最近、何度か本書の名前を日記や書評で出しており、良い機会なので再読してみた。
本書は、筒井康隆が「文藝」誌で行っていた文芸時評をまとめたものである。つまり評論の本なのであって、それをまた書評するというのも珍妙な話だが、とにかく面白いので紹介する。俺は以前にこう書いた。
困ったことに、筒井の書評はわかりやすい上にメチャクチャ面白く、原作を読まずとも理解した気にさせられる、それどころか、ひょっとしたら原作はこの書評よりもつまらないのではないかとすら思ってしまう、という部分がある。
筒井の評論が持つこの面白さは、以下の信念に基づいている。
小説を評論する時には、論者は当然その小説を面白いと思ったからこそ評論するのであろうから、まずその面白さを評論の中で表現してみせなければならないだろうということ。
(「第3回」)
これを読んで以来、俺も自分の書評では作品の面白さを引き出すように努めてはいるが、なかなか難しい。どうすれば「面白さを評論の中で表現」することができるのだろうか。その答えも本書にある。
大杉重男「『あらくれ』論」のことである。これはみごとな分析で、古臭い自然主義リアリズム小説と思われていた徳田秋声の「あらくれ」を、現代文学として現前させている。(中略) 面白さゆえにおれも夢中で読んでしまったのだが、読んだあとで考えこんだ。評論がこんなに面白いわけがない。これはもしや「あらくれ」そのものの面白さではないのか。
(中略) 案の定だ。特に最初の第一、二、三章など原文の約三分の一が引用され、地の文に含まれる原文を加えれば二分の一、(中略) これだけ丹念に引用し紹介すれば誰だって「あらくれ」の世界に引き込まれ、あとは論者の思うがままということになるのである。いやあ狡い狡い。こういう手があるとはなあ。
(「第3回」)
なるほど。面白い部分を引用すれば良いわけだな。というわけで、本書の紹介もまた引用によって代える。
俺が最も好きなのは、小島信夫『殺祖』に対する評である。
小島信夫の小説はいつも面白いが、その冗長ぶりが常に否定的に指摘されるのは不思議なことだ。長い小説の長所のひとつが「長いこと」であるのは小説というジャンル発生以来の真実なのだから、冗長を批判するのなら小島信夫ほどの作家がそれを冗長と思わないで書いた、イコール、ボケているという失礼な判断をしているのではないことを証明するためにも、それをどこが「いたずらに」長く「無駄が多い」のかを指摘しなければなるまい。そこを見極めようとすればその冗長さにとてつもないユーモアの仕掛けがあることくらいすぐわかる筈だ。作者自身がそのことをどうやら「殺祖」(群像・十一月号) という短篇でわかりやすく教えようとしているらしい。(中略)
のっけから笑ってしまう。
九月某日、東京近代文学館において。
出席者、文学館理事とか評議員とかのうち五、六名の方々、ほか職員の方々。
「小島信夫氏について御本人から色々とおききする集り」
近代文学館関係者を馬鹿にしていると同時に小島信夫本人もまた馬鹿にしているのであり、とてつもなくふざけた話であろうと奇態させる。その期待は裏切られない。
(中略)
この面白さは説明するよりパロディにすればたちまちわかってもらえるのだがなどとだんだん書きかたまで小島信夫に似てきたりして、しかしながらその面白さの仕掛けは原典たる「殺祖」ですべて仕掛けられている以上おれが書いてもそれはパロディにならず盗作になってしまうのであり、さらにまたそれは単なる某老大家のボケぶりを笑うというだけの話になってしまい、自分でとぼけて見せるこの「殺祖」の本当の面白さは表現不可能である。
(「第1回」)
ね、面白そうでしょ?