- 黄人

2014/01/11/Sat.黄人

言葉の数は常に不足している。

日本語では人種を指すのに白人・黒人というが、黄人とはいわず黄色人種という。我々にとって我々の肌の色は「普通」であり、殊更に黄色いわけではないからである。ゆえに黄人とはいわない。白人や黒人と比較する文章においてのみ、学術的で中立的な印象のある黄色人種という語を使う。これが欺瞞であるのは、白色人種や黒色人種という言葉が存在しないことが証明している。

日本人に限った話ではない。白人は黄人や黒人を有色人種coloredというが、自らを無色人種colorlessとは呼ばない。彼らにとっては彼らの肌の色が「普通」だからである。

黄人・黄色人種を代替する有用な言葉としてアジア人がある。これが便利なのはアジアの定義が曖昧だからである。狭い意味では日中韓の極東アジア、少し広げてオセアニアとインドを含めた大東亜共栄圏と等しい領域のアジア、さらに中央アジアとトルコと中東まで拡大したロシア以外のユーラシア大陸ほぼ全域を指すアジア。アジアの用法が混乱しているのは、そもそも日本にはアジアという概念がなかったからである。日本人が長らく知っていたのは中国と朝鮮だけであった。あとはせいぜい蒙古と天竺だが、どれだけ正確に地理を把握していたかは疑わしい。そしてこれら以外は全て南蛮か毛唐で済ませていた。

(日本人が異人種の認識に肌ではなく毛に着目したことは面白い。特に欧州人は紅毛人と呼ばれた)

現代の日本人を分類するのに、縄文人と弥生人が使われることがある。これが奇妙なのは、縄文と弥生は時間に則した用語だからである。縄文人は縄文時代人ではなく、弥生人は弥生時代人ではない。両者の関係は、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスのそれとも異なる。実に不思議な仮想的系統であり、これを外国人に説明するのは至難に思われる。「ヤヨイ時代の間、ジョーモン人はどうしていたのだ?」。一方で、大和人・琉球人・アイヌ人は地理的分布に基づいた区分なので理解しやすい。

日本の旧国は五畿七道に分けられる。地図を見てまず違和感を覚えるのは、紀伊が四国とともに南海道に属す点であろう。紀伊は本州の一部であり、この領域だけが別の島である四国と一緒にされるのは直感に反する。これには人種的な理由がある。琉球、薩摩、大隅、土佐、紀伊、伊豆、安房といった太平洋側の国々には、黒潮に乗って列島に辿り着いたポリネシア人の血統が息づいているとされる。この仮説には様々な遺伝学的傍証があり、HTLV-1レトロウイルス保有者の分布は有名な例である。

土佐と紀伊には、捕鯨や稀薄な敬語といった文化的共通項もある。「弥生人」的な感覚では、鯨を狩るという行為は想像が難しい。広大な海、その彼方で雄大に動く巨大な生物は、ときに天高く潮を吹き上げる——。このような光景を見たとき「弥生人」ならどうするだろう。手を合わせて拝むのではないか。この強烈な感覚の相違が、畿内の人間をして紀伊を南海道にせしめたように思える。言葉の問題に戻ると、土佐・紀伊を代表とする海洋民族の末裔を示す適当な日本語はまだない。