- 『偉大な記憶力の物語』アレクサンドル・ロマノヴィチ・ルリヤ

2010/10/19/Tue.『偉大な記憶力の物語』アレクサンドル・ロマノヴィチ・ルリヤ

天野清・訳。副題に「ある記憶術者の精神生活」とある。著者はソ連の神経心理学者である。

本文中では「シィー」と呼ばれる「記憶術者」は、ラトビア生まれのユダヤ人、S・V・シェレシェフスキーであることが「訳者あとがき」で明かされている。本書は、シィーの異常な記憶力についての広範な記録である。

シィーの記憶力は、量的にも時間的にも際限がないように観察された。彼は、無意味な系列をいくらでも覚えることができたし、またそれを忘れなかった——正確には「忘れることができなかった」。

明らかになったことは、シィーの記憶力は、たんに記憶できる量だけでなく、記憶の痕跡を把持する力も、はっきりした限界というものをもっていないということであった。いろいろな実験で、数週間前、数ヵ月前、一年前、あるいは何年も前に提示したどんなに長い系列の語でも、彼はうまく——しかも特に目立った困難さもなく、再生できることが示されたのである。

(「ことの発端」)

この驚くべき記憶力は、どのようなメカニズムによって成立しているのだろうか。実験によって、シィーが極めて強い共感覚と直観像を有することがわかってきた。

共感覚(シネステジヤ synesthesia)とは、音を聴くと色や形が見えたり、色や形を見ると音が聴こえたり、においを感じる等、一つの様相の感覚(たとえば聴覚)が、別の様相の感覚(たとえば、視覚や触角や嗅覚)をひきおこすことを言う。

(訳注)

直観像(eidetic image)。過去見たことのある事物や経験を、現在あたかもそれを見ているかのように鮮やかに明瞭に再生する視覚的な記憶像。

(訳注)

シィーが何らかの言葉や数字を見たり聞いたりすると、共感覚によって、それに対応する「像」が生じる。

「(略)たとえば、『1』という数字の場合、それは、自負心のある、背のすらりとした人であり、『2』は、愉快な婦人、『3』は、何故だかわかりませんが、陰気な人……(略)」

(「彼の記憶力」)

共感覚によって生じた像も直観像であるから、非常に鮮明であり、しばしば現実と区別が付かない。そしてシィーは、これらの像を適当に「配列」することによって、一連の系列を強固に記憶することができる。

そして、この系列をも、シィーは生涯ずっと覚えていたのであるが、彼はしばしば、これらの像を、何らかの道路に沿って「配列」したのである。時には、それは子ども時代から鮮明に記憶されている彼が生まれた都市の通りや家の中庭であることもあったし、時には、モスクワの通りの一つであることもあった。彼は、しばしばモスクワの通りに沿ってそれらの像を覚え、モスクワのゴーリキー通りを利用することも稀ではなかった。そして、この場合、マヤコフスキー広場から始まり、いろいろな家、中庭、そして商店のいろいろな窓に像を「配列」しながら、中心部に向かってゆっくりと歩き、ときには、自分でも気がつかないうちに、再び、故郷のトルジュク町に戻り、その行程を、子ども時代の自分の家で終わることもあったのである。

(「彼の記憶力」)

ハンニバル・レクターの「記憶の宮殿」を想起した人もいるのではないか。とにかく、このようにして作られた像の配列は非常に安定しており、シィーはいつでも、通りを「散歩」し、像を「見る」だけで全ての系列を思い出すことができるのだった。

さて、異様な記憶力を持つ人間の精神世界は、どういうものなのだろうか。常人のそれとは大きくかけ離れているに違いない。本書の特徴は、まさにこの疑問を追求したところにある。

つまり、非常に秀でた記憶力が、人間の人格のすべての基本的な側面——思考、想像、行動——にどのような影響を与えるのか、もし、人間の心理生活の一つの側面である記憶力が異常に発達し、その人の心理活動の他の側面のすべてに変化を及ぼしはじめたとしたならば、その人間の内面的世界、他の人々とのコミュニケーション、生活の仕方が、どのように変化しうるのであろうか、という問題だったのである。

(「意図」)

それは、これまでの心理学がなおざりにしていた部分でもあった。著者がこの問題にどう取り組んだか、また、シィーがいかなる世界を生きていたのかについては、本書を読んでみてほしい。