- 半信半疑の科学

2014/05/16/Fri.半信半疑の科学

絶対的な真実truthは存在するか。この問いに対する答えは各人の哲学によって異なる。

自然科学は真実を想定した体系だが、同時に、真実には到達不能であることも前提としている。科学が行っているのは、真実と考えられる事物の残響を事実factとして観察すること、そして事実から真実を推測することである。これは海中深くを航行する潜水艦が、ソナーの反響だけを頼りに周囲の環境を察知するのに似ている。眼前にあると思しき巨大な物体が、果たして敵艦なのか鯨なのかを直接確認するには潜水艦から出るしかないが、それは無理な相談である。機器を改良して予測精度を高めることはできるが、原理的にいってそれは程度問題に過ぎない。

科学を行うのは人間であるが、我々はヒトの肉体という潜水艦に閉じ込められている。何億年もかけて銀河が形成される様子や、刹那の間にタンパク質が折り畳まれる経過をこの目で見ることは叶わぬ。科学の説明は常に間接的な仮説である。その意味で、世の中の全ての説明と何ら変わりはない。

例えば、私は十年以上に渡って DNA を扱っているが、今まで一度たりとも、DNA の構造が二重螺旋である証拠を自分で確認したことはない。無論、教科書には DNA の構造を示す観察事実と推測が記述されている。しかしそれを言えば、Nature の怪しげな論文にも多数の「証拠」が掲載されているのである。なぜ、DNA が二重螺旋であることを私は信じるのか。その理由は幾らでも挙げられるが——、然り、つまるところ私は信奉しているだけなのである。二重螺旋教の信者といっても良い。であるからこそ、来週の Science に「実は DNA の構造は四角錐であった」という論文が発表されたら、私はそれを鵜呑みにしてしまうかもしれない。……という自覚だけが、科学という営為を適性に科学的たらしめる。

信仰が過ぎるとそれは宗教となり、不信が募れば単なる懐疑主義と化す。科学者は常に半信半疑である。何を信じ何を疑うかは、それぞれ微妙に異なってもいる。だからこそ多数の信奉者によってパラダイムが形成され、少数の懐疑者によってパラダイムが覆される。この繰り返しが科学を駆動してきた。単一の「科学的見解」など元より存在し得ない。

私には私の科学的見解がある。それこそが研究者の存在証明である。私の見解が他者の見解と同一であっても構わない。むしろ大抵の場合でそうなるだろう。しかし時に「私独自の見解」に出くわすこともある。その際には、自信をもって自分を疑うことが肝要であろう。