- Diary 2014/10

2014/10/11/Sat.

能動的に生きるとは、自らの行為の説明を試みることであると書いた。

説明とは何か。科学において、自らの行為の説明(論文の記載)は誰もが諒解できるものでなければならない。しかしこれは極端な例であり、我々は我々が生きる上で多かれ少なかれ独自の説明を試みる。

イチローは彼独自の打撃理論を構築していると考えられるが、その説明が万人に適用できるかといえばはなはだ疑問である。彼の説明は彼の肉体と直結しており、松井秀喜に有効であるとは思えない。もっというと、私がイチローの理論を学んだところでほとんど何の意味もないだろう。だが、彼の説明が普遍性を持たないからといって無用とはいえない。イチローの説明は彼が安打を量産するため——、ひいては彼が彼として生きるために必要なのであり、その価値は疑うべくもない。

説明の独自性とその価値を考えると、カミュの『異邦人』が想起される。主人公ムルソーは裁判において、自らが犯した殺人の動機を「太陽が眩しかったから」と「説明」する。

『異邦人』が不条理小説とされるのは、ムルソーの説明が読者に対して不条理(独自性の極限)だからである。我々は彼の価値観を受容できないため、彼の説明が持つ彼にとっての価値も理解できない。これは、ムルソーが能動的に生きることの否定へと繋がる。その意味で彼が処刑されるのは必然といえよう。

2014/10/09/Thu.

何度も同じことを書く。

私とは生きている私である。生きていることは私が私であるための必要条件だが充分条件ではない。能動的に生きることによって私は私となる。

「能動的に生きる」とは何か。ある行為の意図や目的が説明可能であるか否かが一つの指標となる。ダンゴムシは日光を避けるように移動する。そこには進化的な理由があるのだろうが、彼自身がその行動を企図しているのではなく、自動的・機械的に動いているだけである。ダンゴムシはただ生きているだけであり、能動的に生きようとはしていない。

私はヒトという生物であり、言語化が困難な感情の揺れ、制御不能な生理反応、無意識の活動を頻繁に繰り返す。これではただ生きているだけだが、これらの行為を説明しようとする試みによって、私は私の生を生きることができる。「なぜ私はあの時あのような行動をしたのか」。過去の私に対する説明は、私が私であるための様々な条件を付随的に引き出す。つまり私は時間的な存在であること、私は一貫した存在であること(自己同一性)、私は私の生に対して責任を負うこと(社会性)などである。説明の可能性を開くことによってヒトは人間となる。

ここで人生論を垂れたいわけではない。

行為の説明可能性が私にとって重要なのは、それが実験科学の根幹の一つだからでもある。理想的には、実験の全ての要素は記述可能でなければならない。どのような仮説があり、どのような実験を企画し、どのような材料を用い、どのような操作・観察を行い、どのような結果を得て、どのような結論を導いたか。これらを記述することで初めて、得られた知見が他者と共有可能になる——、すなわち私の行為が科学となる。

培養細胞をリン酸緩衝液 PBS で洗う操作を考えよう。細胞を培養する上で幾度となく行われる基本的な手技である。実験を学ぶ上で必ず教わることであり、当然プロトコルにも記載されている。卒業論文の「実験材料と方法」に事細かく書くよう指導されることも多いだろう。

しかし肝要なのは、あるステップで細胞を PBS で洗うと覚えることではなく、細胞を PBS で洗ったという事実でもなく、ましてや上手に細胞を PBS で洗う技術を習得することでもない。なぜ細胞を PBS で洗うのかということを説明可能になることである。能動的に細胞を PBS で洗うことで、単なる実験的な操作が真に科学的な実験となる。

能動的に実験することで、多くの初歩的な問題が解決される。例えば、プロトコルは覚えるから忘れるのである。プロトコルを説明可能になれば操作を誤らなくなる。手技、結果の質、データから読み取れる事柄の量が向上する。どれだけ実験が上手いかとは、どれだけ実験が説明できるかとほぼ同値である。

とはいえ、ある時点で我々が説明できることは限られている。重要なのは、常に説明を試みることである。