- 『発掘捏造』『古代史捏造』毎日新聞旧石器遺跡取材班

2010/07/09/Fri.『発掘捏造』『古代史捏造』毎日新聞旧石器遺跡取材班

二〇〇〇年十一月五日、毎日新聞は、東北旧石器文化研究所副理事長(当時)藤村新一が、宮城県上高森遺跡の発掘現場に石器を埋めている様子を撮影した連続写真を発表した。同時に、藤村がこれまでにも、旧石器の発掘を捏造し続けてきたという事実までスクープした。これにより、日本の前期・中石器時代の遺物、遺跡、研究がほぼ完全に否定される事態となった。いわゆる「ゴッドハンド事件」である。

『発掘捏造』では、同スクープに至るまでの取材班の苦闘が描かれている。また、当時に旧石器時代研究の歴史的概略、学界の様子、遺跡発掘の実際などが解説され、問題を立体的に把握できるようになっている。考古学に興味がある人はもちろん、研究に関わる全ての人間が必読すべきレポートになっている。

『古代史捏造』では、発覚した一連の捏造事件の詳細、考古学会その他によってなされた学術的検証、そして、それらによって我が国の古代史がどのような修正を受けたかが報告されている。

この二冊は二〇〇三年に文庫化されたばかりだが、しかし現在では早くも絶版になっている。社会の公器を自称するのであれば、毎日新聞社と新潮社はすぐに再販すべきであろう。

旧石器捏造事件の詳細については本書に任せ、以下に「捏造」についての個人的な感想を述べる。

学問において、証拠の捏造はあってはならぬことである。ただ、一人の研究者として、捏造という行為が生まれ得るものであることも理解している。無論、捏造を肯定するわけではない。社会から決して犯罪がなくならないのと同じレベルで、捏造問題を認識している。研究者にとって、それだけ「捏造」はリアルなものなのである。

したがって課題は、自分が犯罪者にならないためにはどうすれば良いか、犯罪を可能な限り防ぐシステムをどう作るか、起こってしまった犯罪にどう対処すべきか、という現実的なものになる。

自身が主体となって捏造を行わない、というのは前提となるべき当然の倫理である。問題は、他者の捏造を見抜くことができるか、見抜いた場合、それを指摘できるかということである。

自然科学において、捏造の指摘はそれほど困難ではない。再現可能な実験によって、確固としたデータを提出すれば良いからである。この点、自然科学は考古学(を初めとする人文学)よりも「事実」が厳然としている。検討されるのは白黒が判然とした実験結果であり、議論に依存する割合が低いので、個々の研究者の力関係は(最終的には)問題にならない。また、事実の確認や査定は、全く利害関係のない世界中の科学者によってなされ得る。捏造がその命脈を長く保つのは難しい。

捏造を疑えば、それを指摘することは可能である。では、どうすれば捏造を疑う、すなわち見抜くことができるだろうか。当該分野の正確な知識に精通しておくのは当然である。しかしこれは、専門家としての前提条件でしかない。捏造する側も専門家であるから、これだけでは不充分である。むしろ、研究者という特殊な人種の集団、研究という行為がなされる社会的環境、その研究の歴史的な位置付け、関連する他分野との整合性などに対する、広い視点こそ必要とされるのではないか。これらの観点は、当然、自らの研究を発展させる際にも有効であろう。捏造を看破するのは、いつも優秀な研究者である。

捏造を見抜く力を養う以外に、捏造を抑止する方法はない。いくら罰則を設けたところで、捏造が発覚しなければ効力は発揮されない。

捏造報道の多くは、ただひたすら「けしからん」というばかりで、実効性のある提案を行わない。僅かに触れられるのが「重罰化」である。上述の通り、これは対処療法でしかない。「捏造は起こり得るもの」と認識し、優れた研究を奨励することが——遠回りではあるが——、捏造を撲滅する正道であることが、まずは理解されるべきであろう。

本書を読んで気付いたのは、捏造の着想ー発生ー発覚ー証明ー対処といったプロセスが、一般的な犯罪および捜査のそれと極めて類似していることである。学界といった特殊な世界の出来事ではあるが、捏造は何か特別な行為ではない。帳簿の操作といった経済事件とも似ている。捏造に対しても、もっと犯罪学的なアプローチがなされるべきであろう。