- Diary 2003/06

2003/06/27/Fri.

アメリカ行きの機内における長時間禁煙からベクターの読み枠まで、距離の違いはあれども(ありすぎ)心配の絶えない T です。こんばんは。

今年一発目の学会は、米国ロスアンジェルスで開かれる国際線虫学会。明日の朝に出発して 7月 4日の夜に帰国の予定。俺にとっては 2回目の海外行きなのだが、1回目がタイの原野でキャンプ、2回目がアメリカの大学で学会って、少し極端過ぎはしないだろうか。世界を股にかけるソフィスティケートな野生児。

「修羅場、どっと混む」は、そんな貴方を応援します。

2003/06/25/Wed.

今日はバングラ語の疑問型「〜・キ?(〜ですか?)」を覚えた T です。こんばんは。

朗報。A氏の論文がアクセプトされた。おめでとうございます。めでたい、めでたい。朝っぱらから K先生が「A博士だ、A博士だ」と気違いのように叫びながら廊下を走り回っていたのに対し、超クールな A氏。またまた惚れ直してしまった。

せっかくなので、いつもよりは豪勢に(と言っても知れているが)飯屋E.G. で A氏、B氏、ヒゲマン氏とともに昼飯を食う。少し盛り上がりに欠けるが、水で乾杯などをする。A氏、早く偉くなって俺を雇って下さい。何でもやります。

そう言えば昼飯を食っている間に、先日の日記で紹介した『上杉謙信の哀しみ』という書きかけの小説は一体どうなったのか、という質問を B氏より頂戴する。実はメモが古いバックアップ・フロッピーから発掘され、その全容が明らかになっていたのだ。俺としては書き上げるつもりもないし、ましてや発表する気もなかったのだが、せっかくだからここに載せろと所望されたので頑張って完結させようかと思う。期待はしないで。

2003/06/24/Tue.

ここ 2、3日、R女史の指導の元、バングラ語の学習に励んでいる T です。こんばんは。

日本とバングラディッシュ、似ているのは国旗のデザインだけではない。バングラ語の語順は基本的に日本語と同じである。俺が多用しているのが「パリ・ナ」で、これは「できない」という意味。パリ = できる、ナ = ない、である。簡単。似たような例が「〜したい」の場合で、これは「チャイ」という。同様に「したくない」ならば「チャイ・ナ」となる。結構面白いので本腰入れて学ぼうかと思っている。

T「ペゴパヨ〜(腹減った)」
R「ウソー、さっき食べたばかりでしょ。ペッシャーシ・ゴッタ・パリ・ナ(信じられない)」
Z「バングラ語、上手」
F「あなたはバングラ人ですか?」

今日のラボでの会話である。ちなみに T = 俺 = 日本人、R女史 = バングラ人、Z氏 = バングラ人、F氏 = ガーナ人である。わけがわからんが、おもろい。

2003/06/23/Mon.

学校のトイレの小便器に貼ってある「CeFiON」という謎のラベルを見るたびに「ああ、線虫フッ素イオンかあ」と思いながら尿を垂れ流している T です。こんばんは。

知らない間に会員となっているファミリーレストランR.H. から、1ヶ月前だというのに「お誕生日おめでとうございます」と書いてある葉書(割引券付き)が来た。と思ったら、帰宅時には家電量販店D.D. から「上得意様謝恩特別ご招待会」のお知らせときたもんだ。そう、俺は客だ。神だ!

神と言えば、R女史によると「タンパクも DNA も全部、神様が作った」のだそうだ。勿論、タンパクの立体構造も、ゲノムの全塩基配列も知っている。

論文書けや、神。

2003/06/21/Sat.

俺の本名は割と古風で少々堅めの印象がある。自分では気に入っている。しかし最初、母は俺に「風太」という名前を付けようとしたらしい。危うく俺は「風太」として人生を送るハメになるところだったのだ。絶対イヤだ。

だって風太だよ、風太。ふーた!

……全国の風太氏、すまん。「名は体を表す」というが、ある程度の歳になれば名前に相応しい風貌が身に付くものだ。周囲の人間を思い浮かべたら、成程その人にはその名前しかないというほど、しっくりきている。

もしも俺が「風太」ならば、今とは違った人生を歩んできたことだろう。

割と良い人生のようだ。しかし、

今の俺と風太の俺は恐らく友人にはならないだろう。

いつか息子が生まれたら「風太」と名付け、この想像が当たるかどうかを試してみよう。

2003/06/20/Fri.

やらなければならないことがあるときに限り、どうでもいいようなことを無性にしたくなる。試験前に部屋の掃除したり。それまではいくら散らかっていても全く気にならないのに「掃除してからじゃないと勉強できん!」という強迫観念に襲われるアレだ。

昨年、俺は三つの学会に参加した。最初は「学会が終わったらゲームを買って遊ぶでえ」とハッパをかけるのだが、何故か学会前に購入してしまうという現実逃避野郎ぶり。軟弱者には死を!

で、今回もヤッちまったわけだが。

カプコンの「Devil May Cry」である。同じくカプコンの名作「バイオハザード」と似たゲーム。悪魔の血を引くダンテという男を操り、剣や銃を駆使して悪魔と戦うわけだ。このゲームは「スタイリッシュアクション」を自称しており、漫然と戦うだけではなく「スタイリッシュに」戦わなければならない。結構難しいが、決まると快感である。

「Devil May Cry」は 1 と 2 が出ているが、俺が買ったのは 1 である。ゲームはミッションクリア型で、各ミッションにクリア条件が設定され、それを満足すると次のミッションに移る。難易度「NORMAL」で一度クリアし、新たに出てきた「HARD」を目下挑戦中だ。

2周目以降は前回までに強化したデータでチャレンジできるのだが、MAX まで育て上げたダンテでも HARD はかなりの難物である。さらに HARD クリア後には、最強レベル「Dante Must Die!」というものがあるらしい。Must Die! って、アンタ、それじゃあクリアできへんがな。

2003/06/19/Thu.

昨日の日記に書いた店員さんの左手薬指の指輪の件だが、掲示板にも書き込んで頂いたように「魔よけ」=「男よけ」の可能性もある。

ま、よけられているのは俺だという可能性もあるが。

スーパーでバイトしていた俺から見れば、暴利を貪っているとしか思えないような価格設定のコンビニであるが、どこで買っても値段の変わらない煙草を手に入れる場としては重宝している。24時間売っているという意味では自販機より便利だ。この煙草にかかる税金が 2003年 7月 1日より値上がりする。酒、煙草、ガソリン、俺が愛するもの達にのし掛かる税率は法外なほど高い。

「法外な」と言っても法律が決めているんだが。

こうなれば自分で煙草の葉を栽培するしかない。それとも、これは違法なんだろうか。

2003/06/18/Wed.

最近はコンビニ弁当を常食しているので吉野家に行っていない。ということは勿論 O嬢(行きつけの吉野家に勤務する令嬢)にも会っていないわけで、まことに寂しい限りである。かというと、実はそうではない。近頃は我が豪邸に一番近いコンビニの店員さんに夢中なのである。そういうわけでコンビニ弁当ばかり食っているのだ。

このコンビニには T嬢、D嬢という 2人の麗しき店員さんが、かなりの高頻度で俺を出迎えてくれる。ところでこの 2人、どちらも関西弁をしゃべる。これがよろしい。隠そうとしても滲み出るそのイントネーション、俺は決して聞き逃さない。眼福のみならず耳福まだ与えてくれるこの 2人には感謝感激である。

T嬢は俺より年上(に見える)で、上方、いわゆる京都方面の関西弁を操る。D嬢はまだ幼い面影が残り、俺は今年大学に入学したばかりなのではと踏んでいる。彼女は奈良・和歌山方面の関西弁を使う。この違い、関西以外の人にはわからないかもしれんが。

ところが先日、T嬢の左手薬指に光る指輪を発見!

別に関係ないことなのだが少しショックだ。

そして今夜、D嬢の左手薬指に光る指輪を発見!!

別に関係ないことなのだが結構ショックだ。明日は吉野家に行こう。

2003/06/17/Tue.

ビジネス雑誌は、売れ行きが伸び悩んだときに戦国武将、とりわけ信長・秀吉・家康の特集を組むという。その特集の号だけでも、ある程度の売れ行きが保証されるという。個人的には「信長に見るビジネス戦略」だの「豊臣秀吉、その驚異の処世術」だの「部下はこうして掌握しろ!家康の心得」だの、はっきり言って、とても現代に通用するものではなかろうと思うのだが、面白いことは面白い。

この3人がどれくらい人気があるのか簡単に調べてみた。

これは今日現在の Google でのキーワード検索にヒットした数である。比較対照として他の幕府関係者も検索してみたが、一目瞭然の圧倒的な知名度(あくまでネット上だが)である。3人と同時代の大名では「信玄」がほぼ義経と同じで、これが最高であった。コントロールに比べて時代が下っているから資料もあろうかと思ったが、近代でも「隆盛」の 76,600件が最高であった。

(あくまで政治の中枢に関わった歴史上の人物で、という範囲の中で選択している。また、検索ワードが下の名前なのは、例えば織田信長の伝記などでは「信長は〜」という書き方をすることが多かろうと考えてのことである)

調べているうちに何を書こうとしたのか忘れてしまった。しかし興味深いので、暇があれば色々と検索してランキングでも作ってみるか。

2003/06/13/Fri.

日記再開。ちょっと長いが。

男に生まれてきたからには男前になりたいものだと常に思っているが、これが難しい。

「武士は食わねど高楊枝」という言葉が好きだが、これは最低限「食える」状態でないと発生し得ない言葉でもあると実感した。恐らくこの言葉ができたのは江戸時代に入ってから、つまり武士が安定して「食える」状態になったからではないかと思うのだが、実際にはどうなのだろう。

では、食うや食わずの時代はどうだったのかというと、これは「腹が減っては戦はできぬ」という言葉がちゃんとある。こいつらなら、戦となれば楊枝を食ってでも飢えを満たしたのではないか。衣食足りて礼節を知る、とも言う。昔の人は偉いものだ。

どうも愚痴っぽい。これが嫌で日記を休止してたんやけどなあ。

閑話休題。といっても、この日記自体が閑話なのだが。今となっては想い出話だが、俺は小説を書いていたことがあったのだよ。若かったのだ。最近、ハードディスクの奥底から、遠い昔に冒頭部分だけを書いた小説が発掘された。ファイル名が『上杉謙信の哀しみ』となっているから、恐らくこれがタイトルなのだろうが、自分には全く覚えがない。目を通してみたが、どうにも書いた記憶がないのだ。

自分で書いておいて何だが、内容が凄い。最初の一行が

「僕と上杉謙信が狭い六畳一間のアパートで同棲するようになってから一ヶ月が経つ」

である。ちなみに「僕」は現代の大学生である。何故、謙信が現代にいて「僕」と一緒に生活しているのかについては一切の言及がない。しばらくは謙信と「僕」の日常生活が細かく描写される。会話はほとんどない。

そのうち謙信が「川中島に行きたい」と言い出し、2人は途中のコンビニで飲料を買いながら徒歩で川中島を目指す。段々と街から離れ、最後は山の中を歩いていく。そろそろ川中島に出る頃だなあと思わせる文章があったかと思うと、最後の一行「法螺貝の音が聞こえてきた」で唐突に終わる。

何なのだ、これは。ブッ飛んだ内容の上に未完かよ。法螺貝というからには、そこは戦国時代の川中島、今しも上杉軍と武田軍が激突する瞬間なのだろうが、そこからどうするつもりだったというのか、当時の俺。小説を書くときは必ずメモを取り、結末に至るまで構成を練ってから書いていたものだった。その段階で挫折することはあっても書き出してから放り出したことは、まずない。では「上杉謙信の哀しみ」は法螺貝が聞こえてきたところで終わるという小説なのか。違うような気がするのだが。

この作品に関するメモを探したのだが、ハードディスクの中にもノート(執筆ノートがいまだにあるのだ。ああ恥ずかしい)にも見当たらない。とすると実家(俺が小説を書いていたのは高校 3年生から大学 3年生までの間であった)か。

実は、学会でアメリカに行く前に一度帰って来いと親が言うので週末は帰省するのだが、その機会に古いノートを探してみようと思っている。