- Book Review 2011/04

2011/04/29/Fri.

副題に「宇宙の誕生と驚異の未来像」とある。チープなタイトルだが、著者はインフレーション理論の提唱者であり、易しい語り口とは裏腹に内容はなかなか高度である。

本書の主題の一つは、インフレーションが生じる原理である。真空の相転移によってインフレーションが起きるという理論を端的に示したグラフは、これまで何となくしか理解していなかったインフレーションに具体的なイメージを与えるのに役立った。本書を読んでの大きな収穫である。

後半では膜宇宙モデルが紹介されている。膜と膜(我々の宇宙と別の宇宙)の間を唯一伝播できる重力が暗黒物質の正体ではないかという仮説が面白い。本当なら、ダークマターが見えないのも当然である。

2011/04/24/Sun.

構造主義進化論とは何か。

ナメクジウオのようなものが何らかの理由で脊椎動物になったとしよう。そうすると、一度脊椎動物になったら、発生経路に制約された脊椎動物以外のものにはまずならないのである。

[略]

すこしでも環境に適したものは生き延びる確率が高く、環境に適さないものは死ぬ確率が高いことは確かである。生きているものに自然選択が働くと考えること自体は、正しい。

しかし、系統の基礎となるような発生的な制約を、すべての生物は持っているから、自然選択の結果、適応的な変異が生き残ることはあり得ても、この制約を離れて形が無制限にどんどん変化していくことはあり得ないのである。

[略]

つまり、ダーウィン的な考え方では、分岐したときはほとんど同じだが、突然変異と自然選択によって徐々に変わって、まったく違った生物群ができると考える。形の大変化は事後的に決まる。

しかし、構造主義生物学では、システム(構造)が同じである種分岐は、たとえ古い時代に起こっていたとしても、瑣末であると考える。新しいシステム(構造)は一気に定立し、システム(構造)の定立だけが、真の高次分類群の起源にあるのだ。

(第五章「構造主義進化論」)

核にあるのは、「生物というのは、もとの形から無限にどんなものにでもなるわけではなくて、ある拘束性があって、そのなかでしか変形[トランスフォーメーション]できないという考え」である。なぜなら、生物に生じる変異は自然選択=外部選択に曝される以前に、発生という、非常に強い「内部選択」を受けるからである。

つまり、DNA に変化が起きたとき、どのような DNA の変異でも許されるわけではなく、システムに許容されて発生可能な DNA の変異もあれば、システムに許容されず、発生できずに死んでしまう DNA の変異もある。

(第五章「構造主義進化論」)

この制約から逃れられる形で最も起こりそうな変化は、加算的なものである。

極端なことをいうと、発生がとりあえずうまくいくシステム(構造)があるにも関わらず、それを棄却して新しい別の構造に切り替えるのは、難しい。生き残れない確率が高い。一番生き残れる確率が高いのは、今までのシステムをそっくり温存したままで、すこしだけ新しいシステムを加える方法だ。これが一番単純で一番うまくいく。

(第五章「構造主義進化論」)

重要なのは、新たに加えられる構造は恐らく恣意的なもの、すなわち偶然であるだろうという指摘である。発生し得た偶然の産物は、その後に自然選択によって淘汰を受ける。

当たり前の話ではある。が、自分の考えていることと共通点があって面白かった。

一つは、病気の program は発生のそれに比べて完成度が低いだろいうという推測(「病気と目的」「病気と目的(二)」)である。外部選択より内部選択の圧力の方が強いのであるから当然である。生殖期の後に発現する病気などは外部選択すら受けていない。

もう一つは、「生命現象の大半は『場当たり的』で『なし崩し的』なのだろう」という直感である。それが場当たり的に見えないのは、後に外部選択を受けているからである。これはもっと精確に書き改める必要がある。すなわち、「各生命現象の誕生経緯は『場当たり的』で『なし崩し的』なのだろうが、その後の外部選択によって、適応したように見える(相対的には実際に適応している)」。

また、本書では次のようにも書かれている。

大分前から私は、適応とは、生物が突然変異と自然選択の繰り返しで、生息する環境に徐々にフィットしていくことではなく、形質が急激に変化したので、最も生息しやすい環境に進出した結果であると主張している。

(「学術文庫版まえがき」)

本書では、(ネオ)ダーウィニズムに対する批判にも大きく紙幅が割かれている。ダーウィニズムは進化の要素を全て DNA の変異に還元して考えたことに問題がある、というのが要旨である。DNA という物質に生じる変化は等質ではある(だからダーウィニズムでは「徐々に」進化が起こる)が、構造的には必ずしもそうとは限らない。

豊富な事例や歴史的経緯とともに、進化論を考え直す機会を与えてくれる一冊。

2011/04/23/Sat.

永瀬輝男/志摩亜希子・監修、鍛原多恵子/坂井星之/塩原通緒/松井信彦・訳。副題に「世紀の謎を描けた数学者、解き明かした数学者」とある。原題は "POINCARE'S PRIZE" 、原副題は 'The Hundered-Year Quest to Solve One of Math's Greatest Puzzles'

位相幾何学の重要問題であるポアンカレ予想は、最終的にロシア人数学者のグレゴリー・ペレルマンによって肯定的に証明された。

ポアンカレ予想は面白い問題だが、それ以上にペレルマンという人物が興味深い。彼は学者の世界のあらゆる俗事(論文を書いて他者に評価されること、業績を地位や名誉として顕彰されることなど)を徹底的に厭う。証明を権威ある雑誌に論文として発表せず、有名大学のポストを断り、ポアンカレ予想を解決してからはフィールズ賞もクレイ研究所の懸賞金も辞退し——、最終的にはアカデミアから姿を消して、現在は祖国に戻り母親の年金で暮らしているという。

以前からこの人物に関心があったので本書を繙いた。前半はポアンカレの人生と、彼が確立した位相幾何学について詳述される。炭坑の技師(当時のフランスでは最高のエリート)であったポアンカレの活躍などは、彼の人柄がよく現れており、人物にも親しみが持てる。ポアンカレにはそそっかしい面があり、詳しい証明を省いた——しかもよく検討すれば実は欠陥のある——論文を発表することも時にあった。しかし、それは偉大な数学者であるという彼の評価を傷つけるほどのものではなかった。

後年、ポアンカレは後々のトポロジストを百年に渡って悩ませる問題を提起した。

球面は自明な基本群を持つ。基本群は分類体系として万能ではないかもしれないが、少なくとも自明な基本群を持つ物体ならどれも球面と同じなのではないか? ポアンカレもそう考えた。だが、何年か前にいい加減なことをやってから、少しは慎重になっていて、今回は自分の予想を定理だとは言わなかった。ポアンカレは第五の補足の最期の段落を「論ずべき問題がひとつ残されている」という控えめな一文で始め、"多様体の基本群が自明であり、かつその多様体が球面と同相でないことがありうるだろうか" というような問いを続けて発している。

これがかの有名な予想である。ご覧のように、予想というほどのものではなく、一見素朴な疑問だった。だが、言い回しからして、ポアンカレは正しい答えが「ノー」だと思っていたようだ。もう少しわかりやすくするため、この疑問を、のちに予想として知られるようになった形で、輪ゴムが取り付けられて巻き付けられた物体を使って言い直してみよう。「どのように掛けられた輪ゴムも一点に縮めることができる三次元の物体は、球面に変形できる」。つまり、三次元球面を識別するのに必要な情報は一次元ループだけでいいのではないかとポアンカレは考えたのだ。

(7章「あの予想の意図」)

輪ゴムの比喩は理解しやすい。また、直感的に予想が正しいようにも思える(ポアンカレ予想は高次の次元から証明され、三次元の証明が最後まで残った)。

以後、多くの数学者が証明に情熱を傾け……、たくさんの屍が積み上げられた。このあたりの歴史はフェルマーの大定理と似ている(サイモン・シン『フェルマーの最終定理』足立恒雄『フェルマーの大定理』、アミール・D・アクゼル『天才数学者たちが挑んだ最大の難関』)。

やがて、ハミルトンによって決定的な解決法が見出される。彼はリッチ・フローを用い、ポアンカレ予想の解決プログラムを提案するまでに至った。

こうして難物のポアンカレ予想を証明するための第一歩が踏み出された。リッチ・フローを使う証明戦略を示唆することで、ハミルトンは一大飛躍をなしとげた。つまり、ある領域(トポロジー)の問題を、別の領域の道具(微分方程式)で解こうと提案したのだ。

(11章「消える特異点、消えない特異点」)

このあたりの事情もフェルマーの大定理を彷彿とさせる(フェルマーの大定理は志村・谷山予想の解決から証明されるということがわかっていた)。

ペレルマンはハミルトンのプログラムに則り、幾つもの問題点を解決することで、最終的にポアンカレ予想を証明した。本書の後半で語られるこの過程は物語の白眉である。同時に起こった様々な騒ぎは学界の性格を如実に反映しており、研究者であれば考えることも多いだろう。

充実した索引と原注も付き、ポアンカレ予想を知るのに適した一冊である。

2011/04/16/Sat.

軌道エレベータの実体は、地表にまで届くほど長大な静止軌道衛星である(地表に建造される構造物ではない)が、この巨大施設(全長五〜六万キロメートル!)をどのような素材で、そしてどのような方法で建造するのかは、難しくも面白い問題である。本書では、軌道エレベータの概念とその歴史が解説されるとともに、様々なアプローチからその実現可能性が検討される。

2011/04/15/Fri.

本書では、三笠宮(大正天皇四男)が実は男女の双子であり、女児の方は奈良の尼寺で門跡をされているという説の真相が検証される。近世以降の西日本には、男女の双子は情死者の生まれ変わり(畜生腹)という迷信が存在した。双子の片割れは里子に出されたり殺されるといった習慣もあったという。超の付く保守主義者で、大正天皇の死後はいよいよ神懸かり的な言動を強くする貞明皇后の性格を考えると、たとえ自分の子供といえども、忌むべき双子の女児を寺に出すくらいはしそうである。事が事なので、直接的な関係者の決定的な証拠や証言は存在しないが、著者は度重なる取材で傍証を重ねていく。

2011/04/10/Sun.

冨永星・訳。原題は "A Beautiful Math"、副題に 'John Nash, Game Theory, and the Modern Quest for a Code of Nature' とある。

本書では近年のゲーム理論の展開が俯瞰されている。今やゲーム理論は、ナッシュ均衡のようなある意味では naive なモデルを遙かに越え、ネットワーク理論、統計力学、確率論、量子力学と融合し、その適用範囲も経済学から神経科学、進化論、文化人類学へと広がっている。

ゲーム理論を、我々のような自由意志を持つ(とされる)個体の群れに適応しようとすると、どうも感情的な反論が起こるらしい。しかし我々の選択は、常に周囲の環境や別の個体の選択に影響を受けている(同時に与えてもいる)。我々はそれぞれの文化を規範としているし、充分な時間や情報がない状況で判断を求められることもある。選択肢はたくさんあるといっても、「採り得るであろう」選択は自ずと限られてくるのが実情である。

そもそも、最近のゲーム理論が明らかにしようとしているのは、様々な個体が相互作用する系における、「系全体の振る舞い」なのであって、各個体の動向ではない。熱力学では、個々の気体分子の動きが具体的にわからなくとも、気体の振る舞いを精確に知ることができる。それと同じことである。

ただ、人間の集団や、神経細胞の回路、WWW のネットワークの諸要素は、気体分子のように一様ではない。政治的影響力のある者がいたり、Google のように莫大な被リンクを集めるサイトが存在する。ネットワーク理論——グラフ理論——では、このような結節点を持つような cluster を含むネットワークの動態が研究され、ゲーム理論にも応用されている。

また、量子力学とゲーム理論との結合も興味深い。もっともこれは、量子コンピュータの応用例であるようにも読める。では実際に、量子ゲーム理論的な判断がなされている現象は存在するのだろうか。

イギリスのハル大学のアザール・イクバルは、量子もつれが分子の相互作用に影響を及ぼし、そのような影響なしにはありえないような(ある生態系における生命体の進化論的に安定した戦略に相当する)安定した混合状態をもたらす、と主張している。ある数の分子が、少数の新たな分子の「侵入」(進化生物学における突然変異に相当する)に「持ちこたえられるか」どうかは、量子もつれという「戦略」によって決まるようだ、というのである。

(第十章「デイヴィッド・マイヤーの「コイン」」)

[論文は http://arxiv.org/abs/quant-ph/0508152 から閲覧できる]

「この説の真偽はまだまだ判定できないが」と著者がいうように、上記のような説はまだまだ疑わしい。しかしいずれ、このようなアプローチが必要になってくる可能性はあるだろう。

2011/04/09/Sat.

山形浩生・訳。ヒドい邦題だが、原題は "Super Crunchers"。副題に 'Why thinking-by-numbers is the new way to be smart' とあるように、非常に啓蒙色の強い内容である。

主に無作為抽出テストと統計回帰分析を駆使した「絶対計算」(super crunching)による予測が、もはや専門家の能力を上回り、世界中のありとあらゆる分野において実際に使われている——というテーマである。

専門家の予測が統計的な予測より明らかに精度が高いという結果が出たのは、一三六件のうちたった八件。あとの研究は、統計的な予測が専門家の予測を「明らかに上回った」ものと、両者に明白な差が出なかったもので半々となっていた。全体として、白か黒かの予測をしろと言われたら、こうしてきわめて多様な分野の専門家たちは、だいだい三分の二くらいの確率(六六・五パーセント)で当てた。だが絶対計算者たちは、四分の三近い正解率(七三・二パーセント)だった。専門家が勝った八つの研究は、特定の問題領域には固まっていなかったし、何ら共通の特徴を持っていなかった。

(第5章「専門家 VS. 絶対計算」)

病気の診断ですら、医師の判断よりも統計的な予測の方が高精度であるという現実において、我々(特に、研究に携わる私のような者!)は何をすべきなのだろうか。

一言でいえば、仮説立案だ。人間に残された一番重要なことは、頭や直感を使って統計分析にどの変数を入れる/入れるべきではないか推測することだ。統計回帰分析は、それぞれの要因につける重みは教えてくれる(そしてその重みの予測精度も教えてくれる)。だが人間は、何が何を引き起こすかについての仮説を生み出すのにどうしても必要なのだ。

(第5章「専門家 VS. 絶対計算」)

ところで、本書が意図的に触れていない(と思われる)点がある。回帰分析は、実験なり観察なりの結果として顕現した事象を説明する数式を与えるが、その式の原理的な妥当性や、「なぜ」そのような式で現象が予測できるかについては無言である。予測精度が高いことと、機構が解明されているか否かは、回帰分析においては本質的に無関係である。

もう一つ、回帰分析以前の話だが、例えば、私と同様の遺伝的背景および生活習慣を持つ人間が百人いたとして、その内二十人が発癌するという統計的事実は、私が二十パーセントの確率で発癌するという予測を即座に導くわけではない。前者は頻度であり、後者は確率である。本書ではこの点が混同されているようにも感じる。

統計解析が予測するのは系全体の帰結であって、個々の要素の行く末ではない。このことについては、次の書評でも触れたい。