- 問いのある山

2009/07/15/Wed.問いのある山

ある特定の何かを研究しているという意識が希薄な T です。こんばんは。

十数年前から抱いている、あるイメージについて語りたいのだが、本題に入るには些かの余談が要る。

研究をする動機は人によって様々だろうが、俺のそれは非常に教条的で黴臭い。曰く「世界とは何か」「人間とは何か」「私とは何か」。学会の発表などでよく耳にする、「〜に興味があって」という感じとは少しく異なる。無論そういう個的な興味も大いにあるが、どちらかといえば副次的なものであって、根元には世界や人間がゴロゴロと寝そべっておる。かといって、本気で「世界」や「人間」を解き明かそうとして日々を送っているわけでもないのだが。それは病気である。

世界とは自分が認識する自分以外の事物の有機的な繋がりだ。自分とは何かといえば、とりあえず人間ではある。この意識の周辺には特異と普遍が入り混じっている。「私」は unique だが「私という人間」は単なる Homo sapiens である。私はその特異性によって私なのであり、またその普遍性によって他者——世界——との交流ができる。不思議なことだ。

世界は確固として在るのだろうが、私にとっての世界は私が認識したものでもあり、それは私という人間によって濾過されたものともいえる。したがって「世界とは」「人間とは」「私とは」は、ほとんど同値の問いなのであって——、要するに何を研究すれば良いのかわからない。色々とあって俺は生物学を選んだ。

上に列挙した問い掛けは、ある一つの茫洋とした問いに収束する。意識的にしろ無意識的にしろ、誰もがそれを考えては諦め、努力したり挫折したり、ウンコをしたり死んだりして何千年も経った。その問いは富士山のように裾野の拡がった巨大な山の頂にある。我々は群盲像を撫でるがごとく、麓のあらゆる所から思い思いに山を登り始めた。学問である。何世代も経ると幾つかの道が整備されてくる。ある途は文学と呼ばれ、また別の路は歴史と名付けられた。立派な登山口、険しい難所、快適な休憩所、見蕩れるような風景、変わりやすい天気などが現れては消え、栄えては滅び、人々はそのたびに乗り越えたり迂回したりしながら、とにかく視線だけは山頂に向けている。近年になって科学というブルドーザーが導入され、大変な勢いで登山道を拓けるようにもなったが、これには批判の声もないではない。

皆も馬鹿ではないので、生きている間にこの山を登りきれないことはわかっている。そこで道中の草花をしげしげと観察したり、歩き続ける人々をつぶさに記録する輩が出てくる。商売も始まる。これはこれで山の賑わいに貢献しており、人々の旅路は以前に比べて豊饒なものになった。

頂には到達できぬが、登れば登るほど景色が素晴らしくなることだけは保証されているので、才能があり、労を厭わぬ者は今日も一所懸命に岩肌をよじ登っている。