- 『写生文』夏目漱石

2008/08/01/Fri.『写生文』夏目漱石

夏目漱石には『写生文』という小文があって、青空文庫でも読める。「写生文の特色についてはまだ誰も明暸に説破したものがおらん」ところを、漱石先生が縦横に語ってくれる。

小供はよく泣くものである。小供の泣くたびに泣く親は気違である。親と小供とは立場が違う。同じ平面に立って、同じ程度の感情に支配される以上は小供が泣くたびに親も泣かねばならぬ。普通の小説家はこれである。

では漱石のいう写生文とはいかなるものか。

人間に同情がない作物を称して写生文家の文章というように思われる。しかしそう思うのは誤謬である。親は小児に対して無慈悲ではない、冷刻でもない。無論同情がある。同情はあるけれども駄菓子を落した小供と共に大声を揚げて泣くような同情は持たぬのである。写生文家の人間に対する同情は叙述されたる人間と共に頑是なく煩悶し、無体に号泣し、直角に跳躍し、いっさんに狂奔する底の同情ではない。傍から見て気の毒の念に堪えぬ裏に微笑を包む同情である。冷刻ではない。世間と共にわめかないばかりである。

何だかハードボイルドのようだ。あるいはユリウス・カエサル『ガリア戦記』か。『ガリア戦記』が写生文であるというのは実に得心がいくし、何となく理解できる気がする。また、あまり関係はないかもしれないが、「写生」という観点から芥川龍之介『薮の中』を読み返すと面白いかな、とも思った。

現在の世に言う「写生文」のイメージのほとんどはアララギ派のそれであり、漱石の写生観は一般に浸透していない印象がある (漱石の説く文章は脈々と受け継がれているが、それが「写生」という語と対応して語られていない)。

「写生」という日本語は (漱石の写生観からすれば) あまり良い言葉ではないかもしれない。風景に人物の心理や感情を練り込むというある種のナマナマしさは、「写"生"」という語感に大きく影響されているようにも感じる。これを東洋的アニミズムの発露と見ることもできるし、漱石は西欧精神の人間だから、と付け足すこともできる。無論、全て妄想である。

ともかく、今や「写生」を論じる必要もなくなってしまったのだろうが、先達の言うところを知っておくのは無駄ではない。温故知新。

それにしても漱石の文章が面白くて、写生文などどうでも良くなるのは困ったものだ。上に引用した、「小供の泣くたびに泣く親は気違である」という一文も爆笑ものだが、他にもまだまだある。

普通の小説家は泣かんでもの事を泣いている。世の中に泣くべき事がどれほどあると思う。隣りのお嬢さんが泣くのを拝見するのは面白い。これを記述するのも面白い。しかし同じように泣くのは御免蒙りたい。

かくのごとき (T註: 写生文の) 態度は全く俳句から脱化して来たものである。泰西の潮流に漂うて、横浜へ到着した輸入品ではない。

唐突に思い付いたのだが、ハードボイルド俳句という考えは面白いかもしれない。尾崎放哉とか。Wikipedia に「代表句」として挙げられているものを見てみよう。

結構ハードボイルドだよなあ。同じことが短歌でできるだろうか——、というのは宿題にしておく。