- 異形の文章

2014/01/20/Mon.異形の文章

文字は絵と音の両面を持つ。例えば私は 2014 という数字を「2014」という絵として記憶するが、ニセンジュウヨンやニイゼロイチヨンと音で記銘する人もいる。

文字を絵とするなら、文章は絵が並んだものといえる。ここで想起されるのは古代エジプトのヒエログリフである。あれほど文字が具象的であると、絵が並んだ文章というよりはむしろ絵巻物に近くなる。文章それ自体もまた一つの絵になり得ることがわかる。

もちろん文字には記号という側面が厳然としてある。下の二つは絵としては異なるが、記号的には同一の文章と見做される。

文字は絵と音の両面を持つ。

文字は絵と音の
両面を持つ。

詩、コピー、書道などは、文章が持つ絵としての一面が活用されている希少な例である。

ここでいう書道は古典の筆写を指すのではない。書写では文章が先に存在するので、書が持つ絵としての力が文意に及ばない。私が言わんとするのは、あいだみつを、ラーメン屋、路上芸術家などによる絵画的な書についてである。これらは詩の発展形といえる。詩では改行が重視されこそすれ、文字は活字でよしとする。ところが絵画的な書では、より大胆な文字の配置と独自の字体が用いられ、ヒエログリフ的な展開を見せるこれらの要素は文章の中身とも密に関係する。この点が重要である。彼らの書がしばしば馬鹿にされるのは文の内容が幼稚だからであって、表現手法それ自体はもっと広く研究されて良い。

私は常に、文章はもっと奔放に書いて構わないと考えている。

例えば、日本語と英語Englishが一つの段落や文で混在していても良いのではないか like this sentence. ——これは決して奇を衒っているわけではない。現在の私は日本語と英語を混用する生活をしており、先の一文は今の私の思考形態をよく再現している。また、古の日本人は中国語を漢字仮名交じり文という変態的な手段で文法ごと読み下したという歴史もある。複数の言語が混在する文章は、実のところそれほど奇妙な存在ではない。

日本語の速読では漢字を追う。漢字は絵として視認しやすく、各々が意味を有するので拾い読みが可能となる。他方、欧文では特定の語を目立たせるのが難しい。だからアルファベットの書体には、ボールド、イタリック、スモールキャピタル、アンダーラインなどの装飾が充実している。漢字ひらがなカタカナを駆使することで充分な視覚的効果を発揮できる日本語では、このような便宜的装飾は発展しなかった。ここで思うのは、日本語と英語が共存する文章では、面白いように言葉が紙面から浮かんでくるだろうということである。

異なる言語体系を同時に使用して得られる絵画的表現には大きな可能性が感じられる。顔文字やアスキーアートは既存の境界的な実例といえる。二十世紀末の日本で発明されたコンピュータ用の絵文字も、今や Emoji として世界中で使われるようになった。これらを含む文章が独特の印象をもたらすことは誰もが知っている。最初は違和感を覚えた異形の文章も、やがて熱狂的に迎えられ、今や全くの日常となった。ほんの二十年間のことである。