- 培養脳はアッチョンブリケなのよさ

2013/01/18/Fri.培養脳はアッチョンブリケなのよさ

目覚ましの音で私は目覚める。問題は、目覚まし音を聞いたのは誰かということである。

私か。それでは私は、眠っている間、ずっと起きていたのか。

この問題をよく考えると、私という存在が、普段は意識しない(できない)全体性によって支えられていることに気付く。

話を変える。

古典的な思考実験に「培養液の中の脳」というものがある。この問題に対しては様々な見解があるが、一つ確実に指摘できることは、培養液の中の脳は生物個体ではない、という事実である。私は、この思考実験が生物学的にナンセンスであると思っている。

例えば、心臓を摘出した後、培養液中で生かし続けることは可能であろう。「培養液の中の心臓」は、血圧や酸素濃度に応じて、収縮力や拍動数を調節するだろう。これは、培養脳が「世界」を見ていることと何ら変わらない。Ex vivo でも、その器官の機能が保たれているというだけの話である。

私とは生きている私である。生きているとは何か。それは、生物として生きているということである。培養液中の脳や心臓は、それ単体として生きているわけではない。一方、心臓を人工心臓に置換しても私は私である。生物として生きるということは、個体としての全体性を保ち続けるということでもある。

「培養液の中の脳」が私として存在し得るかはわからない。この思考実験では、培養脳は元々、私という個体の脳であったことが前提とされている。すなわち、「生きていた私」の脳である。したがって、仮に培養脳が私であったとしても、それは「生きている私」という全体性の産物であるといえる。

(それでは、無から「培養液の中の脳」を人工的に作った場合はどうなるだろう。一歩進んだこの問いについては後述する)

もう一つ、よくある思考実験が「脳移植」である。甲の身体に乙の脳を移植したとする。この人物は甲か乙か。素直に考えれば、乙のように思える。別の回答としてよく見られるのは、甲の身体の影響で、乙の脳が徐々に甲化していくというものである。これは、脳といえども個体の一器官に過ぎないという考えに基づいている。心臓移植を考えれば理解しやすい。甲の身体に移植された乙の心臓は、甲の身体状況に対して、甲の心臓のように働くはずである。そのような全体性が発揮されなければ、移植の甲斐なく患者は死亡することになる。

脳も同様であろう。神経回路は身体の変化に応じて再構成される。有名なのは幻肢 phantom limb である。腕が切断されると、腕から脳への信号が途絶える。すると、腕と対応していた脳の領域に、他の抹消(顔面など)からの神経が侵入してくる。結果、脳は顔面からの刺激を腕からのものと誤解する。これが幻肢である(V・S・ラマチャンドラン/サンドラ・ブレイクスリー『脳のなかの幽霊』)。中枢は抹消の奴隷であることがよくわかる。

幻肢の例からまず間違いなく言えることは、脳移植の前後で、脳は劇的に変容するだろうということである。そのような変化を経ても、私は私であり続けるのだろうか。これは、脳移植という荒唐無稽な話に限らず、もっと一般的で切実な問いでもある。ボケてしまったら? 記憶を喪失してしまったら? 脳死は?

(脳移植についても、一歩先の実験を考えよう。例えば、甲の左脳と乙の右脳を接続したらどうなるだろう。「培養液の中の脳」は、脳が意識の座であることを前提としている。この仮定を突き詰めると、意識は脳の「どこか」にあるはずである。この推論には直感的に違和感を覚える。脳全体が私を形成しているのではないか。恐らくそうであろう。この考えを延長すると、ならばやはり身体全体が私を形成しているのではないか、という問いを生む)

「培養液の中の脳」が生物学的にナンセンスである理由を、もう少し述べる。

中枢および抹消の全ての神経系を摘出し、各末端に電極を繋いで、現実と全く同じ刺激を与えるとどうなるか、というのがこの思考実験の要諦である。「全く同じ刺激」とは何だろうか。例えば視神経に、個体として生存していたときと同一の刺激を与えるには、視神経を網膜に繋ぐしかないように思える。同様に、運動神経は筋肉と、自律神経は内臓と接続されなければならない。となると——、これは最終的に脳移植と同値になる。

(したがって、「無から培養脳を作る」ことも、無から個体を作ることと同義になる)

「私とは生きている私である」は必要条件であると書いた趣旨は、おおよそ以上である。

余談

神経を金属の電極に繋ぐという単純な想像では、培養脳の問題を正しく考えられない。細胞が金属に触れた時点で、それは明らかに異常な刺激となるからである。培養液についても同じである。培養液は血液でも髄液でもない。脳を、生きていたときと同じ状態に保ちたければ、生きていたときと同じ全体性を与えるしかないのである。

だから、中禅寺秋彦の以下の指摘は、ある意味で正しい。

「——脳は鏡だ。機械に繋がれた脳が産み出すのは、脳の持ち主の意識ではなく、繋いだ機械の意識だ」

(京極夏彦『魍魎の匣』)

もう一つ、奇形腫であったピノコについて触れておきたい。

おまえは人間になりそこなった肉体のかけらだ
おれの手で組み立てて人間に仕立ててやるぞ
おまえはさいわい脳から心臓から手足まで全部そろっているんだ
たりない部分はこうして合成繊維でつくってやったこれとあわせれば…………
おまえはりっぱに一人前の肉体に…………
仕上がるはずなんだ!

(手塚治虫『ブラック・ジャック』「畸形嚢腫」)

奇形嚢の中に脳髄しかなく、それをたまたま居合わせた脳死の少女に移植する、というストーリーではピノコという個体、そして個性は生まれ得なかった。ピノコがピノコであるためには、「脳から心臓から手足まで全部そろっている」ことが必須である。そのことを、医師でもある手塚は熟知していたに違いない。