- 評論家

2014/01/14/Tue.評論家

文章論は文章によってなされる。文章論が音楽論や絵画論と根本的に異なる所以である。音楽による音楽論や絵画による絵画論を仮想すればよくわかる。通常、それらは論ではなく実践と呼ばれる。

私の文章論は筒井康隆に決定的な影響を受けている。筒井は多数の文章論・文学論を展開しながら、常に「これは評論家の仕事なのだが」「本来なら作家であるべきおれが書くことではないが」と断っているが、これらの告白は彼の論が持つ抜群の説得力を損ねるものではない。文書論が宿命的に持つ理論と実践の関係を考えれば、実作者である筒井の論が評論家を圧倒するのはむしろ当然である。

いつだって我々が求めているのは専門家の肉声である。しかし彼らは必ずしも言語能力に長けているとは限らない。彼だけが有する、ときに非言語的な奥深い秘密の中身を、他者が理解可能な形式で伝達してくれる保証はない。その典型は長嶋茂雄である。彼は彼の打撃の神髄を言語化できない。松井秀喜のように、自身が傑出した打者であり、かつ長嶋から身をもって指導された者だけが長嶋の打棒の本質に触れる機会を得る。だが、これはあまりにも非効率的な伝達方法である——ように素人には思われる。そこで評論家が現れ、言葉を語る。

私の理屈が正しければ、評論家は専門分野(上の例なら野球)と言葉という、二つの領域に通暁しなければならない。大変である。ところが文芸評論では、意を注ぐ対象が文章一つで済む。これが、その他の芸術と比べて文芸だけにやたらと評論家が多い理由ではないか。

底意地の悪い見方だろうか。実力はともかく私は専門家として生きているので、評論家の存在にはいささか懐疑的であることを断っておく。三年近く前に『美味しんぼ』の山岡士郎を罵倒した文章を書いたのもそのような動機による。再読してみたが、それにしても攻撃的に過ぎ、未熟な文である。