- 二〇一二年ノーベル生理学・医学賞

2012/10/09/Tue.二〇一二年ノーベル生理学・医学賞

今年のノーベル生理学・医学賞は山中伸弥博士と John Bertrand Gurdon 博士に贈られた。受賞理由は「成熟した細胞に対してリプログラミングにより万能性を持たせられることの発見 (for the discovery that mature cells can be reprogrammed to become pluripotent)」。

iPS 細胞の研究や、山中先生の素晴らしい人となりについては色々なところで書かれるであろうから、ここでは触れない。おめでとうございますと祝意だけ述べて、別のことを書く。

山中・Gurdon という「抱き合わせ」と受賞理由を見て思うのは、ES 細胞とは何だったのか、ということである。山中因子を含む初期化候補遺伝子の多くは ES 細胞の研究から得られたものである。そもそも、iPS 細胞樹立の目的は「ES 細胞と同じ細胞を作る」ことであった。したがって、iPS 細胞が有用である理由の大半は、ES 細胞が有用な理由でもある。

何が違うのか。ES 細胞の樹立には初期胚の破壊が必要である。ローマ・カトリック教会や(主に米国の)キリスト教原理主義者は、この点を問題視している。二〇〇一年、Bush 米大統領は、ヒト ES 細胞の研究に対する連邦政府からの助成を禁止した。この禁は二〇〇九年に Obama 大統領によって解かれるが、iPS 細胞が樹立されたのは、まさにこの助成禁止期間であった(マウス iPS 細胞が二〇〇六年、ヒト iPS 細胞が翌二〇〇七年)。

この後、iPS 細胞に想を得て、体細胞を別種の体細胞に直接 reprogram する研究が進む。二〇一〇年には iN 細胞(神経)が Stanford 大学から報告されたが、同年には iCM 細胞(心筋)が家田真樹博士、二〇一一年には iHep 細胞(肝臓)が鈴木淳史博士によって樹立されるなど、日本人の活躍が目覚ましい。iPS 細胞の研究にはこのような波及効果もあったのだが、重要なのは、これら i 細胞に必要な因子の多くも、やはり ES 細胞の研究によって見出されたものだということである。

ES 細胞の研究は、二〇〇七年に「胚性幹細胞を用いての、マウスへの特異的な遺伝子改変の導入のための諸発見」という理由でノーベル賞を受けてはいる。何だかモヤモヤするのは、マウスに限定している点と、医療応用への可能性に触れていないからであろう。

ES 細胞はまだ一般に医療応用されていないじゃないか、と言われるかもしれない。しかしそれは iPS 細胞も同じことである。だから iPS 細胞の受賞理由は reprogramming ということになっているのだが、遺伝子を入れただけで細胞が形質転換することは MyoD の研究でもわかっている。大体、MyoD の研究はそれ単独でノーベル賞を授けられてしかるべきなのだが……と思って調べたら、Harold Weintraub 博士は一九九五年に亡くなっていた。なんてこった!

iPS 細胞の研究とその成果は、これまでの医学・生物学にはなかった、ちょっと独特の業績で評価の仕方が難しい(もちろん偉業であることは論を俟たない)。どう考えたら良いのかと思い、あれこれとまとまりのないことを書いた。

一つは、アイデアとは何かということである。ES 細胞がなければ、そもそも iPS 細胞という vision 自体が描けなかったのは間違いない。また、マスター遺伝子という概念がなければ、少数の転写因子を導入してみようという着想も湧かない。そして、細胞が初期化され得るという事実がなければ、それをより人工的に制御してやろうとも思わない。山中先生は、これらのアイデアを見事に統合し、極めて簡単な方法で解決の実例を示した。けれども、なぜ山中因子で iPS 細胞ができるのかという謎はまだほとんど解かれていない。学問には時間がかかる。研究するべきことは山積している。その一方で、応用に向けた技術開発が怒濤の勢いで進んでいる。このあたりの状況も「これまでになかった、ちょっと独特」の感じが強い。政府をはじめ外野の援助と介入が凄まじいのも気になるところである。

そういうことを再考すると、ノーベル賞委員会による受賞理由と人選は、よく練られたものであるようにも思えてくる。