- Diary 2012/08

2012/08/31/Fri.

先日の日記で「〜が欲しい」という心理について書いた。これはつまり求不得苦のことである、と後で気付いた。四文字で済む話である。馬鹿か俺は。

もっとも、これは言葉を知る上で望ましい過程ではある。初めに言葉があり、次にその意味を覚えるのは幼年期までである。以降は、自分が認識する、しかし精確には表現できない事物について、それに対応する言葉を——言葉が存在するのだという事実を——知る、という経験の方が多くなる。自分が考えるあらゆることは既に誰かが考えており、必ずや適した言葉が産み出されている。繰り返されるこの出会いは、他者の思想を学び、歴史に想いを馳せ、言葉の成り立ちに興味を抱く契機になる。

逆にいえば、対応する言葉が存在しないという状況は、その概念がこれまで考えてこられなかったことを意味する。

ところで、アメリカ合衆国のことを米国と書く。なぜ米なのか。コメの国はむしろ日本やタイであろう。合衆国は麦や黍の国である。……冗談はともかく、米国という表記は亜米利加という当て字に由来する。なぜ一文字目の亜ではないのか。既にアジア(亜細亜)で使われているからである。では、なぜ Asia という外国語を使わなければならなかったのか。これに気付いたときには愕然としたが——、日本語には Asia に相当する言葉がなかったからである。日本は長い間、自らが属する地域を指す言葉を全く必要としなかったのである。これがいかに異常なことであるかは、英国に Europe という単語がなかったらと仮想すればよくわかる。そんなことはあり得ない。

こうなると、福沢諭吉『脱亜論』なども前提がおかしなことになってくる。脱するも何も、ほんの少し前まで Asia という概念すらなかったはずなのである。不思議な話である。

2012/08/29/Wed.

金が欲しいと思う人がいる。金が足りないと思っているからだろう。金が足りないと思うのは貧乏人である。したがって、金が欲しいと思う人は貧乏人である。このとき、彼が有している財産の絶対量は問題ではない。

この logic は「○○が欲しい」という大抵の心理に当て嵌めることができる。貴方が欲しいものは何だろう。愛だろうか、名誉だろうか。背丈かもしれないし、アイスクリームかもしれない。研究者ならどうだろう。業績か、研究費か。

「○○が足りない」と自覚することと、「○○が欲しい」と希求することは微妙に異なる。「欲しい」と表明する行為は、さらに別の意味を伴って他者に理解される。

とはいえ、足るを知る(知足)、ではいささか積極性に欠けるきらいもある。足らざるを知る(知不足)あたりが中庸なのかもしれない。……ってこれ、無知の知と一緒じゃねえか。

2012/08/26/Sun.

ハルバースタム『朝鮮戦争』の書評で記し忘れていたことがあったので補足しておく。

既に指摘したように、本書には日本に関する記述はない。しかし実は、日本も朝鮮戦争に直接参加しているのである。

実は海上自衛隊が創設される前、朝鮮戦争初期の1950年秋に、当時の海上保安庁の掃海部隊が朝鮮半島東側の元山港付近に出動し、米海軍指揮下に北朝鮮軍の機雷を処理する戦後初の敵前対機雷戦を体験しています。このとき触雷によって日本人乗員1人が「戦死」しましたが、日本政府は掃海部隊を出していることも含めて一切公表しませんでした。

(小川和久『日本の戦争力』)

自衛隊の海外派遣に関する議論などでは、「我が国は戦後一度も戦争に参加したことがない」といった主張をしばしば聞いたが、それは虚構である。戦後神話の一つといっても良いだろう。

(加えるなら、元山上陸作戦は、仁川上陸の成功で舞い上がったマッカーサーによる全く無駄な作戦であった。元山には陸路を行った韓国軍がほぼ無傷で一番乗りを果たしている。日本の掃海隊が急かされながら機雷を撤去する必然性はなかったといって良い)

「Wikipedia - 朝鮮戦争」の「日本特別掃海隊」にも若干の記述がある。それによれば、海上保安庁の参戦は、中国やソ連のリークを通じて、国会および国連総会でも話題になったという。

調べてみると、第十回国会で日本共産党の加藤充による以下の発言がある。

第五には、日本の労働者は、国連協力の名のもとに、実質上、日本の人的、物的戦争力の総力をあげて朝鮮戦争に介入し、動員しているところの、内外反動の手先吉田政府によつて、まつたく動物的低賃金と、言語に絶する━━━監視のもとに、━━━━職場で労働強化をさせられている実情を、私どもは見のがすわけには参らないのであります。文字通り給料も與えられず、国体消磨的奴隷労働を強行していることが、公務員を含めて、全日本の労働者災害の増大の根本的な原因であることを、ここに指摘せざるを得ないのであります。民族の独立と平和と、人民の生活の安定と向上を保障したところのポ宣言を基準とした公正な全面講和の確立と締結こそが、労働者災害補償の唯一の根本的施策であることをここに主張し、このことのために、わが党は断固として闘うことを宣言し、以上をもつて反対の討論を終るものであります。(拍手)

第十回国会衆議院本会議第三十九号 - 昭和二十六年五月二十四日

「日本の人的、物的戦争力の総力をあげて朝鮮戦争に介入し、動員しているところの、内外反動の手先吉田政府」という批判はあるが、日本共産党が「見のがすわけには参らない」としているのは、労働者の給料問題である。この発言は国家公務員災害補償法案についてではあるのだが、「朝鮮から撤退しろ」という指摘はない。

日本共産党と朝鮮戦争の関係については兵本達吉『日本共産党の戦後秘史』に詳しい。兵本は「日本共産党の『軍事闘争』の目的は、朝鮮戦争の後方撹乱である」という。しかしそれなら、加藤は海上保安庁による国連軍の支援をもっと糾弾しても良さそうにも思えるのだが……。

第十一回国会は以下のごとくである。

○[社会党]猪俣[浩三]委員 もう一つ。この講和条約によりますると、日本は国際連合に加盟しなくても国際連合に協力するところの義務を負担されておるのでありますが、朝鮮事変がもし停戦できませんで、発展するような場合におきまして巷間伝うるところによれば、日本の警察予備隊がいわゆる国連軍に協力する意味において朝鮮に渡るような説をなすものがありますが、かようなことにつきましては、もちろん私ども信ずるわけではありませんけれども、かりにさようなことがあり得るとすれば、これは憲法違反だと考えます。憲法を守る以上は、たとい軍隊にあらずといえども警察予備隊なるものを朝鮮に派遣するというようなことはあり得べからざることと考えるのでありますが、内閣の法律顧問たる法務総裁の所信を明確にしていただきたいと思います。

○大橋[武夫]国務大臣 警察予備隊は、ポツダム政令でありまする警察予備隊令によつて組織せられておるのでございます。警察予備隊令のいかなる条項を見ましても、警察予備隊が朝鮮に派遣されるということはあり得ないわけでありまするし、また現に政府といたしましても、さような場合があるということはとうてい予想いたしておりません

第十一回国会衆議院法務委員会第二号 - 昭和二十六年九月十八日、[]内及び傍線引用者)

共産党や社会党は、本当に海上保安庁の活動を知っていたのであろうか。知っていたとするなら、あまりにも鉾先が鈍い。実際には、それほど精確な情報を得ていなかったのではないか。あるいは、強く指摘できない理由でもあったのか。よくわからない。

一九五一年当時の日本共産党は武装闘争による混乱と分裂の危機にあり、翌一九五二年の第二十五回総選挙では候補者が全員落選する。同年には破防法が成立し、日本共産党は調査対象団体に指定される。一九五三年にはスターリンが死去、朝鮮戦争は停戦となる。このような流れの中で、うやむやになってしまったのだろうか。

朝鮮戦争への日本の参加が広く知られていたなら、それは必ず安保闘争で採り上げられたはずである。やはり、基本的には知られていなかった事実と考えて良いのだろう。

2012/08/22/Wed.

先週は左手を鍛えることに集中した。今週も続けている。問題は山積みだ。

破壊力、スピード、射程距離、持続力、精密動作性……。ジョジョのスタンド能力ではないが、いずれも目を覆うばかりの惨状である。せめて成長性だけはと願いたいところだが、それも練習次第であろう。

最初の課題は、左手でも右手と同じようにスティックを握ることである。まさかとは思うが、これが非常に難しい。スティックを「握る」と書いたが、実際は親指と中指で軽く挟むだけである。しかし左手だとこれができない。握力がなく、指も細やかに動かないので、どうしても掌で支えようとしてしまう。手先は丸まり、スティックの可動範囲は狭まり、ますます手首は固くなる。

どうしようもないので、先週は毎日ひたすら左手でスネアを叩いていた。とにかく叩くしかない。

その甲斐あって、ようやく左手でも力を抜いてスティックを保持できるようになったが——、次は手首がグラグラであることに絶望する番である。筋力がないのに力を抜いているので、スティックの軌道がブレまくる。ただでさえ弱いパワーがさらに分散され、音が出ない。シンバルを叩いても全く響かない。

それ以前に……、スネアからシンバルに左腕が伸びない。意識が手先だけに集中しており、肘が固まっているのである。「シンバルを叩きにいかねば」と思っても腕が伸びず、上体がつんのめるということが何度もあった。仕方がないので、スネア-シンバル-スネア-シンバル……という腕運びを別途練習する羽目になる。

だいぶ左手も動くようになってきたかな——、と思うのはまだ早い。まるで冗談のようだが、右左右左……という簡単なリズムが、左右左右……と逆になるだけでグズグズになってしまうのである。これには笑ってしまった。それぞれの動作に対して、繰り返し練習をし、一々回路を作っていかなければいけないのだと、ようやく悟った次第である。

小さな課題を見付けては、それをこなしていくのが今は楽しい。

2012/08/18/Sat.

絵画教室三十二回目。五枚目の水彩画の五回目。モチーフは寿司(の写真)。

下塗りを終え、寿司ネタに色を置いていく。鮪、鯛、イクラ、雲丹、卵。透明感を出すのが難しい。混ぜると濁る——、わかってはいるけれども、混ぜないことには色は出ぬ。一通り塗ってみたが、どうも美味そうではない。大丈夫だろうか。

夜はイタリア料理屋で晩餐。

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過去の絵画教室

2012/08/17/Fri.

音楽や動画は、ディスクの時代を経て、今ではフラッシュメモリ上で再生されるのが一般的である。にも関わらず、いまだに高速逆再生のことを「巻き戻し」という。いったい何を「巻いて」いるのか。テープを知らない若い世代は不思議に思っているかもしれない。

とはいえ、走馬燈を知らなくとも「走馬燈のように」という比喩が理解できるのと同じで、何を巻いているのかを知らずとも「巻き戻す」ことの意味は諒解できる。

——ということを踏まえた上で、あえてもう少し考えてみる。実は「早送り」という言葉もおかしい。これは高速再生のことだから「速送り」と書くのが正しい。しかし、そもそも何を「送って」いるのか。よく考えると不明である。

「早送り」に対応させるなら「早戻し」になるはずだが、なぜか「巻き戻し」である。ひょっとしたら、ごく初期の巻き戻しは高速ではなく、等速逆再生に過ぎなかったのかもしれない。

(そもそも「送る」の対語が「戻す」なのかという当然の疑問もある)

(それに、文字数が揃ってないのも気持ちが悪い。「早や送り-巻き戻し」か「早送り-巻戻し」にするべきだろう)

さて、いったい何を送ったり戻したりしているのかという問題を再び熟考してみると、それが「テープの位置」であることに気付く。これは完全に技術者の発想である。広義のデザインが欠如しているよな、と思う。消費者が送ったり戻したりしたいのはテープというハードではなく、コンテンツというソフトである。それがわかっていないから、テープというハードが消滅したときに、「何を巻いているのか?」という事態に陥るわけである。

英語では早送り・巻き戻しのことを、fast-foward・fast-rewind という。

2012/08/13/Mon.

幼少の頃、俺は左利きだったが、親に矯正されて完全な右利きとなった。左利きの記憶はうっすらとだが残っており、今でも左手は普通の人よりよく動く——と思っていた。

ドラムを叩いて実感したことだが、右手に比べて左手の動きが悪過ぎる。スティックを振る上で重要なのはスナップだと思うが、とにかく左手首が動かない。精密な動作ができないためフニャフニャとしているくせに、握力がないので余計な力が入ってスナップが効かない。最悪である。

とりあえず、右手と左手で同時にスネアをバンバンと叩いて練習している。両手を一緒に動かすことで、具体的にどこが違うのかが体感できる。非常に幼稚な動作だが、効果は大きい。

もう一つ、これと関係する問題がある。

教本などには、両腕を交叉させて右手でハイハット、左手でスネアを叩くクロスハンド奏法が一般的と書いてある。一般的だか何だか知らないが、どうも納得がいかない。ごく素直な感想として、両手を交叉させるのは不自然である。身体が左を向くことの利点もよくわからない。そんなにハイハットを右手で叩きたければ、スネアと位置を入れ替えれば良かろう、とすら思う。もっとも、スネアを左にすれば別の不自由が出てくるので、クロスハンドなるものが存在しているわけであるが。

すぐに思い付くのは、左手でハイハットを叩けば何も問題はないということである。そうすれば、わざわざ両手を交叉させる必要はなくなる。このオープンハンド奏法は主流ではないものの、少なからぬ奏者が存在する。

それでオープンハンドを試してみたのだが、左手が自由に動かないことには話にならないことを悟って冒頭に至るわけである。クロスハンドの場合は右手が主なので、左手が多少怪しくともマシに聞こえるが、オープンハンドではそうはいかない。

いずれにしろ、左手は鍛えなければならぬ。奏法云々以前の問題であろう。

2012/08/12/Sun.

原因に意味を付与すると理由になる。したがって科学では理由を問うことはできない。

もっとも、原因という事象があるわけではない。原因もまた与えられた意味である。

一方向に流れる時間の中でしか存在できない我々は、因果律——聴覚的な思考——すなわち順番——に基づいてのみ、事象の関係性を認識できる。

因果関係が「ある」ということの危うさがここにある。因果関係はどこに「ある」のか。頭の中である。

因果関係が自分の外側に「ある」と信じているうちは、他人との諍いが絶えない。

読書日記

2012/08/11/Sat.

リズム rhythm という字は子音ばかりである。何語が由来なのだろうか。

ドラムを叩きながら、どうして初心者でもこんなに楽しめるのかについて考えた。「演奏」が成立する敷居が低いからではないか——、というのがとりあえずの結論である。リズム楽器の演奏が成立する最低条件はただ一つ、「テンポが合っていること」である。それゆえ「正解」もない。間違えないのだから楽しいはずである。

例えば、『きらきら星』を一小節の間に四回叩こうが三十二回叩こうが、『きらきら星』に変わりはない。生まれて初めてスティックを握った者でも、四分音符くらいは叩ける。それに、どの太鼓を叩いても——どの音を出しても良い。そして、それだけで演奏が成立する。

メロディはそういうわけにはいかない。音符を半分に減らしたり、勝手な音を鳴らしてはいけない。当たり前である。それゆえに難しい。

逆にいえば、『きらきら星』を『きらきら星』たらしめているのはあくまでメロディであって、リズムではないことがわかる。メロディを高速で奏でてもスローで奏でても『きらきら星』であることに変化はないし、ドラムがなくても『きらきら星』は成立する。

ここまで考えると、「楽曲とは何であるのか」という深遠な疑問に行き着く。ドラムを叩きながら、考えていきたいと思う。

2012/08/10/Fri.

告白するが俺は楽譜が読めない。

それでもドラムを叩いたりギターを弾いたりと、演奏を楽しむことができる。世の中にはタブ譜という便利なものがあって、スコアなど読めなくとも何とかなるのである。このことを知らずに損をしている人はかなり多いのではないか。

(ちなみにタブ譜は略語で、正式にはタブラチュア譜という。これもあまり知られていない)

とはいえ、音楽理論の基礎知識が決定的に欠けているのは時に致命的である。今日は、8 ビートだと信じて叩きまくっていたリズムが実は 16 ビートだったでござる、という得難い衝撃を経験した。

例えば、8 ビートとは次のようなリズムである。

1、2、3、4、5、6、7、8。
右 左 右 左 右 左 右 左

リズムを体得するには声に出して数えながらが良いという、どこかで仕入れた薄っぺらい知識を持っていた俺は、それを実践しながら以下のように叩いていたのである。

イチニイサンシイゴオロクシチハチ
右左右左右左右左右左右左右左右左

どう見ても 16 ビートです、本当にありがとうございました。しかも、最後のハチは fill っぽくしようと、さらに倍速で叩いていたので 32 ビートになっている。俺はこれが 16 ビートだと信じていたので、ドラマーってスゲエと素直に感心していたのだから、おめでたいという他はない。

倍速で修業をしていたようなものだから、悪いことではないのだろうが、それにしても。

2012/08/06/Mon.

アイドルマスターの名曲「てってってー」の正式名称は "TOWN" である。それにしても……、プレイしたこともないのに、俺はどうしてこんなことを知っているのだろうか。iPod に曲名を入力しながら、自分でも不思議に思う。

電子ドラムの話である。初心者であるから、まずはメトロノームに合わせての基礎練習——なんてことをするほど気は長くない。音源に繋いだ iPod から流れてくる曲に合わせて、毎日好き放題に叩きまくっている。先日の日記にも書いたが、"Do Me" いわゆるヒゲダンスのテーマが最近のお気に入りである。ドラムの BGM という、少し倒錯した目的に奉仕するための楽曲であるから、

などが好もしい条件となる。それで最初に思い付いたのが "Do Me" というわけである。

しかし、"Do Me" 一曲ではさすがに飽きてくる。他にないかと考えているうちに、上に挙げた条件の多くはゲーム音楽の特徴と合致することに気付いた。早速、3DS を繋いで『マリオカート 7』の BGM を流してみる。タイトル画面を含めて良曲が目白押しであるが、レースゲームという性質上、いずれもテンポの速い曲ばかりで、ビギナーには少々荷が重い。叩くだけで必死になってしまい、練習どころではない。

そこで「てってってー」である。テンポがゆっくりなので、リズムに合わせて叩いている感じを存分に味わうことができる。また、ループが短いので、色々なリズムパターンをすぐに試すことができる。

ゲーム音楽には思い入れの深いものが多い。近いうちに CD 屋でサウンドトラックを漁ってこようと思う。

2012/08/04/Sat.

絵画教室三十一回目。五枚目の水彩画の五回目。モチーフは寿司(の写真)。

下塗りの続きを行う。やはり背景のような広い面積を塗るのが難しい。下塗りには一見実物とは異なる色を塗るのだが(例えば葉には黄、海苔には青など)、それでも一通り塗り終えるとそれらしく見えてくるのだから不思議なものである。

夜は居酒屋で晩餐。糸撚魚(イトヨリ)煮付など。今夏は暑いのでビールばかり飲んでいる。

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