- 明確な文章(二)

2013/02/06/Wed.明確な文章(二)

先日の日記で、「明確な文章」について述べた。

一つ思うのは、「私が書いた文章」を「私」の延長として捉えているうちは、文章は明確にならないだろう、ということである。

若い人には少し難しいかもしれない。学校で散々、「文章で自分を表現しなさい」と言われてきたからである。

以下、曖昧な部分もあるが、現在考えていることを書く。

そもそもは、文体とは何かということを考えていた。

特定の集団で特異な文体が発達するのはなぜか(例えば、左翼の独特の文章)。あるいは逆に、直接関係のない者たちの文体が似るのはなぜか(例えば、精神病患者の手記)。文体と内容は不可分であるのか(左翼の文体で右翼の檄文を書くとどうなるか)。文体のない文章はあり得るのか(「標準的な文章」は存在するか)。

これら文体に関する疑問の根本には、文章が書き手の人となりを、否応なく、如実に顕すことに対する興味がある。

文章は書き手を映す鏡である。わざわざ自分を表現しなくとも、そこには、これ以上なく明瞭に私の姿が刻み込まれている。一度でも日記を書いてみれば理解できる。そして、我々が文章を書く上で学ぶべきは、私を表現する技法ではなく、私を滅却する精神だということに気付くはずである。

冒頭の主張に戻ろう。「私が書いた文章」を「私」の延長として捉えているとどうなるか。明確な文章を書きたい=文章を正確に理解されたいという動機が、私を正確に理解してほしいという願望と混じり合う。だが、私を正確に理解してほしいという欲求は、実のところ偽りである。私の劣等感、欲望、短所、性癖、無力で孤独な存在であるという事実……、これらまで正確に理解されては困るからである。つまり本音は、私のことをより良く——できるなら現実よりも良いように——見てほしい、なのである。

この、誰しもが持つ無意識の心理が、文章に無用の語句を挿入させる。嘘を吐くときは、口数が減るのではなく増えるのと同じである。無意味な語の典型は、ちなみに、ひょんな、一応、やはり、ちょっと、とりあえず、などである。我々は深く考えずにこれらの言葉を使うが、果たしてその意味するところを正確に説明できるだろうか。自分が書いた文章である。説明できないはずがない。

どうだろう。これらはわかりやすい例である。無論、さらに大胆な粉飾もあれば、より微妙な隠蔽もある。この種の用例は無数にあるが、いずれにせよ、注意深く読まないと気付くのは難しい。

最後に、私自身の実例も書いておく。最前の日記には次のような一文がある。

漫然と描いていると、ついつい小さな箇所に拘ってしまうのである。

「ついつい」とはどういう意味か。不可抗力と言いたいのか。「小さな箇所に拘」る責任を自分以外に転嫁していないか。

文章の明確さを損なうこのような表現は、可能な限り排除しようと努めているが、根絶は至難である。