- Diary 2014/05

2014/05/18/Sun.

「国全体が島である日本では『島』の概念が曖昧になりやすい」と書いた。

島とは何か。「周囲を水に囲まれている土地」と定義すれば、アメリカ大陸ですら島となる。それだけではない。表面が全て陸地であり、その中にただ一つだけ湖を抱えている惑星を考えてみよう。位相幾何学的にはこの大地も「島」といえる。

(湖の面積を徐々に拡大していけば、この陸地が島であることが理解できる。これは同時に、島だけではなく「海」と「湖」の定義も困難であることを示す)

陸地面積に対する海岸線の長さの比をもって島を定義できるかもしれない。円の面積と円周よろしく、面積は二次関数的に増減するが、海岸線の変化は一次関数的なはずである。ところがフラクタル理論では、海岸線の「長さ」は任意となる。無限小の物差しで計測した海岸線は無限長である。実際問題、海岸線あるいは国境線の「長さ」を精密に確定することはできない。これらの「長さ」が各統計資料によって異なる事実はよく知られている。

国際的な「島」の定義は以下のようである。

海洋法に関する国際連合条約(国連海洋法条約)第121条では、

の三つの条件を満たすものを「島」と定義している。

Wikipedia - 島

この条件では島と大陸を区別できないことは上述した。では大陸の定義は何かということになるのだが、こちらも模糊としている。

慣習的に、「大陸とは有意な水域で切り離された、充分に広く、連続的で、おのおのが独立していると認識される陸地」と言える。しかし、一般に言われる七つの大陸は必ずしも海で分断された離散的な状態にある訳ではない。広さも恣意的な判断に基づき、最大の島グリーンランドの面積は 2,166,086 km2 であり、大陸に分類されるオーストラリアの面積 7,617,930 km2 と比較した際に大陸とはみなされない理由は明確に説明されていない。

Wikipedia - 大陸

地理学では絶対的な数字が重視されるのだろうが、島と大陸の区分を相対的なものと捉えれば別の視点が生まれてくる。

島と大陸を区別しているのは、その必要があったからである。その点に関して、ユーラシア大陸の東西に日本と英国という高度に発達した島国が存在した意義は大きい。想像するとわかるが、大陸の人間には「島」という概念がありさえすれば事足りる。自らの大地をことさら「大陸」と称する機会は少ない。「大陸」はあくまで島国が世界を記述するときに要求される言葉なのである。

(これは沖縄や北海道の人間が「本土」「内地」という言葉を使う一方、本州に住む者はその土地を特に「本土」「内地」とは認識していないことと似ている)

オーストラリアやグリーンランドが大陸か島か判然としないのは、それらが大陸なり島でなければならぬ歴史的な必然性を欠くからである。仮にオーストラリアとニュージーランドの関係が中国と日本のごときものであったなら、豪州は立派な「大陸」として認知されたはずである。

島と大陸の他に「半島」という用語があり、これもまた定義が難しい。日本語では「なかば島」だが、英語では peninsula といい、これは「ほとんど paene 島 insula」というラテン語が源であるという。

スカンジナビア半島や朝鮮半島は、なるほどこれが半島かという造形をしている。奇妙なのは、全体が島である日本の一部も、能登半島や紀伊半島などと名付けられていることである。ここからも、日本人が主要四島を「島」だとは思っていないことがわかる。手元の和英辞典には、四国と九州がそれぞれ Shikoku Island, Kyushu Island として掲載されているが、北海道の項はない。本州に至っては the Main Island of Japan とある。これでは単なる説明であり、とても名称とはいえない。

本州という島に名前はないのか。否。古事記には大倭豊秋津島おほやまととよあきつしまの語がある。四国は伊予之二名島いよのふたなのしま、九州は筑紫島つくしのしまという。だが、伊邪那岐いざなぎ伊邪那美いざなみは、北海道および沖縄を産んではいない。

大陸の人間が彼らの大地をことさらに「大陸」だとは認識しないこと、日本人が日本の主な島を「島」とは言わないことは論じた。これを敷衍すると、沖縄や北海道が特に「島」と呼ばれないのは、そこに独立した文化が存在していたからだと推測することができる。「本土」「内地」という言葉、そして記紀の神話がこの仮説を支持する。

結論であるが、人びとは自分が住まう土地を基準に、他の地を相対的に命名している。だから島だの大陸だの半島だのという歴史的な名称を、地球レベルで定量的に考えると齟齬が生じる。

このような視点の移動は日常的に観察される。「日本全体」を指すときに「列島」などという。列島には多少の地球儀的な観点が含まれている。より内向きの表現として「全国」がある。「全ての国」が「日本一国」を意味するという、幼い私を混乱させた言葉だが、今ではこの語の無意識の企図が理解できる。この感覚は米国に来てからより鋭敏になった。

現在の私が獲得しつつある認識をもって島国根性を批判するのは簡単である。しかし実のところ、それは私の視線のようであってそうではない。単なる米国目線である。私はまだそこまで米国にイカれてはいない。

世界が相対的だというのなら、私がまずするべきは「大陸根性」という言葉の発明とその分析であろう。例えば米露中はいまだ帝国主義的な側面を持つが、これを大陸根性と括ることも不可能ではない。欧州が帝国主義をやめてしまったのは、通信手段と輸送技術の発達に伴い、ヨーロッパ大陸が、ユーラシア大陸におけるヨーロッパ半島に矮小化されてしまったからである。冷戦期、欧州は米国とソ連の間でまさに半島化していた。西側と東側に分断されていた様は、巨大な朝鮮半島のようにも見える。EU は、欧州が大陸性を再獲得する試みだとも読める。などなど。

島国が成立するには近くに大陸が存在しなければならない。これが「相対的」の意である。日本がハワイのように太平洋のド真ん中にあったなら、決して「島国」にはならなかったと思われる。「大陸」はおろか「島」という言葉すらなかった可能性も高い。イースター島のラパ・ヌイ語ではどうなっているのだろう。残念なことに、ラパ・ヌイ語を記したものと考えられるロンゴロンゴはいまだ解読されていない。

2014/05/17/Sat.

前後、上下

旧国名に前後が付く場合、京都に近いほうが「前」である。

羽前・羽後は元々、出羽という一つの国であった。越前・越中・越後はよろしいが、実は越前と越中は加賀に分断されており隣接していない。備前・備中・備後、豊前・豊後、筑前・筑後は順当である。肥前・肥後は筑後により隔てられている。

例外もある。陸前・陸中と来て、しかし陸後ではなく陸奥むつである。これは、この三国が元は陸奥みちのくであった事実に由来すると思われる。また、丹後に対して、丹前ではなく丹波という。

前後ではなく上下を使う例として、上野・下野、上総・下総がある。いずれも京都に近いほうが「上」である。

昔は入京のことを上洛といった。東日本で認知されているかは知らぬが、現在でも関西を指して上方かみがたという。主に演芸で生き残っている言葉であり、上方落語、上方お笑い大賞などに見ることができる。

一方で、鉄道は東京方面行きが「上り」とされる。東京に出張した関西人は「下り」列車で上方に帰るわけで、どうも混乱する。また、上総と下総では下総のほうが東京に近く、ここでも逆転現象が見られる。

九州、島

豊前・豊後・筑前・筑後・肥前・肥後に加え、日向・薩摩・大隅の九ヶ国があるので九州という。——のだが、これは対馬と壱岐が九州として認識されていなかったことを意味する。後に、豊前・豊後は大分県、筑前・筑後は福岡県となったが、肥前・肥後は合併されなかった。肥後の熊本県はともかく、肥前がさらに分割されて佐賀県と長崎県になった理由を私は知らない。このとき対馬と壱岐は長崎県に編入され九州の一部となった。

廃藩置県で旧国が小割された他の例は、東京と埼玉に分かれた武蔵しかない。新たに首都となった東京を特別扱いするのは理解しやすいが、同時に佐賀・長崎問題の謎を深めてもいる。

対馬や壱岐に限らず、独立した島々はそれだけで一国であった。佐渡、淡路、隠岐、琉球である。しかし壱岐よりも面積の大きい奄美群島、種子島と屋久島、天草諸島、五島列島は国ではない。

伊豆諸島はその名の通り伊豆に所属していたが、現在は東京都の一部である。

国全体が島である日本では「島」の概念が曖昧になりやすい。普段、我々は北海道を島だとは認識していない。むしろ大地であるとすら思っている。私見であるが、北海道はやはり幾つかの県に分割すべきではなかったか。複数の県による摩擦と競争があったら、北海道はもっと発展していたかもしれぬ。

阿波と安房はどちらもアワとむ。なぜ同じ音を別々の国に当てたのか理解に苦しむが、古代では発音が異なっていたのかもしれない。

2014/05/16/Fri.

絶対的な真実truthは存在するか。この問いに対する答えは各人の哲学によって異なる。

自然科学は真実を想定した体系だが、同時に、真実には到達不能であることも前提としている。科学が行っているのは、真実と考えられる事物の残響を事実factとして観察すること、そして事実から真実を推測することである。これは海中深くを航行する潜水艦が、ソナーの反響だけを頼りに周囲の環境を察知するのに似ている。眼前にあると思しき巨大な物体が、果たして敵艦なのか鯨なのかを直接確認するには潜水艦から出るしかないが、それは無理な相談である。機器を改良して予測精度を高めることはできるが、原理的にいってそれは程度問題に過ぎない。

科学を行うのは人間であるが、我々はヒトの肉体という潜水艦に閉じ込められている。何億年もかけて銀河が形成される様子や、刹那の間にタンパク質が折り畳まれる経過をこの目で見ることは叶わぬ。科学の説明は常に間接的な仮説である。その意味で、世の中の全ての説明と何ら変わりはない。

例えば、私は十年以上に渡って DNA を扱っているが、今まで一度たりとも、DNA の構造が二重螺旋である証拠を自分で確認したことはない。無論、教科書には DNA の構造を示す観察事実と推測が記述されている。しかしそれを言えば、Nature の怪しげな論文にも多数の「証拠」が掲載されているのである。なぜ、DNA が二重螺旋であることを私は信じるのか。その理由は幾らでも挙げられるが——、然り、つまるところ私は信奉しているだけなのである。二重螺旋教の信者といっても良い。であるからこそ、来週の Science に「実は DNA の構造は四角錐であった」という論文が発表されたら、私はそれを鵜呑みにしてしまうかもしれない。……という自覚だけが、科学という営為を適性に科学的たらしめる。

信仰が過ぎるとそれは宗教となり、不信が募れば単なる懐疑主義と化す。科学者は常に半信半疑である。何を信じ何を疑うかは、それぞれ微妙に異なってもいる。だからこそ多数の信奉者によってパラダイムが形成され、少数の懐疑者によってパラダイムが覆される。この繰り返しが科学を駆動してきた。単一の「科学的見解」など元より存在し得ない。

私には私の科学的見解がある。それこそが研究者の存在証明である。私の見解が他者の見解と同一であっても構わない。むしろ大抵の場合でそうなるだろう。しかし時に「私独自の見解」に出くわすこともある。その際には、自信をもって自分を疑うことが肝要であろう。

2014/05/04/Sun.

島田紳助が傷害容疑で書類送検された際、「島田司会者」という呼称が報道で用いられ、多くの人間が違和感を覚えた。類似例として「稲垣メンバー」などがある。

よく考えると「イチロー選手」も本当は奇妙な表記なのである。英語では Ichiro player とは言わない。

野球では選手をさらに細分化して「田中投手」と呼び分けることもある。しかしサッカーでは「中田MF」とは言わない。ポジションを明らかにするために「MF中田」と書くことはあっても、呼称には使わない。話しかけるときはあくまで「中田選手」である。

力士は選手といわず「朝青龍関」という。関は関取のことであり、これは一人前の力士の総称であるから、研究社会における「博士」と似ている。関取も博士も称号であり、尊称として機能するから名前の下に付けるのは自然である。

プロゴルファーも選手を使わず「青木プロ」という。アマチュアを馬鹿にしている風に感じられなくもない。なぜゴルフ界では積極的に「プロ」が使われるのか。歴史的な経緯があれば知りたいものである。

棋士は「加藤九段」と段位を名乗る。段位には降格しないという特徴がある。他方、「羽生名人」は一時的なタイトルで、これは失冠する可能性がある。野球でいえば「長嶋首位打者」「王本塁打王」に相当する、奇異な呼称といえよう。一方で「中原永世名人」は名誉教授のような終身称号だから妥当である。栄誉称号は終身制が多い。だから「終身名誉監督」などは重言に思える。それとも、非終身の名誉監督が別に存在するのか。一日署長のようなものか。

(ところで、本塁打王と打点王が存在するのに、なぜ打率王ではなく首位打者というのかは謎である。また、女子リーグでは、本塁打女王、打点女王、新人女王となっているのだろうか)

研究者も様々に呼ばれる。博士については既に述べた。「先生」は教師にも医者にも政治家にも使われる汎用的な敬称である。「教授」は職位であり、軍隊なら「中将」などの階級に該当する。彼らの具体的な役職は「学科長」なり「師団長」である。漠然とだが、対外的には職位・階級が用いられ、役名を使うのは主に内部の者であるという区別はある。また階級は、先に挙げた棋士の段位にも似ている。

職名そのものが称される場合も多い。「古舘アナウンサー」「渡辺衆議院議員」などの用例は広く親しまれている。

既婚女性を指すには「夫人」という便利な言葉がある。配偶者の呼称の下に付けて「社長夫人」という二重代名詞としての用例もある。しかし夫人に対応する既婚男性の人称がない。「山中教授は夫人を伴って授賞式に出発した」。さて、女性が賞を取ったとき、同じ趣意の文章を簡潔に書けるだろうか。夫の対語は妻であって夫人ではない。封建主義的な意味を含む「主人」「旦那」などの語は公に使えない。いっそのこと「山中配偶者」とでもするしかない。これなら同性のカップルにも適用可能である。

……色々な例を考えていくと、「島田司会者」だけを奇天烈とする理由はないように思えてくる。単なる慣れの問題であろう。手塚治虫のように、全員を「○○氏」で済ませる方法もある。あるいは逆に、どんな属性でも名前の後に付けられると開き直ることもできる。無論、後者のほうが愉快である。

斉藤三年生、葉加瀬バイオリニスト、小泉新自由主義者、などなど。