顕微鏡で撮影した写真を定量化してグラフを描く——。研究生活において日常的な作業である。写真が絵であることは言うまでもない。しかしグラフもまた絵であるという事実に気付くのは難しい。グラフ化という行為は、これら二つの絵は同じだという主張に他ならない。改めて考えると非常に乱暴である。標準偏差が示された棒グラフといえば難しそうに聞こえるが、絵として見れば毛の生えた長方形に過ぎない。これが高解像度の顕微鏡写真を抽象化したものなのだと科学者はいう。キュビズムも裸足で逃げ出す前衛的な姿勢である。
グラフには数値などの追加的な情報が含まれてはいる。だがそれはあくまで補助的なものでしかない。ビルディングの写真に「七階」と書き込まれているようなものである。そのような記載がなくとも、窓を数えれば建物の階数はわかる。それが「絵として見る」ということである。グラフを絵として見るなら、そこに含まれる文字の多くは実のところ不要である。
グラフは写真が持つ膨大な情報の一部を抽出したものでしかない。そしてそれは具象画でも同様である。樹木の絵を描くとき、葉の一枚一枚を描写するわけではない。自ずと抽象化が施される。むしろグラフでは、長方形の辺の長さと葉の数が正確に対応していたりする。グラフの抽象化だけが大胆であるとはいえない。とはいえ、グラフの形状があまりにも単純であることに変わりはない。
コンピュータが個人で自由に使えるようになった一九九〇年代の論文を開くと、しばしば立体化された棒グラフを見ることができる。当時はそれがクールなスタイルだったのかもしれないが現在では
ところで、グラフの発達は科学史における興味深い主題である。棒グラフを最初に考えたのは誰か。偏差を波平の頭髪のように表現したのは? 円グラフ、折れ線グラフ、散布図、ヒストグラムは? そこには天才的な
一ついえるのは、初めてグラフを創った人の手元には、ただデータだけがあったということである。そこが我々と決定的に異なる。現代の研究者は、すでに存在するグラフの様式の一つに落とし込むためにデータを生み出す。また、そのようなデータを得るのに適した方法で実験を行う。それが悪いとまでは思わないが、そのことに無意識であってはいけない。