- 自信を持って自分を疑う

2013/08/04/Sun.自信を持って自分を疑う

実験結果や論文の捏造といった問題が起こると、しばしば「研究は性善説に基づいている」と指摘される。この記述はやや正確さを欠く。

サイエンスの研究対象は自然である。自然は善悪などの意思とは無関係に存在する。例えば生命現象は複雑であるが、これは何も研究者を困らそうという意図の元に発達したわけではない。

日々の研究は失敗と挫折の連続である。理論とデータが合致しない、実験に再現性がない、自分の印象と何かが異なる……。このような場合に正統な教育を受けた研究者が思うのは「俺が誤っているのだろう」ということである。細胞培養が上手くいかないとき、それは細胞が悪いのではなく自分が悪いのである。動物実験の結果が仮説と食い違うとき、それはネズミが間違えているのではなく己が間違えているのである。なぜならば自然に悪意はなく人間は愚かだからである。これが「性善説」の正体だと私は考える。

常に自分を疑っている者が他人を疑うことは難しい。そして自信満々な人々がこのことを理解できるとも思えない。この非対称性が時折不幸な関係を生む。

話を変える。

「私を疑う私」「私に疑われている私」は信用できるのだろうか。少し考えると、私が疑っているのは「過去の私」だということに気付く。現在の私は常に信用できる存在である。でなければ「疑う」という行為が成立しない。疑っている私は疑われている私よりも幾分かは広い視野を持つ。あるいは多くのことを知っている。これを成長と言い換えても良い。

自分の疑いが誤りであることもある。その場合、過去の私のほうが信用できるのではないか? そうだろうか。「現在の私の疑いが誤りであった」という理解は、未来の私が現在の私の疑いを疑うことで獲得される。未来の私は「過去の私が正しく現在の私の疑いが間違っている」こと全てを理解する。少なくともその可能性に開かれている。

「自分が信用できない」「自分に自信がない」という人は少なからずいる。そして彼らにはこう問うことができる。「自分が信用できない」という考えは信用できるか? 「自分に自信がない」という想いに自信はあるか? ——問題をこのように展開すると、それが単なる自己言及のパラドックス、すなわちナンセンスであることがよくわかる。

これらを踏まえれば、自信を持って自分を疑うことができるようになる。