- Diary 2013/08

2013/08/15/Thu.

八月の六日と九日が原爆忌であることは日本人にとって常識だが、原爆を投下した米国においてはそうでない。いわんや他国においてをや。

被爆から六十八年。「原爆を落とされたこと」に対する(戦後教育を受けた)日本人の感想はまことに慎ましい。「絶対に米国を許さない」と考える人は極めて僅かである。「原爆を落とされても仕方がなかった」とまでは言わぬものの、「我々日本人にも非があった」というのが平均的な印象ではないか。それを端的に表しているのが「過ちは繰返しませぬから」という碑文であろう。これは懺悔である。「過ちを繰り返すな」と米国を非難しているわけではない。

不思議な精神性である。そしてこの奇妙さを外国人は理解していない。

原子爆弾をはじめとする核兵器が現在も存在する最大の根拠は抑止力である。核を撃たれたら撃ち返す。一度このような仕組みができ上がると、その巨大な破壊力ゆえに、お互いに核兵器を行使することができなくなる。相手をやれば、自分もやられる。自分がやられるのは嫌である。だから自分からはやらない。これが相互確証破壊(MAD)である。

この理論を超越する動機を持つ国が一つだけある。唯一の被爆国たる日本である。「唯一の被爆国」が意味するところは、「日本はやり逃げをされた国」だということである。日本には、やり返されるのを承知で核を撃つ理由がある。米国に対する復讐である。したがって米国は絶対に日本の核兵器所持を認めない。逆にいえば、日本が核兵器を開発できるのは米国と断交したときである。日米が断絶するなど現時点では想像できないが、仮にあるとすれば、それは戦争をするときであろうか——。ここから、「日米が開戦したら日本は米国に核を撃つ」という推測に辿り着くには少しだけ飛躍をすれば良い。

この理屈で米国から原爆忌を眺めるとどうなるか。「奴らはまだ恨みを忘れていないぞ」となる。

とんでもない!と日本人は思うであろう。実際、とんでもない妄想である。では、そのとんでもなさを論理的に説明できるだろうか。実のところ非常に困難である。しかし我々は語らなければならない。

その前に、もう少しマキャヴェリックな視点で考えてみる。

本日は終戦記念日である。終戦というが歴史的に見れば明らかに敗戦である。敗戦を記念する場合、一般的には国辱や国恥といった概念がセットとなる。日本の終戦記念日はそうではないが、それがどこまで他国に理解されているかは疑問である。

日本人はまた先の戦争についてよく反省をする。先の戦争とは敗戦である。敗戦を反省してやまない。これを軍事的に読み替えると「次の戦争では失敗しない、負けない」となる。日本人はそんなことを考えていないが、それがどこまで他国に理解されているかは疑問である。

米国をはじめ日本をよく知る国々の人々は概ね日本人に好意的である。尊敬の念を抱かれることすらある。一方で、ナメられがちなことも事実である。そんな日本人——しばしば弱気だがいつもニコニコと穏やかで生真面目かつ優秀な彼ら——が、しかし八月になると「原爆のことは忘れていない」「次の戦争では勝つ」とも読み取れるデモンストレーションを一斉に行う。これは恐怖であろう。核兵器を配備し折々に核実験をすることで武力を誇示するよりもよほど安価で有効な外交メッセージになり得る。もっと意識的に演出し、その効果をコントロールすべきではないか。

しかし、そんな真似はしないのが日本人である。素晴らしいことである。そして我々は、その美点を外国人に説明できるようにならねばならない。さらなる言葉が必要である。

2013/08/05/Mon.

今夏、日本ではうなぎが話題であるという。鰻なう。は回文である。

ティッシュケースやティッシュカバーなるものが「わざわざ」作られている。ティッシュ箱を覆い隠し、室内のインテリアと調和させることを目的としたアレである。この商品の存在が明確に物語っているのは「ティッシュ箱のデザインはダサい」ということである。そしてこの事実を最も敏感かつ謙虚に受け止めるべきはティッシュ箱のデザイナーである。にも関わらずティッシュ箱の外装は私が物心ついたときから大きく進化していない。五箱パックは相も変わらずのレインボーカラーである。

(経費もかかるだろうに、なぜ全ての箱を違う色にしているのかも積年の疑問である)

ティッシュ箱のデザイン自体をケースやカバーのようにすればもっと売れるのではないかと思うのだが、なぜかそうはならない。無印良品あたりではそのようなティッシュが販売されているのかもしれないが、たかだかティッシュごときのために特定の店に赴くほど暇な人間はそう多くない。逆にいえば大多数の人はレインボーの箱が山積みになっているような店でティッシュを購入しているのであり、もしそこにシックな単色の箱に入ったティッシュがあればこぞって買い求められるのではないかというのが私の提案である。無地ではティッシュ会社内部の企画会議に通らないというのなら林檎のマークでも入れておけば良い。

一つ考えられるのはケースやカバーの制作会社がティッシュ会社の傘下にある可能性である。すなわちティッシュ箱のデザインがイケていないのはケースやカバーを売らんがための陰謀というわけである。

仮にそうであるなら、ティッシュ箱にウンコの写真でも印刷すればさらにケースやカバーの需要が高まるのではないかと思う。ウンコの横に「ティッシュでウンコを拭いてトイレに流してはいけません」とでも書いておけば申し訳も立つ。あるいはデザインを草間彌生に依頼するという方法もある。あんな模様の箱が机の上にあってはおちおちオナニーもできないから、これは是が非でもケースやカバーが必要になってくる。

もちろん、あるティッシュ会社だけがティッシュ箱をウンコまみれにしたりブツブツにしても意味がない。全てのティッシュ箱がそうならないとケースやカバーの売り上げは伸びない。そこで談合が求められる。実のところ私は各ティッシュ会社が裏で結託していると確信している。数年前、ティッシュ箱のかさが「一斉に」低くなったことがあった。あれは一体どういう仕組みだったのか。いまだに不思議である。

付け加えるなら、ティッシュ箱の規格変更はケースやカバーの買い替えを促進したはずである。あのときティッシュケース/カバー業界はバブルに湧いたであろう。

ティッシュ箱は本当に謎が多く、長らく考え続けている。

2013/08/04/Sun.

実験結果や論文の捏造といった問題が起こると、しばしば「研究は性善説に基づいている」と指摘される。この記述はやや正確さを欠く。

サイエンスの研究対象は自然である。自然は善悪などの意思とは無関係に存在する。例えば生命現象は複雑であるが、これは何も研究者を困らそうという意図の元に発達したわけではない。

日々の研究は失敗と挫折の連続である。理論とデータが合致しない、実験に再現性がない、自分の印象と何かが異なる……。このような場合に正統な教育を受けた研究者が思うのは「俺が誤っているのだろう」ということである。細胞培養が上手くいかないとき、それは細胞が悪いのではなく自分が悪いのである。動物実験の結果が仮説と食い違うとき、それはネズミが間違えているのではなく己が間違えているのである。なぜならば自然に悪意はなく人間は愚かだからである。これが「性善説」の正体だと私は考える。

常に自分を疑っている者が他人を疑うことは難しい。そして自信満々な人々がこのことを理解できるとも思えない。この非対称性が時折不幸な関係を生む。

話を変える。

「私を疑う私」「私に疑われている私」は信用できるのだろうか。少し考えると、私が疑っているのは「過去の私」だということに気付く。現在の私は常に信用できる存在である。でなければ「疑う」という行為が成立しない。疑っている私は疑われている私よりも幾分かは広い視野を持つ。あるいは多くのことを知っている。これを成長と言い換えても良い。

自分の疑いが誤りであることもある。その場合、過去の私のほうが信用できるのではないか? そうだろうか。「現在の私の疑いが誤りであった」という理解は、未来の私が現在の私の疑いを疑うことで獲得される。未来の私は「過去の私が正しく現在の私の疑いが間違っている」こと全てを理解する。少なくともその可能性に開かれている。

「自分が信用できない」「自分に自信がない」という人は少なからずいる。そして彼らにはこう問うことができる。「自分が信用できない」という考えは信用できるか? 「自分に自信がない」という想いに自信はあるか? ——問題をこのように展開すると、それが単なる自己言及のパラドックス、すなわちナンセンスであることがよくわかる。

これらを踏まえれば、自信を持って自分を疑うことができるようになる。