- 世界への回帰

2014/08/14/Thu.世界への回帰

世界観、設定、仕様といった情報の断片それ自体がときに好んで読まれるのは、これらがより大きな物語を想像させるからである。

これはある点で科学的な営みと似ている。実験や観察によって得られる情報は限られたものに過ぎないが、これらを適切に解析し論理的に推測することで、背後にある自然現象や法則という科学的な「物語」を読み取ることができる。たとえば物理定数は、我々が住むこの世界の「設定」であるとしか表現の仕様のない数字である。

科学論文と設定集の違いは、前者に記載される要素が事実であるのに対し、後者のそれは架空のものだということである。とはいえ、設定集の記述も「その世界」における「事実」ではある。では両者の何が違うのか。科学の「物語」を駆動するのが論理であるのに対し、世界観から紡ぎ出される物語に必要なのはせいぜいが妥当性で(妥当性が高いと「ハードな」物語となる)、それよりも想像力が重視される。しかしそれは、創造とはいささか異なるようにも思える。

設定集で開陳される情報の大部分は「いつかどこかで見た」ものであり、設定から読み解かれる物語は「いつかどこかで見た光景」なぞらえるように再構築される。ここで行われているのは、膨大な物語的知見から好ましい症例を引き出してくるという臨床的な操作である。これを創造というのは難しい。

この問題は科学における「発見」と相似する。巨人の肩の上に立つという言葉が示すように、全ての科学的知見はそれ以前の観察結果と整合することが求められる。DNA の二重螺旋モデルが素晴らしいのは、このモデルが、どのように遺伝情報が複製されるのか、世代を超えて伝達される安定性を実現しているのか、シャルガフの法則が持つ意味は何かといった既存の難問を同時に解決したからこそである。過去の文脈に囚われない独創は科学的業績になり得ない。

加えていうと、DNA はワトソンとクリックが生まれる遙か昔から二重螺旋であった。発見されるべき事実、読み解かれるべき物語はあらかじめ存在していたのである。

「全ての音楽は既に存在している。常に我々の周囲を満たし、息づいている。後は我々がそれを聴き取ってつかみ取ればいいのだ」

(『歓びを歌にのせて』)

創造はこの世界に新しい物事をゼロから作り出す行為ではなく、発見はこの世界の秘密を暴く行為ではない。世界から孤立しているのはむしろ無知な我々である。創造や発見は我々が世界に回帰するための運動だといえる。芸術家や科学者がときに人間社会で孤独をかこつ理由もこのあたりにあるのかもしれない。