- Diary 2013/06

2013/06/20/Thu.

米国の食事は不味まずい——、と一蹴するのは日本人にとって容易なことである。そして、簡単なことについてはよく考えねばならない。

米国人を見て覚える最初の疑問は、それほど不味いものをブクブク肥え太るまで食べ続けられるだろうか、ということである。デブが何かをむさぼり喰っている。その絵だけを見れば、彼が口にしている「何か」は美味いに違いないと思うのが自然である。

もう一つの示唆は、自らの経験である。珈琲コーヒー麦酒ビール、煙草……、あれらを初めて口にしたとき、どう感じたか。こんなものが美味いわけがない、そう思ったのではなかったか。しかし我慢をして摂取し続けるうちに味がわかってきたのではなかったか。

なぜ我慢をしてまで幾度も口にしたのか。それらが世間的に美味いとされており、そして実際に美味そうに口にする者が周りにいたからである。ならばやはり美味いのだろう。不味いと思う私が間違えているのだ。そうして私は、それらを能動的に味わうことになったのである。

これは例えば、ある作品が面白いことと、その作品を面白がることの関係に似ている。面白がらないと面白くないという作品はまま存在する。

ここ数日、米国の食事を文字通り噛みしめて味わっている。よく咀嚼をすれば、美味回路の更新も促進されるかもしれない。

2013/06/17/Mon.

先日の日記で「渡米以降、外出時の暇潰しはもっぱら携帯電話に依存している」と書いた。具体的には、読書代わりに日本語のウェブページを読んでいる。それにしても驚くべきは、フリーライターを名乗る人間の多さである。研究者よりよほど多いのではないか(二〇一二年の日本における研究者数は八十四万人)。

フリーライターは和製英語である。Free writer とつづるのだろうが、Oxford English Dictionary には掲載されていない。Free writer は「無料で原稿を書く人」とも読める。また、free writing は自動書記の意である。しかるにフリーライターを名乗るのは、丹精を込めて書いた自分の文章を金銭と交換したい人たちである。

フリーライターのフリーが無料ではなく自由を謳っていることは知っている。そしてフリーライターを名乗る人たちの文章が、しばしば「仕事をくれ」という一文で締められることも知っている。だが、依頼を乞い、条件を呑んでようやく与えられた場所に「仕事をくれ」と刻まずにはいられない境遇が自由であるかは疑問である。また、不自由な環境で書かれる文章の内容が自由になることも決してない。

自分のサイトで無報酬かつ自由に書いている私のような者こそフリーライターを名乗る資格があると思うが、文字通り free であるからそもそも名乗る必要もない。逆にいえば、フリーライターを名乗る人たちは何らかの事情があってフリーライターを名乗っている。その理由を妄想するのは彼らが書いた文章を読むよりも面白い。

いや、いささかフリーライターを揶揄やゆし過ぎたようである。まことに申し訳ない。などという、フリーライターを名乗る人たちが常套的に挿入する空虚な気遣いもドブに捨てるべきである。嘘を書いて小銭を貰うことをフリーと称していては、地位も原稿料も上がらないだろう。

建設的な提案を試みる。フリーライターという語は意味不明瞭である。名乗る人間が多いから競争も激しい。世間にはカタカナの肩書を毛嫌いする人がいるので、潜在的な需要を失っている可能性もある。やはり己の身分を明かすには日本語がよろしい。そして実際、フリーライターに代わる日本語が存在する。売文家である。この言葉は本来、他者による蔑称であるが、自ら名乗ってみると不思議な潔さが漂う。

売文家・山田太郎。文、売ります。

男らしいし、興味をそそられる。これが「プロの売文家」ともなれば凄みも一段と増す。「ここに記されているのは金のために並べられた文字列であり俺個人の精神とは一切関係がない」という宣言は創作や芸術の否定ともいえる。どんな内容でも良い。頭が腐りそうな駄文でも構わない。最後に「売文家」と記すだけで、この破壊的な効果を得ることができる。

売文家に自由はない。彼に許されているのは依頼を受諾・拒否する権利だけである。この厳しい制約が彼の文を研ぎ澄ます。そしてそれは、彼が書きたかったものではないのである。我々は、そのような文章をどのように読み解けば良いのだろう。

以下は宿題である。

メタな視点で、売文家という表記をも含めて一つの作品なのだと考えることもできる。これは、題名や著者名、あるいは「第一章」「了」などの文字と作品との関係性という問題に一般化できる。例えば、『日本人とユダヤ人』は必ずイザヤ・ベンダサンという筆名とともに語られる。麻耶雄嵩『あいにくの雨で』は「13」から開幕することが決定的に重要な小説である。土屋賢二はペンネームを赤川次郎著にしてみたらと思案した。ここで問われているのは、本文とはいったい何かということである。

2013/06/16/Sun.

写真とグラフ

顕微鏡で撮影した写真を定量化してグラフを描く——。研究生活において日常的な作業である。写真が絵であることは言うまでもない。しかしグラフもまた絵であるという事実に気付くのは難しい。グラフ化という行為は、これら二つの絵は同じだという主張に他ならない。改めて考えると非常に乱暴である。標準偏差が示された棒グラフといえば難しそうに聞こえるが、絵として見れば毛の生えた長方形に過ぎない。これが高解像度の顕微鏡写真を抽象化したものなのだと科学者はいう。キュビズムも裸足で逃げ出す前衛的な姿勢である。

グラフには数値などの追加的な情報が含まれてはいる。だがそれはあくまで補助的なものでしかない。ビルディングの写真に「七階」と書き込まれているようなものである。そのような記載がなくとも、窓を数えれば建物の階数はわかる。それが「絵として見る」ということである。グラフを絵として見るなら、そこに含まれる文字の多くは実のところ不要である。

グラフは写真が持つ膨大な情報の一部を抽出したものでしかない。そしてそれは具象画でも同様である。樹木の絵を描くとき、葉の一枚一枚を描写するわけではない。自ずと抽象化が施される。むしろグラフでは、長方形の辺の長さと葉の数が正確に対応していたりする。グラフの抽象化だけが大胆であるとはいえない。とはいえ、グラフの形状があまりにも単純であることに変わりはない。

コンピュータが個人で自由に使えるようになった一九九〇年代の論文を開くと、しばしば立体化された棒グラフを見ることができる。当時はそれがクールなスタイルだったのかもしれないが現在ではすたれている。なぜか。上記の考察を踏まえると、これが流行の問題でないことがわかる。グラフの本質は抽象化である。それを立体化=具象化するのは非本質的というよりは無意味な行為といえる。アビニヨンの娘たちが不細工だからといって、Photoshop で化粧を施すようなものだろう。

ところで、グラフの発達は科学史における興味深い主題である。棒グラフを最初に考えたのは誰か。偏差を波平の頭髪のように表現したのは? 円グラフ、折れ線グラフ、散布図、ヒストグラムは? そこには天才的なひらめきや並々ならぬ工夫があったはずである。なぜ棒グラフは縦長が主流なのかといった、文化的・人間工学的な疑問もある。

一ついえるのは、初めてグラフを創った人の手元には、ただデータだけがあったということである。そこが我々と決定的に異なる。現代の研究者は、すでに存在するグラフの様式の一つに落とし込むためにデータを生み出す。また、そのようなデータを得るのに適した方法で実験を行う。それが悪いとまでは思わないが、そのことに無意識であってはいけない。

2013/06/15/Sat.

携帯端末のディスプレイでも日記を読みやすくなるようにスタイルシートを追加した。渡米以降、外出時の暇潰しはもっぱら携帯電話に依存している。様々なページを小さな画面で閲覧したことで、このサイトのデザインについても改めて考える機会を得た。

デザインの方針は一貫して単純である。情報の密度と可読性を高めること。もっとも、両者は相反する命題なので指針は単純でも実現は容易でない。自作プログラムによる運営という都合上、この課題は簡潔なコードで達成されねばならない。また、読み込みが遅くなってもいけない。以上の条件をクリアした変更だけが実装を許される。

これらの規則は全て「文章を読む」という目的のために奉仕している。しかしさらに深く考えると、このサイトから摂取してほしいと真に私が願っているのは、文字列ではなく文意であることに気付く。であるなら、文章もまた奉仕しなければならない。そこで「文をデザインする」という発想が出てくる。

文をデザインする、という言い回しは聞き慣れない。だが、一考に値する主題のように思う。恐らくそれは、文章を推敲したり構成を工夫したりといった作業よりもさらに原理的・体系的な行為である。また、多様で自由な表現や、文章を読むこと自体の快楽といった文芸的な指向とも異なるように思う。

文のデザインという言葉から私が想像するのは、直線的な構成、簡素で厳格な文法の適用、短文化、よく定義された単語の使用(語彙の制限)などである。人工言語への接近といっても良い。そのような文章を読んで面白いのか、というのは一つの重大な問いである。楽しくないだろうという予測は直感的で説得力を持つが、はたして本当だろうか。挑戦する価値はあるだろう。

2013/06/14/Fri.

可及的速やかに

「可及的速やかに」という文字を見るたびに「火急的〜」と書き換えたくなる。可及的速やかに=できるだけ速く=火急に=火急的速やかに。この言葉を初めて目にしたのは田中芳樹『銀河英雄伝説』においてであった。ラインハルト・フォン・ローエングラムがよく口にしていた。

倫理と幸福

世辞や愛想が苦手である。理由は単純で、厳密にいうとこれらは全て嘘だからである。それが真実なら、これらの行為は賞賛や肯定と呼ばれるはずである。賞賛や肯定は苦手ではない。

世辞や愛想は適度に使ったほうが良いという社会的要請は、嘘をいてはいけないという基本的倫理と衝突する。ゆえに処理に困る。何事にも例外は存在するという方便もあろうが、これも倫理という概念にそぐわない。どんな状況においても己を律する指針たることが倫理の特性だからである。例外を認めた途端、あいつならブチ殺しても良い、ということになりかねない。これでは倫理とはいえない。

倫理を貫徹して世辞や愛想を絶対に言わない、とすれば矛盾はなくなる。ではそれで、私は、そして他人は幸福になるのだろうか。何のために倫理を遵守するのかという本質的な問いを忘れてはいけない。

……そんな思念に意識が取られるので、私の対応はいつも中途半端になる。「いいね、これ」。ヘラヘラと無理に笑いながら愛想を言った刹那、厳しい倫理が壁を破って登場する。「でもここはクソやね」。これなら黙っていたほうが良かったのではと後悔することも多い。

倫理とは極めて人間的なものである。ところで、私は人間であると同時にヒトという動物でもある。実のところ、私はできるだけ動物らしく生きたいとも思っている。幸福追求という問題を考えるときに、「動物たちは幸福なのだろうか」という疑問は非常に重要である。

倫理や幸福に関する言及には撞着したものが多い。「幸福になるべきだ」という言説に圧迫されるのは不幸である。「自由であるべきだ」という思想に束縛されるのは不自由である。「個性的であるべきだ」という意見は没個性的で、「多角的に見るべきだ」という観点は一面的である。私の「動物らしく生きたい」という欲求も人間的なものといえる。

矛盾していると何か問題なのか、と開き直りに近い質問を立てることもできる。しかし矛盾を認めた瞬間に「考える」という行為が無効になる。したがってこの命題はナンセンスである。思考を抛棄するという究極的な態度に打って出るなら、それは動物的というよりは動物そのものである。それで良いじゃないか——という境地にはまだ至っていない。

2013/06/08/Sat.

車輪の再発明

「車輪の再発明はするな」という言葉を見るたびに思い出すのが新大陸の文明である。南北アメリカ大陸には車輪がなかった。新大陸が旧大陸の人間に蹂躙された理由は複合的だが(ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』)、仮に新大陸でも早くから車輪が発明されていれば、以後の歴史も異なる展開を見せたかもしれない。

始まらない物語

先日の日記で、物語の開始時点を前へ前へと早めていけばそれは「始まらない物語」になるのではないかという着想を述べた。

一人称小説を考えよう。物語を以前へと遡り続ければ、いずれ「私」が存在しない時空間へと辿り着く。この始まらない物語を読む者は(始まらない物語をどうやって読み始めるのかという疑問はさておき)、この小説が三人称で記述されていると思うだろう。ところがある時点で唐突に「私」が現れる。うわ。こいつが主人公か。まだ物語は始まっていなかったのだ!

ところで、どの時点から主人公に「私」を名乗らせるかは難しい問題である。まさか「今日、私は生まれた」と書くわけにはいかない。こんな文章が許されるのは、産湯が入ったたらいの模様を覚えている三島由紀夫だけである。では、一般的な主人公はいつから「私」となるのだろうか。

この問題を考えていくと、一人称小説の主人公は、その小説を記述できるだけの自我と知識を持っているはずだということが改めて明らかになる。これも車輪の再発明といえる。

『イマジン』

随分と古い話になるが、9.11 テロの後に、米国ではジョン・レノンJohn LennonイマジンImagine』が放送禁止になったという。この措置に対する幾つかの抗議も目にした。私は、『イマジン』という少し眠たい曲にそれほどの力があると多くの人間が信じていることに単純な驚きを覚えた。『イマジン』の放送禁止に賛成の人も反対の人も、ともに純粋であるといえる。これは皮肉ではない。

(断っておけば、私は十代の頃からビートルズThe Beatlesとそのメンバーの大ファンで、『イマジン』も大好きなナンバーの一つである)

『イマジン』の放送を求める人々の心理はよくわかる。ただ指摘しておきたいのは、「皆でこの曲を歌って気持ちを高めよう」という発想は、全体主義的で宗教的だということである。「ともに歌おう。これは偉大な曲だ。ここに表れている思想に共感せよ。さあ、君もこちらに」。これでは軍歌も『イマジン』も変わらない。

言うまでもなく、放送禁止は愚かな選択である。と同時に、効力のある措置とも思えない。放送禁止は営利企業である放送局の判断であり、国家が『イマジン』を抹殺したわけではないからである。我々には変わらず『イマジン』を聴く自由があるし、『イマジン』を放送しない企業に尻を向ける自由もある。だから『イマジン』の放送禁止は言論弾圧の問題でもない。皆で『イマジン』を聴けるかどうかが焦点であり、その種の集団行為に興味のない人間からすれば、どちらも何を本気になっているのか、ということになる。

個人的には、戦争が始まったら『イマジン』ではなく『レット・イット・ビーLet It Be』を流せば良いと思う。