- Diary 2013/01

2013/01/31/Thu.

文章を明確にするには、思考を明確にしなければならない。そして、明確に表現された文章だけが、その内容=明確になった私の思考を他者に伝えることができる。

国語の教科書に掲載される文章の多くは、明確さを欠く。なぜ、「筆者の気持ちを考えなさい」という問題が成立するのだろうか。その文章に、筆者の気持ちが明確に表現されていないからである。学生は、筆者の気持ちではなく、明確な文章の書き方、明確な思考の練り方をこそ学ぶべきである。

2013/01/24/Thu.

筋肉(心筋、骨格筋、平滑筋)の相違を考えるなら、血管系との関係にも留意すべきだろう、ということを以前に書いた。私は循環器の研究に携わっていたので、心筋と他の細胞(血管、血球、脂肪、間葉系細胞など)の繋がりについては、ある程度の知識がある。骨格筋に関しては総説を読んだ程度だが、心筋の知見を元にイメージできる部分も多い。

最近、自分は骨について何も知らないことに気付いた。文字通り、骨格筋は骨と結び付いている。例えば、進行性骨化性線維異形成症という病気では、筋肉が骨化する。また、心筋や骨格筋に分化する様々な体性幹細胞は、骨にも分化することがよく知られている。もっと骨のことを勉強するべきかもしれない。

以下、雑多でまとまりのない考えを書く。

ある細胞を骨格筋に分化させる、ということは、ある細胞を骨格筋以外に分化させない、ということでもある。しかしこれはあくまで原理的な話であって、現在の技術は、ある細胞の集団の一部を目的の細胞に分化させる、その効率を高めるという水準に留まっている。

抑制因子のカクテルによって、逆説的に特定の細胞への分化を促進する、という発想をすることは可能である。もっとも、具体的なアイデアはないし、現実はそれほど単純でもないだろう。促進・抑制は相対的なものである。ある現象の促進は、すなわち別の現象の抑制である。促進と抑制は別物ではなく、表裏一体なのだといえる。

もう一つ、単純にして素朴な疑問がある。細胞の系統によって、分化のしやすさが異なるのはなぜか。

ES/iPS 細胞は全ての細胞種に分化することができるが、それぞれの分化効率は一様ではない。例えば神経細胞は、万能性幹細胞をただ培養しているだけでも得ることができる。心筋も、かなり分化しやすい系列である。一方、MyoD の強烈な印象とは裏腹に、万能性幹細胞から骨格筋への分化は心筋よりも難しい。膵臓などの細胞は、いまだに悪戦苦闘が続いている。

上記の考え方を援用すれば、膵臓細胞への困難な分化は、膵臓以外の細胞への容易な分化の裏返しだといえる。また、分化しにくい細胞は、分化しやすい細胞よりもエネルギーの高い状態にある、と考えることもできる(「細胞の『状態』」)。

分化については、発生という時間依存的な現象も加味して考察する必要がある。発生においては、細胞や組織が出現する「順番」が厳密に定まっている。例えば、心筋は骨格筋よりも「先に」出現する。骨格筋に比べて心筋への分化が容易なのは、このような時間的要請の反映ではないか。また、発生的に後から出現する細胞の周囲には、先に出現した細胞が既に存在するということも、当然考慮せねばなるまい。

2013/01/23/Wed.

先日の日記で、「目覚ましの音を聞いたのは誰か」と書いた。

類似する問題は他にもある。例えば、初等生物学で学ぶ反射がそうである。典型的には、「うっかりストーブに手を触れてしまった刹那、"熱い" と感じるよりも早く手を引っ込めるような動作」と説明される。ここでも、手を引いたのは果たして誰なのかと問うことができる。

情動もかなり怪しい。感動すると涙が出ると思い込みがちだが、我々はしばしば、涙によって自分が感動していることに気付いたり、もっと極端な場合では、涙を流している自分自身に感動していたりする。さて、感動し、涙を流しているのは誰なのだろうか。

このような、目覚まし音を聞いたり、反射的に手を引いたり、知らず涙を流したりする、得体の知れない実体を「私」として認証するか否かは、各人の実感によって異なる。この問題を少し拡張すると、すぐに心神喪失問題に行き当たる。私の境界がいかに曖昧であるかがよくわかる。

「人は瞬きした一瞬、実は意識を失っているんです。つまり意識というものは覚醒を飛び飛びに繋いでいるにすぎません。[略]ところで八時間に一度しか瞬きしないことを睡眠と言うんです。アッハッハ」

(明石散人/池口恵観『日本史鑑定 宗教篇』「あとがき」)

この指摘は、単なる笑い話ではない。我々は、瞬きをするたびに「視界が暗くなったな」とは一々思わない。瞼を閉じたから「見えていない」のではなく、明らかに「見ていない」のである。だから「意識を失っている」ともいえるし、睡眠に等しいと考えることすらできる。

瞬きに要する時間が短過ぎるので認識できないのではないか、という反論があるかもしれない。ならば、時間の短さは、速度の大きさを意味することを考えよう。瞼が閉じる速度は、人間の筋肉が生み出すものの中で最も高速だという。このような速度の変化が視界に捉えられれば、必ずや注意を引くはずなのである(眼前で掌を動かしてみればわかる)。しかし我々は普段、瞬きによって視界が変化したとは感じていない。

瞬きは無意識に行われることが、この疑問の根本にあるのだろうか。妄想を働かせて、人工瞼というものを考えてみよう。我々は、人工瞼による瞬きを気にするだろうか、それとも気にしないのだろうか。あるいは眼鏡のごとく、最初はとてつもない違和感を覚えるけれども、いつしか慣れ切ってしまうのだろうか。

冒頭から述べているこれらの問題は、意識と無意識は対立する、ないしは交互に顕れるものであるという直感的な把握に起因する。しかしそうではなく、意識とは、無意識という OS の上で走るアプリケーション(の一つ)であると理解した方が、恐らく実態に近い。

そう考えると、「"無"意識」という用語はいかにも不適切である。末那識に改めた方が良いのではないか。

2013/01/19/Sat.

絵画教室四十二回目。一枚目の鉛筆画の二回目。モチーフは道具袋(の写真)。

道具袋の中にはスプレーボトルなどが入っている。布袋は不定形なので、いささか形が歪んでも大して問題にならない。しかしボトルのごとき幾何学的な物体は、少しでも描写が狂うと、すぐにそれとわかってしまう。したがって、このような場合は、まずはボトルの形をしっかりと再現し、それに合わせて袋を描き込んでいくのが上手いやり方である。

……ということに気付いたのは、全体の辻褄が合わなくなってからのことである。また一つ賢くなったぜ。

それでも何とか輪郭を描き終えることができた。来週からは、立体感を出していきたい。思い切ってグリグリと描き込むことが肝要だとわかってきたので、ビビらずに手を動かしたいものである。

夜は釜飯屋で晩餐。

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過去の絵画教室

2013/01/18/Fri.

目覚ましの音で私は目覚める。問題は、目覚まし音を聞いたのは誰かということである。

私か。それでは私は、眠っている間、ずっと起きていたのか。

この問題をよく考えると、私という存在が、普段は意識しない(できない)全体性によって支えられていることに気付く。

話を変える。

古典的な思考実験に「培養液の中の脳」というものがある。この問題に対しては様々な見解があるが、一つ確実に指摘できることは、培養液の中の脳は生物個体ではない、という事実である。私は、この思考実験が生物学的にナンセンスであると思っている。

例えば、心臓を摘出した後、培養液中で生かし続けることは可能であろう。「培養液の中の心臓」は、血圧や酸素濃度に応じて、収縮力や拍動数を調節するだろう。これは、培養脳が「世界」を見ていることと何ら変わらない。Ex vivo でも、その器官の機能が保たれているというだけの話である。

私とは生きている私である。生きているとは何か。それは、生物として生きているということである。培養液中の脳や心臓は、それ単体として生きているわけではない。一方、心臓を人工心臓に置換しても私は私である。生物として生きるということは、個体としての全体性を保ち続けるということでもある。

「培養液の中の脳」が私として存在し得るかはわからない。この思考実験では、培養脳は元々、私という個体の脳であったことが前提とされている。すなわち、「生きていた私」の脳である。したがって、仮に培養脳が私であったとしても、それは「生きている私」という全体性の産物であるといえる。

(それでは、無から「培養液の中の脳」を人工的に作った場合はどうなるだろう。一歩進んだこの問いについては後述する)

もう一つ、よくある思考実験が「脳移植」である。甲の身体に乙の脳を移植したとする。この人物は甲か乙か。素直に考えれば、乙のように思える。別の回答としてよく見られるのは、甲の身体の影響で、乙の脳が徐々に甲化していくというものである。これは、脳といえども個体の一器官に過ぎないという考えに基づいている。心臓移植を考えれば理解しやすい。甲の身体に移植された乙の心臓は、甲の身体状況に対して、甲の心臓のように働くはずである。そのような全体性が発揮されなければ、移植の甲斐なく患者は死亡することになる。

脳も同様であろう。神経回路は身体の変化に応じて再構成される。有名なのは幻肢 phantom limb である。腕が切断されると、腕から脳への信号が途絶える。すると、腕と対応していた脳の領域に、他の抹消(顔面など)からの神経が侵入してくる。結果、脳は顔面からの刺激を腕からのものと誤解する。これが幻肢である(V・S・ラマチャンドラン/サンドラ・ブレイクスリー『脳のなかの幽霊』)。中枢は抹消の奴隷であることがよくわかる。

幻肢の例からまず間違いなく言えることは、脳移植の前後で、脳は劇的に変容するだろうということである。そのような変化を経ても、私は私であり続けるのだろうか。これは、脳移植という荒唐無稽な話に限らず、もっと一般的で切実な問いでもある。ボケてしまったら? 記憶を喪失してしまったら? 脳死は?

(脳移植についても、一歩先の実験を考えよう。例えば、甲の左脳と乙の右脳を接続したらどうなるだろう。「培養液の中の脳」は、脳が意識の座であることを前提としている。この仮定を突き詰めると、意識は脳の「どこか」にあるはずである。この推論には直感的に違和感を覚える。脳全体が私を形成しているのではないか。恐らくそうであろう。この考えを延長すると、ならばやはり身体全体が私を形成しているのではないか、という問いを生む)

「培養液の中の脳」が生物学的にナンセンスである理由を、もう少し述べる。

中枢および抹消の全ての神経系を摘出し、各末端に電極を繋いで、現実と全く同じ刺激を与えるとどうなるか、というのがこの思考実験の要諦である。「全く同じ刺激」とは何だろうか。例えば視神経に、個体として生存していたときと同一の刺激を与えるには、視神経を網膜に繋ぐしかないように思える。同様に、運動神経は筋肉と、自律神経は内臓と接続されなければならない。となると——、これは最終的に脳移植と同値になる。

(したがって、「無から培養脳を作る」ことも、無から個体を作ることと同義になる)

「私とは生きている私である」は必要条件であると書いた趣旨は、おおよそ以上である。

余談

神経を金属の電極に繋ぐという単純な想像では、培養脳の問題を正しく考えられない。細胞が金属に触れた時点で、それは明らかに異常な刺激となるからである。培養液についても同じである。培養液は血液でも髄液でもない。脳を、生きていたときと同じ状態に保ちたければ、生きていたときと同じ全体性を与えるしかないのである。

だから、中禅寺秋彦の以下の指摘は、ある意味で正しい。

「——脳は鏡だ。機械に繋がれた脳が産み出すのは、脳の持ち主の意識ではなく、繋いだ機械の意識だ」

(京極夏彦『魍魎の匣』)

もう一つ、奇形腫であったピノコについて触れておきたい。

おまえは人間になりそこなった肉体のかけらだ
おれの手で組み立てて人間に仕立ててやるぞ
おまえはさいわい脳から心臓から手足まで全部そろっているんだ
たりない部分はこうして合成繊維でつくってやったこれとあわせれば…………
おまえはりっぱに一人前の肉体に…………
仕上がるはずなんだ!

(手塚治虫『ブラック・ジャック』「畸形嚢腫」)

奇形嚢の中に脳髄しかなく、それをたまたま居合わせた脳死の少女に移植する、というストーリーではピノコという個体、そして個性は生まれ得なかった。ピノコがピノコであるためには、「脳から心臓から手足まで全部そろっている」ことが必須である。そのことを、医師でもある手塚は熟知していたに違いない。

2013/01/15/Tue.

骨格筋と心筋は分裂しないが、平滑筋は分裂する。ここでいう平滑筋は、血管平滑筋を想定している。平滑筋はなぜ増えるのか。それは血管がどんどん伸びていくからで、というよりも、平滑筋が分裂しないと血管も伸びていけないからである。……と思うのだが、真面目に考えたことがないので、実のところよく知らない。

血管新生 angiogenesis では、内皮細胞の増殖あるいは血中の内皮前駆細胞の遊走が先行する。その後、平滑筋が内皮の周囲を支持することで、新生血管は安定する。

また、バイパス手術などによって血管内皮が傷付くと内膜が肥厚して管腔が狭窄するが、主な原因は平滑筋の増殖である。

当然、平滑筋の増殖は内皮とセットで考えねばならない。事実、内皮細胞から放出される種々の因子が平滑筋の分裂に影響することが広く知られている。代表的な分子がエンドセリン endothelin である。エンドセリンは内皮細胞から分泌される、強力な血管収縮作用を持つペプチドだが、平滑筋の増殖を促進する働きもある。試みに "smooth muscle, endothelin" で PubMed を検索すると、四三五七本もの論文が出てくる。

冠動脈が障害されると様々な心疾患が生じる。梗塞や虚血再灌流が起きると、やはりエンドセリンなどの分子が放出されて心筋細胞に作用する。心筋は平滑筋のように分裂しないが、これらのシグナルに対して、肥大や細胞死といった病態に直結する反応を呈する。上と同様に "cardiac muscle, endothelin" で検索すると、二〇二四本の論文が現れる。

ここまでは循環器の研究者にとって常識だが……、それでは、例えばエンドセリンが骨格筋に作用するのかと問われても、大半の人がよく知らないのではないか。少なくとも私は全く知らない。考えたこともなかった。

"skeletal muscle, endothelin" を含む論文は三一二本ある。平滑筋や心筋に比べて一桁少ない。増殖に焦点を絞るなら、骨格筋前駆細胞である衛星細胞 satellite cell が研究対象となるだろう。ところが、"satellite cell, endothelin" の検索結果は、わずか五本である。しかも四本が神経、一本が膵臓の研究で、骨格筋に関する報告ではない。エンドセリンと骨格筋の衛星細胞の関係は、誰も知らないようである。

では、衛星細胞にエンドセリンをブッかけてみよう——、ということには無論ならない。論文数も単なる目安であって、中身を精査したわけではない。要するに、ただの思い付きである。よく調べれば、馬鹿げたアイデアであることがわかるかもしれない。

……上記は、あくまで例である。

研究には、着想ともいえぬ思考の断片が何個も必要なのだと思う。しかし、ほとんどはガラクタである。これらガラクタの見極めと処理をどうするかは、ちょっとした課題である。時間は有限であり、研究費と実験量はさらに限られる。新しい職場では、このことを少し意識してみようと考えている。

2013/01/09/Wed.

俳句は季語を含まねばならない——。この規則は三百数十年前、細い道を歩いていた松尾芭蕉という人が決めたものであり、何ら絶対的なものではない。

したがって俺が、桟俚(さんり)という詩歌を勝手に提唱し、「桟俚は場語(場所を表す語)を含まねばならない」と定義することも可能である。その瞬間に俺は桟俚の家元、桟聖である。

こんな馬鹿なことを考えるのは、赤道直下に住む人々には俳句が作れないからである。

2013/01/06/Sun.

入籍した T です。こんばんは。

生物の化石とされるものが存在する。

ふと思ったのだが——、その化石が、元々は生物であったと考える根拠は何だろう。生物の定義は様々だが、化石という物体がそれらの条件を満たしていないことは明らかである。ではなぜ、それが「生物の」化石だと判断できるのか。

その化石の形状が、現存する生物の形態と同じ特徴を持つから、というのが唯一の理由であるように思われる。乱暴にいうなら、「生物っぽい形をしているから」である。

古生物学者は、何をもって生物の化石を定義しているのか。機会があれば尋ねてみたい。

それにしても、「生物っぽい形」とは何だろう。これは一度よく考えてみる価値がある。

もう一つ気になるのは、我々が、植物も昆虫も哺乳類も等しく生物だと認識できるのは、教育による効果なのではないかという疑念である。我々は、あるモノが生物であるか否かを生得的に判断できるのだろうか。例えば犬は、いつも自分が小便をかける街路樹や電柱について、これは生物である・でないと明確に認識しているのだろうか。

動物にとって重要なのは、それが敵か味方か食物かであって、生物か否かではない。生花と精巧な造花を見分けることは、犬には難しいかもしれない。けれどもミツバチには容易であろう。もちろん人間は生花と造花を区別できるが、さて、幼児ではどうだろう。区別できたとして、いったい何を基準に判断しているのか。我々は、それを明瞭に言語化ないし定式化できるだろうか。

合成したタンパク質やカルシウム、チキン質で作った模型を土中に埋めた場合、未来の古生物学者は、その化石をどのように評価するのだろうか。

2013/01/05/Sat.

絵画教室四十一回目。一枚目の鉛筆画の一回目。モチーフは道具袋(の写真)。

道具袋の写真が実物大より微妙に小さいので、感覚が狂う。いつもより入念にサイズを測り、大体の輪郭を描いていく。布、ビニル、プラスチック、金属と材質が多様なので、その違いが出せるよう、次回から描き込んでいきたい。

夜はイタリア料理屋で晩餐。

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過去の絵画教室

2013/01/01/Tue.


明けましておめでとうございます。

年末までに読了した本を記録しておく。

『金メダル〜』は、トップアスリートの遺伝子を解析するドキュメント。題材は悪くないのだが、この種の本の常として、筆者が勉強不足であり、掘り下げが甘い。海外のサイエンス・ノンフィクションに比べて、随分と見劣りする。

『神の代理人』はローマ法王の列伝。ピオ二世、アレッサンドロ六世、ジュリオ二世、レオーネ十世。

『太陽系〜』は、その探査の歴史に主眼を置いた、比較惑星学の好著。宇宙は大局的に見て均一であるが、局所的には多様性に富んでいる。生命もまた、その diversity の現れの一つと考えられないこともない。

『FBI捜査官〜』では、肉体が「漏らす」非言語的コミュニケーションの解読が説明される。非言語的(ノンバーバル)コミュニケーションとは、手話やジェスチャーといった、能動的なボディ・ランゲージのことではない。日常の何気ない仕草、我々が無意識に動かしてしまう身体の振る舞いのことである。ここから、その人の心理状態を読み解いていく。知見の多くは臨床的・経験的なものだが、脳の活動電位との相関が裏付けられている運動もある。今後の発展が期待される分野である。