- ゲームと倫理

2014/08/11/Mon.ゲームと倫理

直立歩行による自由な両腕の獲得が人類の知性を発達させたという説がある。これが真実なら一部の蟹は高い知能を発揮しそうなものだが、「蟹は賢い」という話は絶えて聞いたことがない。

以下は「ゲーム理論と生存競争」にも関係する雑感である。

ゲーム理論では様々な事象をゲームに見立てる。もっとも、ある事象がゲームとして記述可能か否かと、その事象がゲームであるか否かは別問題である。

科学者の営為も、「可能な限り高い IF の学術誌に論文を掲載するゲーム」「できるだけ高額の研究費を獲得するゲーム」と読み替えることができる。特に論文掲載に関しては、百万本/年を超える出版数、よく定義された書式と引用、計量書誌学の発展などによって、高度な理論が構築できる環境が整っている。「効率的な論文出版法」を開発し実践するのは容易なはずである。ただ、大部分の研究者はゲームとして論文を執筆しているわけではなく、また資本家にとっても事業としての旨みがないので、需要もない。

研究の重要性を定量的に評価するなど不可能だ、という初心うぶな意見も根強い。このあたりの事情は錯綜している。ある研究が重要であるか否かと、その研究が重要であると判断されるか否かは異なる問題である。「自分の研究の重要性を評価してもらうゲーム」として世界を定義し、この状況に勝利する技術を磨くことは充分に可能である。

これらの科学ゲームは、事実を論理的に記述した文書によって判断される。この規則が遵守される限り、科学ゲームはプレイヤー以外の人間にも利益をもたらし得る。多くの政府が税金を投じてこのゲームを開催する所以ゆえんである。

研究結果の捏造が許されないのは、それがルール違反だからという単純な理由による。ルール違反はゲームの成立を脅かし、ゲームによる収穫を逓減させる。プレイヤーおよびプレイヤー以外の者、すなわち捏造者以外の全ての人間が捏造によって不利益を被るため、捏造者はゲーム内外から排除される。その際には「倫理にもとる」という非難が起こる。

ゲームを成立させる振る舞いが倫理なのだともいえる。サッカーの試合でファウルを取られても倫理を犯したことにはならない。しかしボールを手で抱えて走り出したら、それは倫理にもとる行為とのそしりを免れない。試合をブチ壊したからである。

ゲーム理論で最も奇妙なのは、参加者の全てがルールを遵守するという前提である。その上でルールの破壊者を考察すると、犯罪や倫理、あるいは「空気を読む」などの概念が浮上してくる。これはメタ・ゲーム理論の重要な副産物に思える。だが、機械的に記述されるゲーム理論の外側の領域の話なので、社会学的な思惟に頼らざるを得ない。

ところで、世間のルールを逸脱した犯罪者も、裁判や刑務所のルールには服する。なぜか。前者が倫理という空理によって維持されるのに対し、後者は警察などの実体的な暴力によって強制されるからである。後者ではルール違反と肉体的危機の関係が直結しており、ゲームを御破算にするリスクを本能的に察知できる。つまり「判決に従わなければならない」というゲームは「とてもわかりやすい」のである。

わかりやすいゲームで構成された社会を未開と表現してもよい。厳罰、排他性、保守性、固定的な身分と役割、数々の禁忌・儀式など。逆にいえば、ゲームの高度な発達は人間性の排斥でもある。ここで倫理が持ち出される。なぜなら、もはやゲームは生物の原理から大きく乖離しており、言葉はゲームのルールに費やされているからである。「なぜゲームに参加しルールに従わねばならぬのか」という問いには、それが守るべき倫理であるからと答えるしかない。問答無用。それが倫理である。この体制を維持するため、倫理を犯した者には重い罰=生物としての不利益が課される。これが非生物的なゲームに参加する生物的な理由ではないか。