- 夢の国(三)

2012/07/28/Sat.夢の国(三)

先日の日記で「小話や仕掛けを満載した小説を書いてみたい」と書いた。実際に書くかどうかはわからぬ。「わからぬ」などと言っておるうちは書けるわけがないのだが、それでも構想を練るのは楽しい。

大枠のイメージは以下のようなものである。

異世界の物語に対する構造的な興味についてはこれまでに書いてきた。異世界は実験的な仕掛けと相性が良い。自由だからである。その一方で、異世界で好き放題に暴れるよりも、現実に即した世界で文芸的冒険を試みた方が実験効果は高いのではないかとも思う。折衷案として「強い異世界」の採用が考えられる。しかし強い異世界の構築には、いわゆる設定作業——しかも膨大な量の——が必要になる。土台や核となるアイデアが欲しいところだが、それには「夢の国」という妄想が役に立ちそうである。

長い小説というのは、つまるところ「終わらない物語」のことである。これは異世界の物語と相性が良い。世界の広さ・深さは小説の長さとある程度相関する。逆に実験的な仕掛けを施すには長編は不利である。実験というくらいだから、その面白さについては何の保証もない。蓄積されたテクニックもなければ豊富なバリエーションもなく、間が持たない。実験小説のほとんどが短編であるのはそのためである。また、実験には様々な文体の試行も含まれる。一つの長い小説の中で頻繁に文体が変わるのは読んでいて煩わしい。作中作という手法で解決できなくもないが、多くの作中作が登場する必然性をあらかじめ物語の中に組み込んでおかねばならぬ。

「面白さ」というキーワードが出てきた。当然のことだが、書かれるべき小説は実験的であることや異世界の物語であることや長いこと以前に、面白くなければならぬ。この考えは筒井康隆に影響を受けてのものである。彼の『虚構と現実』では、種々の項目についての文学的実験案が縷々述べられた後、次のような一文がある。

そして最後に以上のいずれにも多数読者の興味を終りまで持続させなければならぬという条件が伴うのだが、その多数読者がいったいどの程度の知的水準、または文学的水準を持つ読者なのかは別の項目で考えなければならぬ問題だろう。

(筒井康隆『虚構と現実』「時間」)

「多数読者の興味を終りまで持続させなければならぬ」というのは、要するに「面白くなければダメ」ということである。物語の面白さは大別して二つあるように思われる。粗筋と細部である。

粗筋の面白さを担保する最も簡単な方法は「結末に対する期待」すなわち「秘密の開示」である。探偵小説(犯人は誰か)はその典型であるし、スポーツや戦記といった対戦もの(誰が勝つのか)、それにノンフィクション(事実は何か)など、実に多くの作品がこの構造に依拠している。

「夢の国」の場合、その国が存在する「特異な形状の大陸」という秘密がある。これは夢の国の住人自身にとっての謎でもある。そこで、「この世界はどのような形をしているのか」という興味を物語の駆動軸に使うことができる。このような粗筋さえ用意できれば、細部の面白さを実験的仕掛けによって演出するという冒険(これこそが最もやりたいことである)を敢行できる。

『吾輩は猫である』は細部の面白さに充ち満ちた小説だが、その知名度ほどには読まれていない。物語の主題となる興趣がないからである。粗筋がないから『猫』の何たるかを他者に説明することは難しい。あるいは退屈な場面に出くわしたとき、そこを我慢して読み進める動機に乏しい。このような作品は現代では受容され難いのである。

(粗筋があることと「終わらない物語」であることの関係については別に考えねばなるまい)

さて、それでは「粗筋のある『猫』」は面白いのだろうか。自信をもって答えることができない。前途は多難なようである。