- 明確な文章(三)

2013/02/07/Thu.明確な文章(三)

先日の日記で、「明確な文章」について書いた。

明確な文章は、良い文章や正しい文章とは異なる。文学的に良い文章はしばしば不明確である。また、敬語は正しく使わねばならないが、情報の伝達という目的に限ってはそもそも不要である。

明確な文章、良い文章、正しい文章の間に優劣はない。互いに独立もしていない。明確で良い文章は存在し得る。さらにいえば、不正確な文章、悪文、誤用でさえ、特定の表現(隠喩、ユーモアなど)には不可欠である。

私が明確な文章を書きたいと思うのは、それが研究者である私にとって極めて実用的だからである。もちろん、明確な言葉は万能ではない。例えば、友人に明確な言葉で話しかけると、大抵は喧嘩になる。

話を戻す。

何らかの条件を満たした文字列が、「明確な文章」という性質を獲得するのではない。ある一つの文字列は、読者 A には明確であり、読者 B には不明確であり、読者 C には概ね明確であり、読者 D には一部不明確であり、外国人 E には意味不明である。

私が書き得るのは、私にとって明確な文章だけである。したがって、明確な文章を書くには私自身が明確になるしかない。文章を書くことの意義(の一つ)がここにある。

私が書くようなことは、既に過去の誰かによって書かれている。だから、私が書いたモノは、他者にはほとんど無価値である。ただ、私が書いたというコトは、私にとって価値を生じ得る。私にとって明確な文章を書こうとする、その行為こそが重要なのだと思う。