- 段落の行頭

2012/07/27/Fri.段落の行頭

この日記も以前は段落の行頭一文字を下げて書いていた。そうするものだと学校で習ったからである。ちなみに段落という言葉は行頭が下がったその様に由来している。

なぜ行頭を下げるのか。段落の始まりを明示するためである。従来の印刷物では段落間に行間がなかったのでそのような工夫が必要であった。ところが HTML/CSS による記述では慣行的に段落を一つのまとまりとして表示する。行頭を下げなくとも段落を容易に視認できるのである。行頭を下げることは段落の必要条件ではない——そう考えてこの日記では一文字下げることを止めた。随分と前のことである。どうでも良いことではあるが理由のあることなので記録しておく。

筒井康隆に『句点と読点』という短文がある。昔の日本語には句点も読点もなかった。句読点は必ず打たねばならぬものでもあるまい。むしろ変なところに(ただしある規則をもって)打ってやろうかという文章である。

この文章は。と、に関する極めて短い考察であるそもそも昔は。も、もなかったそうであるそれどころか濁点半濁点すらなく改行もあまりしなかったそうでそうしたことから考えるに昔の人は現代人よりも文章の読解力にすぐれていたと言えそうだ

(筒井康隆『句点と読点』)

句点はともかく読点がなくとも別段困ることはない。実際に今日の日記も読点なしで書いている。

筒井のアイデアを拡張すると句点や読点が。や、の形である必然性もなくなる。全く異なる記号でも良いのではないか。絵文字は既にそのような使われ方をしている。そう考えると感嘆符!音符♪などは絵文字の走狗といえなくもない。

そして昔は句点も読点もなかったということより重要なのは誰かが句読点を作り今やその使用が当たり前になっているという事実である。台詞を「」で括ることや複数の事柄を・で区切ることなどを誰が始めてどのように普及していったのかも謎である。

改めて考えてみるといずれの記号も初めて登場したときがあったはずであり現代の我々が新しい記号の新しい使い方を試すことに何ら問題のあろうはずもない。遠慮する理由など毫もないのである。もっともっと遊ばねばならぬと思う。