- OS と末那識

2013/01/23/Wed.OS と末那識

先日の日記で、「目覚ましの音を聞いたのは誰か」と書いた。

類似する問題は他にもある。例えば、初等生物学で学ぶ反射がそうである。典型的には、「うっかりストーブに手を触れてしまった刹那、"熱い" と感じるよりも早く手を引っ込めるような動作」と説明される。ここでも、手を引いたのは果たして誰なのかと問うことができる。

情動もかなり怪しい。感動すると涙が出ると思い込みがちだが、我々はしばしば、涙によって自分が感動していることに気付いたり、もっと極端な場合では、涙を流している自分自身に感動していたりする。さて、感動し、涙を流しているのは誰なのだろうか。

このような、目覚まし音を聞いたり、反射的に手を引いたり、知らず涙を流したりする、得体の知れない実体を「私」として認証するか否かは、各人の実感によって異なる。この問題を少し拡張すると、すぐに心神喪失問題に行き当たる。私の境界がいかに曖昧であるかがよくわかる。

「人は瞬きした一瞬、実は意識を失っているんです。つまり意識というものは覚醒を飛び飛びに繋いでいるにすぎません。[略]ところで八時間に一度しか瞬きしないことを睡眠と言うんです。アッハッハ」

(明石散人/池口恵観『日本史鑑定 宗教篇』「あとがき」)

この指摘は、単なる笑い話ではない。我々は、瞬きをするたびに「視界が暗くなったな」とは一々思わない。瞼を閉じたから「見えていない」のではなく、明らかに「見ていない」のである。だから「意識を失っている」ともいえるし、睡眠に等しいと考えることすらできる。

瞬きに要する時間が短過ぎるので認識できないのではないか、という反論があるかもしれない。ならば、時間の短さは、速度の大きさを意味することを考えよう。瞼が閉じる速度は、人間の筋肉が生み出すものの中で最も高速だという。このような速度の変化が視界に捉えられれば、必ずや注意を引くはずなのである(眼前で掌を動かしてみればわかる)。しかし我々は普段、瞬きによって視界が変化したとは感じていない。

瞬きは無意識に行われることが、この疑問の根本にあるのだろうか。妄想を働かせて、人工瞼というものを考えてみよう。我々は、人工瞼による瞬きを気にするだろうか、それとも気にしないのだろうか。あるいは眼鏡のごとく、最初はとてつもない違和感を覚えるけれども、いつしか慣れ切ってしまうのだろうか。

冒頭から述べているこれらの問題は、意識と無意識は対立する、ないしは交互に顕れるものであるという直感的な把握に起因する。しかしそうではなく、意識とは、無意識という OS の上で走るアプリケーション(の一つ)であると理解した方が、恐らく実態に近い。

そう考えると、「"無"意識」という用語はいかにも不適切である。末那識に改めた方が良いのではないか。