- Happy writing

2012/07/10/Tue.Happy writing

僕が文中で英単語を使うときの基準については以前に書いた。その中で最も微妙なものが、「適切に対応する日本語がない場合」である。訳語がない場合は問題ない。英語で書けばよろしい。困るのは、訳語と原語のニュアンスが一致しないときである。簡単な単語ほど、意外と使い辛かったりする。

例えば happy という言葉がある。日本語では「幸せ」などと訳される。「ハッピー」というカタカナも定着している。改めて考えてみよう。Happy = 幸せなのだろうか。どうも違うように思う。幸せはいかんせん「重い」のである。「幸せになりたい」という単純な文章からは、なぜだか悲愴感すら漂ってくる。日本語の業といっても良いだろう。

だからこそハッピーというカタカナが「幸せ」とは別に使われているのだともいえる。では happy = ハッピーなのだろうか。これまた異なるように感じる。ハッピーはどうも胡散臭いのである。「あなたの毎日にハッピーを」などという Apple のコピーめいた使い方には寒気すら覚える(断っておくが僕の Apple 歴は十五年以上であり、その上で Apple は気持ち悪いと常々思っている)。

というわけで、やはり happy は "happy" と書きたい、というのが僕の感想である。一方、僕は、僕が理想とする「happy という概念」を、英語の happy という言葉に託しているだけという可能性もある。なぜなら僕は本当の英語を知らないからである。Happy という単語が、僕が思っているようなニュアンスで実際に英語圏で使われているかはわからない。

Happy もそうだが、enjoy や exciting など、僕が僕の生活の中で実践したいと思う有様は、英語の方がよく表現できるような気がずっとしている。日本語は素晴らしい言語だが、ときに辛かったり重かったりすることがあり、しかもそれは不可避的というか、自動的にそうなってしまうところがあって、この呪縛に対する抵抗は長年の課題である(わかりやすい例は歌詞である。日本語のどうしようもない自然発生的な湿気を端的に表現している一群といえる)。

僕にとって大きな救いとなっているもう一つの言語体系は関西弁である。例えば「面白い」という言葉、これにも疲れを感じるときがある。「面白さを追求する」などと言われた日には、勘弁してくれと言いたくなる。やっぱり「おもろい」の軽やかさが僕には好ましい。おもろかったらええやん、ではいけないのだろうか。おもろいは exciting に通じる点もあるなど、僕が文章を書く上で、関西弁は英語のような代替言語の一面も併せ持つ。

僕はこの日記で色々な文体実験を間歇的に行ってきたが、関西弁での本格的な記述はしたことがない。Native だからこそ感じる難しさは確かに存在する(どこまで一般的に通じるのだろうかという不安や、逆に、自分の意識が制御しにくくなるのではないかといった恐れ、などである)。しかし、一度はやってみるべきことなのかもしれない。僕が使っているのは僕語であり、日本語や関西弁や英語の分別は実のところ大した意味を持たない。——という、ある種の開き直りも必要なのではないか。