- 仮説の思想

2013/12/26/Thu.仮説の思想

遺伝子改変マウスを交配させているが、私が求める遺伝子型の個体が一向に現れない。メンデルの法則と統計学と私の検定結果を信ずるなら、その遺伝子型の表現型は致死だと考えられる。それが事実であることを早く確認せねばならぬが——、とまれ、私が提案した研究課題が的を射たものであった可能性が高まってきた。

少しく高揚しているが、まだ不安でもある。

実験科学は仮説先行である。仮説がなければ検証すべきことがわからず、実験もできない。ある問題に対して、不充分な知見から論理的な推論を得るには、どこかに仮定を置かねばならぬ。このとき研究者は任意の仮定をすることができる。これは創造的な独断専行、すなわち主観的な行為である。研究者の存在証明といって良い。実験なら機械でもできるからである。

自然科学は真理の探求を究極の目標としているが、この果実に手が届くことは決してない。研究者の脳裏に浮かんだ曖昧な作業仮説は、様々な検証を経て極めて妥当な仮説へと昇華する(ことがある)。よく検討された仮説は「真実」と見做されて扱われるが(パラダイム)、これは絶対不変の真理ではない。研究者は自分の仕事が永遠に仮説のままであることを受け容れねばならぬ。仮説の設定は常に独善的だが、しかし実験の目的は「自分の考えの正しさを証明すること」ではないからである。

とはいえ、自分の仮説が棄却されるのは哀しいことには違いない。私の「不安」の理由もそれである。

最近、日本人研究者の捏造問題が業界内で広く語られている。なぜ捏造をするのかという疑問には色々の社会的な、すなわち一般的に理解しやすい回答が用意されている。だが私は、この問題には研究者という人種の生理が深く関わっていると信じている。つまり、頭の良い彼にとって、頭の良い自分が考えた仮説は必ず正しいのであり、仮説に反するデータが出たならそれは実験が誤っているはずだから、結果の「修正」はむしろ当然であるというラスコーリニコフ的な思想である。

研究に真摯な学生やポスドクがしばしば「強い」ボスに潰されるという光景は、アカハラやパワハラという社会的な力関係の言説で片付けられるほど単純ではない。常に不安を抱える思想と、過剰に信念的な思想との対決の結果という一面がある。ラスコーリニコフ的な信条ははなはだ幼稚だがすこぶる強靭である。不安を手放さない者はいきおい敗れざるを得ない。

God child でなくともこの腐敗した世界でクソッタレどもから自己の思想を守り切るのは難しい。その思索が高尚高潔繊細であるほどそうである。社会には強靭な思想がその強靭さゆえに蔓延はびこっており、気持ちの弱い思想家はそれに耐えられず自ら命を絶つことすらある。が、それではあまりにも純真過ぎる。思想がどれだけ高度か、強固か、無垢かなどは、それぞれ重複すれど本質的に異なる性質である。例えば「愛は地球を救う」という考えは強靭で純粋だが程度は低い。「我々は宇宙の塵、無価値な存在」ともなれば、いささか高尚になり堅固さもあるが、皮肉が強く絶大な人気は見込めない。思想の中身と思想のタイプは別物なのである。我が思想のタイプを見極められればその寿命も伸びるだろう。

私は私がより良く生きるためにこそ思想を持つ。他の思想と対決して損害を被ったり敗れたり、ましてや殉じたりするなどは本末転倒である。——というのが私の考えだがあまり生き易いものではない。