- Diary 2014/01

2014/01/23/Thu.

無人称の文を書くのは困難ではない。直近の日記では「黄人」がそうである。研究関連でいうと、総説は基本的に無人称で書かれる。総説では既に発表された事実と理論のみを扱うから人称は不要なのである。一方、何かを報告し主張する場合は、その主体が必ず存在するので人称を省くのがやや難しくなる。そこを敢えて無人称で書くと中立的・客観的な印象が強くなる。あるいは口語体を採用することでも簡単に人称を抹消でき、これは個人ブログなどでよく見られる。無人称口語体は独白に近い様式なので、主観や個性を演出しやすい。

手元に蔵書がないので、次の段落は記憶を頼りに書く。

飛鳥井という私立探偵が活躍する笠井潔の一連の小説は、全編が無人称である。飛鳥井シリーズが優れているのは、無人称であるにも関わらず、視点が三人称的ではなく常に飛鳥井に寄り添っているからである。筒井康隆によれば、一人称的な視点を三人称で書くとハードボイルドになる——読者は主人公の考えがわからず、彼の行動からその心情を推測するしかない——。では無人称をどう評価するか。一人称より客観的であることは間違いない。しかし三人称より主観的か客観的かは一概に判断できない。筒井の指摘に従えば、それは視点との兼ね合いによって決まる。

以前に書いた「筋肉と神経」では「ヒドラ目線」「筋肉目線」と明示した上で、偏向した視点からの理屈を述べた。○○目線とは、○○への感情移入に他ならない。これも筒井からの受け売りだが、著者や読者は、人間だけではなくあらゆる物事に感情移入することができる。わかりやすい例では、我々は動物に対して頻繁に共感や同情を抱く。人によっては、昆虫や植物といったヒトから遠い種にまでその対象を拡大することができる。風景、音、臭いなどに特定の感情が呼び起こされる経験は誰にでもある。乗物や機械が好きな者は、バイクやコンピュータをしばしば家族よりも愛する。

より重要なのは、我々は抽象的な事柄にも感情移入ができるという事実である。数学者は数という極めて形而上的な概念に独特の質感を抱く。特定の数字の組が友愛数、婚約数、社交数などと名付けられているのはその証左である。五行では異なる複数の事物が一組にされる。例えば、木-青-東-春-龍である。なぜ春が青なのか(これは青春の語源でもある)——。この問いには、最初にそう言い出した者の感覚的視点がそうであったからとしか答えようがない。「春って青っぽいよね」。これも立派な感情移入であろう。

どこかに視点を置かねば文章が成立しないと仮定すると、文章は不可避的に執筆者の感情移入を反映することになる。これが、文章から私を拭い去れない構造的な理由ではないか。主観的か客観的かは、人称や文体や文法とは無関係であり、単純に感情移入の度合いで決まるのかもしれない。

2014/01/20/Mon.

文字は絵と音の両面を持つ。例えば私は 2014 という数字を「2014」という絵として記憶するが、ニセンジュウヨンやニイゼロイチヨンと音で記銘する人もいる。

文字を絵とするなら、文章は絵が並んだものといえる。ここで想起されるのは古代エジプトのヒエログリフである。あれほど文字が具象的であると、絵が並んだ文章というよりはむしろ絵巻物に近くなる。文章それ自体もまた一つの絵になり得ることがわかる。

もちろん文字には記号という側面が厳然としてある。下の二つは絵としては異なるが、記号的には同一の文章と見做される。

文字は絵と音の両面を持つ。

文字は絵と音の
両面を持つ。

詩、コピー、書道などは、文章が持つ絵としての一面が活用されている希少な例である。

ここでいう書道は古典の筆写を指すのではない。書写では文章が先に存在するので、書が持つ絵としての力が文意に及ばない。私が言わんとするのは、あいだみつを、ラーメン屋、路上芸術家などによる絵画的な書についてである。これらは詩の発展形といえる。詩では改行が重視されこそすれ、文字は活字でよしとする。ところが絵画的な書では、より大胆な文字の配置と独自の字体が用いられ、ヒエログリフ的な展開を見せるこれらの要素は文章の中身とも密に関係する。この点が重要である。彼らの書がしばしば馬鹿にされるのは文の内容が幼稚だからであって、表現手法それ自体はもっと広く研究されて良い。

私は常に、文章はもっと奔放に書いて構わないと考えている。

例えば、日本語と英語Englishが一つの段落や文で混在していても良いのではないか like this sentence. ——これは決して奇を衒っているわけではない。現在の私は日本語と英語を混用する生活をしており、先の一文は今の私の思考形態をよく再現している。また、古の日本人は中国語を漢字仮名交じり文という変態的な手段で文法ごと読み下したという歴史もある。複数の言語が混在する文章は、実のところそれほど奇妙な存在ではない。

日本語の速読では漢字を追う。漢字は絵として視認しやすく、各々が意味を有するので拾い読みが可能となる。他方、欧文では特定の語を目立たせるのが難しい。だからアルファベットの書体には、ボールド、イタリック、スモールキャピタル、アンダーラインなどの装飾が充実している。漢字ひらがなカタカナを駆使することで充分な視覚的効果を発揮できる日本語では、このような便宜的装飾は発展しなかった。ここで思うのは、日本語と英語が共存する文章では、面白いように言葉が紙面から浮かんでくるだろうということである。

異なる言語体系を同時に使用して得られる絵画的表現には大きな可能性が感じられる。顔文字やアスキーアートは既存の境界的な実例といえる。二十世紀末の日本で発明されたコンピュータ用の絵文字も、今や Emoji として世界中で使われるようになった。これらを含む文章が独特の印象をもたらすことは誰もが知っている。最初は違和感を覚えた異形の文章も、やがて熱狂的に迎えられ、今や全くの日常となった。ほんの二十年間のことである。

2014/01/19/Sun.

私が一日の大半を費やすウェットな実験はノウハウの塊である。ノウハウは本質ではないからこそノウハウなのであり、そのことをよく理解する必要がある。現有のノウハウは、より簡便で、安価で、大規模に、高感度で実行可能な系が構築され普及した時点で用済みになる。私が膨大な時間や労力や金銭と引換えに獲得した智識や技術や経験や勘は不要となるのである。

とはいえ全く無駄になるわけではない——、という反論が挙がることは容易に予想できる。しかし誰もそんなことは言っていない。その大半が要らなくなるという事実を指摘しているだけである。「全く無駄になるわけではない」という反応は、「大半が要らなくなる」という現実が時に耐え難いものであることを代弁している。然り。これは実に辛いことである。だが、この葛藤を克服せねばいわゆるロートルに堕してしまう。

(初めて知ったが、ロートルは中国語であり老頭児と書く。字面を知ると多用したくなる言葉である)

また、研究者は自身が科学という本質に携わっていると信じているため、自分が多大な力を注ぐ実験も何か本質的な行為に違いないという錯覚を抱きがちである。この陥穽から脱出するには、何のために実験をするのかということをよく認識せねばならぬ。これが実のところ難しい。科学の現場では「客観視しろ」ということを喧しく言われるが、その最も重要な対象は己自身である。しかし己を客観視する具体的な訓練は科学教育のプログラムに含まれていないので、個人で努力して身に着けるしかない。

現在のノウハウが現時点で有用かつ貴重な煌めきであることは言うを俟たない。だがそれは金剛石のような永遠の輝きではなく、むしろ咲き誇る桜の美しさに似ている。季節が移ればまた別の花を活けて飾らねばならぬ。

2014/01/17/Fri.

米国の組織が文書化documentationに注ぐ情熱は膨大である。とにかく書類が充実している。

「米国の組織」と書いたのは、各々の米国人の文書化能力は日本人と変わらぬように観察されるからである。例えば米国人の研究ノートは乱雑で、実験プロトコルは曖昧で、サンプル管理は杜撰である。個人レベルでは日本人のほうが余程まともに思える。しかしなぜか、米国の組織は圧倒的な質と量の報告書、技術文書、契約書などを運用し提供することができる。不思議なことである。以心伝心を尊び、重要事項を口伝や秘術としがちな日本人は見習うべきだと考えるが、組織的に文書化を実現する仕組みが不明なので、具体的にどうすれば良いのかわからない。今後も探っていきたい課題である。

組織はともかく、個人での文書化はいつでも取り組める仕事である。

渡米してから、研究者としての個人サイトを運営し始めた。私の経歴や業績、研究や実験に関する文書を公開している。作成にあたって、日米多数の研究者や研究室のサイトを閲覧して参考にした。その過程で気付いたことを書く。

日本の研究者/室のサイトでは、彼/PI の思い出(主に学生時代や留学時)や信念(週末も休まず実験するべきなど)といった、極めて個人的な事柄を主観的に綴ったページが数多く見受けられる。このようなページは米国のサイトにはない。また、日本のサイトは日本語版と英語版の両方が作成されることも多いが、情緒的文章の英訳も見たことがない。つまりこれらの感傷文は日本人が日本人のために日本語で書いたものと判断できる。普遍性がないのである。普遍的でないものを公開するなとまでは主張しないが、深夜に DNA のバンドを検出して歓喜した昔話を書く時間があるなら、そのときに使ったプライマーの配列とアニーリング温度でも記載したほうが科学に貢献すると思われる。

この件に関しては中国や韓国のサイトを是非調べたいのだが、彼らの言語に疎くて不可能である。あるいは英語が公用語のインドなら面白い傾向を発見できるかもしれない。

話は飛ぶが、研究者の自分語りは興味深い文学史的テーマでもある。科学者による随筆は、漱石門下の物理学者・寺田寅彦と、破格の生物学者・南方熊楠を嚆矢とし、日本人初のノーベル賞受賞者として神のごとく扱われた湯川秀樹にその絶頂を見る。他にも、世界的に評価された数学者や物理学者には達意の文章をものにする人が多い。日本の学界には一門や学統といった意識が色濃く残っており、開祖の私的随筆が必読書として脈々と継承されていることもしばしばである。もちろん欧米にも、高名な研究者がエッセイを著す伝統は存在する。しかしその内容、筆致、対象は、日本のそれらと少なからず異なるように思われる。文学部の研究対象にもなり得るのではと考えている。

2014/01/14/Tue.

文章論は文章によってなされる。文章論が音楽論や絵画論と根本的に異なる所以である。音楽による音楽論や絵画による絵画論を仮想すればよくわかる。通常、それらは論ではなく実践と呼ばれる。

私の文章論は筒井康隆に決定的な影響を受けている。筒井は多数の文章論・文学論を展開しながら、常に「これは評論家の仕事なのだが」「本来なら作家であるべきおれが書くことではないが」と断っているが、これらの告白は彼の論が持つ抜群の説得力を損ねるものではない。文書論が宿命的に持つ理論と実践の関係を考えれば、実作者である筒井の論が評論家を圧倒するのはむしろ当然である。

いつだって我々が求めているのは専門家の肉声である。しかし彼らは必ずしも言語能力に長けているとは限らない。彼だけが有する、ときに非言語的な奥深い秘密の中身を、他者が理解可能な形式で伝達してくれる保証はない。その典型は長嶋茂雄である。彼は彼の打撃の神髄を言語化できない。松井秀喜のように、自身が傑出した打者であり、かつ長嶋から身をもって指導された者だけが長嶋の打棒の本質に触れる機会を得る。だが、これはあまりにも非効率的な伝達方法である——ように素人には思われる。そこで評論家が現れ、言葉を語る。

私の理屈が正しければ、評論家は専門分野(上の例なら野球)と言葉という、二つの領域に通暁しなければならない。大変である。ところが文芸評論では、意を注ぐ対象が文章一つで済む。これが、その他の芸術と比べて文芸だけにやたらと評論家が多い理由ではないか。

底意地の悪い見方だろうか。実力はともかく私は専門家として生きているので、評論家の存在にはいささか懐疑的であることを断っておく。三年近く前に『美味しんぼ』の山岡士郎を罵倒した文章を書いたのもそのような動機による。再読してみたが、それにしても攻撃的に過ぎ、未熟な文である。

2014/01/11/Sat.

言葉の数は常に不足している。

日本語では人種を指すのに白人・黒人というが、黄人とはいわず黄色人種という。我々にとって我々の肌の色は「普通」であり、殊更に黄色いわけではないからである。ゆえに黄人とはいわない。白人や黒人と比較する文章においてのみ、学術的で中立的な印象のある黄色人種という語を使う。これが欺瞞であるのは、白色人種や黒色人種という言葉が存在しないことが証明している。

日本人に限った話ではない。白人は黄人や黒人を有色人種coloredというが、自らを無色人種colorlessとは呼ばない。彼らにとっては彼らの肌の色が「普通」だからである。

黄人・黄色人種を代替する有用な言葉としてアジア人がある。これが便利なのはアジアの定義が曖昧だからである。狭い意味では日中韓の極東アジア、少し広げてオセアニアとインドを含めた大東亜共栄圏と等しい領域のアジア、さらに中央アジアとトルコと中東まで拡大したロシア以外のユーラシア大陸ほぼ全域を指すアジア。アジアの用法が混乱しているのは、そもそも日本にはアジアという概念がなかったからである。日本人が長らく知っていたのは中国と朝鮮だけであった。あとはせいぜい蒙古と天竺だが、どれだけ正確に地理を把握していたかは疑わしい。そしてこれら以外は全て南蛮か毛唐で済ませていた。

(日本人が異人種の認識に肌ではなく毛に着目したことは面白い。特に欧州人は紅毛人と呼ばれた)

現代の日本人を分類するのに、縄文人と弥生人が使われることがある。これが奇妙なのは、縄文と弥生は時間に則した用語だからである。縄文人は縄文時代人ではなく、弥生人は弥生時代人ではない。両者の関係は、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスのそれとも異なる。実に不思議な仮想的系統であり、これを外国人に説明するのは至難に思われる。「ヤヨイ時代の間、ジョーモン人はどうしていたのだ?」。一方で、大和人・琉球人・アイヌ人は地理的分布に基づいた区分なので理解しやすい。

日本の旧国は五畿七道に分けられる。地図を見てまず違和感を覚えるのは、紀伊が四国とともに南海道に属す点であろう。紀伊は本州の一部であり、この領域だけが別の島である四国と一緒にされるのは直感に反する。これには人種的な理由がある。琉球、薩摩、大隅、土佐、紀伊、伊豆、安房といった太平洋側の国々には、黒潮に乗って列島に辿り着いたポリネシア人の血統が息づいているとされる。この仮説には様々な遺伝学的傍証があり、HTLV-1レトロウイルス保有者の分布は有名な例である。

土佐と紀伊には、捕鯨や稀薄な敬語といった文化的共通項もある。「弥生人」的な感覚では、鯨を狩るという行為は想像が難しい。広大な海、その彼方で雄大に動く巨大な生物は、ときに天高く潮を吹き上げる——。このような光景を見たとき「弥生人」ならどうするだろう。手を合わせて拝むのではないか。この強烈な感覚の相違が、畿内の人間をして紀伊を南海道にせしめたように思える。言葉の問題に戻ると、土佐・紀伊を代表とする海洋民族の末裔を示す適当な日本語はまだない。

2014/01/10/Fri.

意地の悪いことを書く。

渡米して最も強烈な違和感を抱いたのは他でもない、滞米期間が長い日本人研究者に対してである。彼らは米国での生活を少しでも日本らしくする方法について実に多くのことを知っており、米国初心者である私に色々と教えてくれる。

しかしどれだけ金を払おうとも米国の SUSHI が日本の寿司より美味いことなどあり得ない。寿司が食べたいなら帰朝すれば良く、そのためには一日も早く成果を出すしかない。つまるところ SUSHI bar に行く時間などないはずなのである。フェイクの和食で自分を欺きつつ「日本に戻りたいなあ」と空想するのは、まさに矛盾と言う以外にない。

一方で彼らは米国流の生活習慣にも長けており、それは勤務時間や休暇の取得に現れる。無駄な長時間労働は私も好まないが、限られた時間を考えると否が応でも働かざるを得ない。休むのは事が成った後でも遅くはない。米国で米国人と同じことをしても勝てる道理がないという実感もある。米国の様々なシステムは確かに優れているが、日本と比べて劣る部分も少なくない。両者の美点を抽出し……、という月並みな考えが「和魂洋才」の四文字そのものであることに気付いたのは、渡米後半年が過ぎた頃であろうか。私はこの熟語の真の意味を米国で知った。

和魂洋才とは SUSHI を食い vacation を満喫することではない。その逆であろう。

これがあまりにも厳しい意見であることは承知している。私も心底そう思っているわけではない。しかし我々が置かれた——というよりは飛び込んだ——現実はさらに厳しいのであり、どれだけ自己を律しても過ぎることはないと今は考えている。無論、この信念は私自身の滞米期間が伸びるにつれて変容する可能性がある。渡米直後の私も、描き改められる自分の輪郭について述べている。

米国での研究生活は快適である。これは疑いようがない。ゆえに問題となる。日本で希望する職が見付からず、もうしばらくポスドクをするとなると日本ではなく米国を——帰国したいはずなのに——選んでしまう。ここに微妙な綾がある。冷静な計画と情熱的な実践がなければ、思い描いた未来を勝ち獲るのは困難だろう。

他者を誹謗したり他者と比較するつもりは毛頭ない。私はただ、私が私を見失うのを惧れているだけである。これは将来に対する不安とはまた違った心細さである。

2014/01/04/Sat.

科学的な記載は標準的な文章を指向する。標準は個性の対極にある。我々は、文章による個の表現という昨今の風潮に背を向け、文章から私を滅却する精神を養わねばならぬ。その上で私の客観的な記述が求めらる。

「精神」としたのは標準的な文章を書く具体的な方法が存在しないからである。「論文の書き方」といった指南書には「私を主語にしてはならない」「文章は受動態で書け」などの瑣末な技術が紹介されている。これらが本質を無視した白痴的な代物であることは既に指摘した。マニュアルとは低能を人並みに粉飾するためのものであり、裏に潜む真意を汲み取るために眼を汚すことはあっても盲従すべき義理は微塵もない。

例えば「私はこのような実験を行った」ことは無謬の事実であり、わざわざ「このような実験が行われた」と書く必要はない。むしろ「私が行った」と書いたほうが実験者が明らかなだけ情報量が多く精確とすらいえる。「〜だと思われる」のは証拠が不足しているからであり、その論文を読んだ全員が同じことを考えるかは定かでない。〜だと思っている主体が執筆者であることは自明なのだから、あたかも普遍的な議論であるかのように書くのは欺瞞である。推論するには仮定を置かねばならないが、それが研究者の主観的な行為であることは以前に述べた。したがって「私は〜だと考える」と書くほうが実は客観的なのである。〜だと思われる仮説が証明されたとき、研究者は何と言うか。「あの仮説は僕が考えたんだ」。ならば最初から「私は〜だと考える」と明記すべきだろう。

科学的な記載に求められる標準的な文章は実態として人工言語に近い。プログラミング言語は命令語を英語から拝借しているが、プログラムは英語という自然言語に則って動作するわけではない。同様に、科学的な記載も自然言語の記述力を利用しているだけであり、自然が我々の文法で説明可能な形式で現象しているという保証は皆無である(ここまで突き詰めると自然言語という用語にも不満を覚える。生活言語とすべきか)。科学的な記載という目的に比較的よく合致する生活言語の文法として受動態が採用されているのであって、受動態という様式が先験的に科学的な性質を有しているわけではない。

以下の文章のどれが最も科学的だろう。

  1. 薬は細胞の分化を誘導した。
  2. 薬によって細胞の分化が誘導された。
  3. 薬によって一般的に細胞分化の指標とされる数値が有意に上昇した。
  4. 薬とラベルされたビンに入っていた粉末を培養液に添加した後、引用文献1-3で細胞分化の指標として定義されていると同僚が私に示唆したシグナルを、その具体的手法が特許で非公開とされている機械で測定し、出力された数値の変化を Excel でアルゴリズムを確認せずに計算したところ、有意に上昇していること意味する結果が画面に描写されたと私は視認した。なお、そのとき私が操作していたキーボードと私が凝視していたディスプレイはコンピュータ様の同一筐体に接続されていた。以上の間、私の意識は明晰であったと私は記憶している。

四番目の例は極端に過ぎるが、記載に正確を期すほど主観と客観の境界が曖昧になることがよくわかる。客観に徹するとは主観を排することだが、それは人間の行為に対する懐疑に他ならない。懐疑主義は科学に重要だが、懐疑主義者である執筆者が自分の行動や認識を記述すると極度の混乱を招く。これでは『姑獲鳥の夏』である。科学論文が主語の廃止や受動態を採用するのは、関口巽が嵌まった陥穽を避けるための智慧といえる。とはいえ、それは経験の産物でしかない。論理的な基盤があるわけではなく盲信は危険である。

昨年、ノバルティス社の社員によるディオバン臨床試験のデータ改竄が問題となった。争点の一つは利益相反(COI)である。COI の明示とはすなわち「この試験は私が行った」という宣言に他ならない。これを書かないと罰せられる。私を主語としない受動態の記述は、場合によっては非科学的と見做されるのである。ここで下されているのは、実験する者が変われば結果もまた変わり得るという常識的な判断である。

私は抽象的な議論を好むが、それは科学が人間的で現実的な営為であることを日々痛感するからである。逆に「文章は受動態で書け」などの具体的な指示の背景には、「誰が実験を行っても結果は同じであるべき」といった類の幻想的な思想が潜んでいる気がしてならない。また、渡米してから気付いたが、この種の純粋な思想の持主はとりわけ日本人に多く見受けられる。これは近代自然科学が日本に自生せず舶来物として到着したという歴史、外国語を徹頭徹尾翻訳することで理解するという文化、そして日本人の生真面目さという性質に由来するのかもしれない。

2014/01/03/Fri.

記号論的にいえば文章とはたかだか有限種の文字がたかだか有限個並んでいるだけであり本質的にはゲノム情報と変わらない。ORF から遺伝子の存在が推定できるように、欧文であれば空白文字を指標に単語の存在が確定できる。日本語は使用される文字種が多く膠着語でもあるので形態素解析に多少の困難を伴うが、それも程度問題でしかない。

今現在使われている単語の数は有限個である。全ての単語が過去に存在した単語の組合わせで定義できるなら、既知の全単語を要素とする閉じたネットワークを形成することができる。この定義ネットワークの様態は個々人によって異なる。全ての単語を知る者はおらず、語の定義にも異同があるからである。これは細胞の種類によって発現する遺伝子のセットが決まっているのと似ている。あるいは神経回路網を連想させる。

文章が人格を反映するという経験的な事実や、いわゆる文体論は、このネットワークを解析することで原理的には記述することができる。だが実際問題として、このような単語網を準備することは不可能である。「貴方が知っている全単語とその定義を記載せよ」。いかにも現実味がない。

我々が任意の個体(群)のゲノムを「標準的な」ゲノムとして便宜的に利用するように、「標準的な」単語ネットワークを構築することはできる。辞書はその原型である。

ところで、特徴や性質を論じるには二つの方法がある。一つは絶対的な評価である(彼の身長は一八〇センチです)。もう一つは標準との差異である(彼の身長は平均身長より一〇センチ高い)。生物学が個体の解析で用いる指標はもっぱら後者である。

とまれ、文章の数理的な解析には「標準的な文章」の策定が必要なことがわかる。

話を転換する。「科学的な記載」の実態とは「標準的な文章」のことではないか。科学的な記載の極北は記号論理学で用いられる命題の記述であろう。その応用が数学である。数学における証明はアルゴリズムの記述に他ならない。よく定義された人工言語であるプログラミング言語を用いると正確にアルゴリズムを実装することができる。高級なプログラミング言語になると、あるアルゴリズムが複数の方法で実装可能になる。すなわち文体が発生する。プログラミング言語でさえ文体を持ち得るのだから、自然言語で記述される科学論文が常に「科学的な記載」として不充分なのは当然といえる。

そも、科学の現場で使われているのは自然言語なのかという疑問もある。学生が研究室で浴びる洗礼の一つに、「君が何を言っているのかわからない」という教授からの叱責がある。彼は一所懸命に説明するが、それでも「わからない」と言われる。なぜか。標準的な文章を指向する科学的な記載は、自然言語の皮を被った人工言語という側面を持つからである。件の学生は自然言語を話しているのだが、教授はそれを人工言語として聞こうとするので情報が上手く伝達されないのである。

計算機のラボに入ればプログラミング言語を学ばねばならない。同様に、自然科学の研究をするにはそこで使用される人工言語を習得せねばならない。そう考えると問題点が明瞭になるが、この人工言語は一見して自然言語のように振る舞い、またその事実を明確に意識している人間も少ないので齟齬が生じる。巷間に「論文の書き方」が氾濫する所以だが、これは、How are you? と話しかけられたら I'm fine と答えなさいというのにも似た、実にくだらないノウハウである。言語を理解していないと、ゲボゲボと咳き込んでいるときにも Fine! と叫ぶ羽目になる。大丈夫なのネ、じゃあ仕事をお願い。そんなことにもなりかねない。

しかるに、科学的な記載を実現する標準的な文章を学ぶ方法は確立されておらず、全ては個人の洞察力に委ねられている。