- 機能論と情報

2012/09/29/Sat.機能論と情報

力関係とは相対的なものである。

留学に際して気楽なことは、向こうでは誰も自分に期待などしていないであろう、するわけがない、ということである。期待という行為を冷厳に考察すると、期待する側と期待される側の力関係についての理解が得られる。若い人にとって、期待されるために努力が必要な場所は challenging だといえるし、最初から過剰な期待が寄せられるような場所は disappointing だと思って差し支えない。

話を変える。

マイケル・ゲルヴェン『ハイデッガー『存在と時間』註解』を再読している。ハイデガーの哲学は科学との関わりにおいて興味深いが、今回の精読ではその機能論的側面に注目している。

「金鎚とは何か」と哲学者は問う。それは金属製の head を持ち、それに直交する柄があり……、という構造的な記述で金鎚の本質を定義することは不可能である。「金属製の head とは何か」「柄とは何か」という新たな疑問を産み出すだけだからである。

この問題に対するハイデガーの回答は simple である。「金鎚は釘を打つためのものである」。なぜ、金槌が釘を打つためのものとして私の前に現れるのか。私が釘を打とうとしているからである。なぜ、私は釘を打とうとするのか。私は、私が釘を打つことができることを知っているからである。この可能性は、私が時間的な存在であることによって開かれている。——とまあ、私のハイデガー理解はこの程度のものだが、それでも得るところは大きい。

例えば「心臓とは何か」という問題がある。哺乳類では二心房二心室からなり、主に心筋細胞で構成され……、といった構造的な記述ではやはりその本質を捉えることができない。「心臓は血液を循環させるためのものである」という機能論でなければ生物学は成立しない。

物理や化学は機能論を必要としない。炭素原子12は六個の陽子と六個の中性子、そして六個の電子からなるが、それは何かの機能を実現するためではない。それはただ、そうなることが自然だから=エネルギーを必要としないからそうなっているのである。

逆にいえば、機能を実現するための反応というのは不自然な=エネルギーを要求するものである。このような反応は最終的に破綻する。それが生物が死ぬ理由である。

もっとも、生きるための機能が不可避的な死の原因、というだけでは話が単純に過ぎる。生物はその過程で遺伝情報を残すことができる。この「情報」というものは機能や構造とどう関係しているのか。残念ながら、ハイデガーは情報については語っていない。