、あるいは筒井自身も『虚航船団』において文房具とイタチを主人公にした小説を書いているが、彼らは全て擬人化されており、人間のメタファーに他ならない。読者は彼らに感情移入できるし、そういう意味で「登場人物」なのである。感情移入できる依代が全く存在しない時空間で展開される小説は成立するのか(もちろん、その物語は最低限の面白さを持っていなければならないが)。

研究日記

病院 → 大学。病院では細胞の世話、その他諸々来週の準備。大学では別の細胞を固定。

以前に食べ切れなかったカレーのリベンジ。同じ相手と戦ってもしょうがないので、大盛りを注文する。普通に完食。この前はなぜ残してしまったのか。食欲がなかっただけなのかなあ。安心して就寝。