- Diary 2012/07

2012/07/29/Sun.

出歩くことも多い休日は、日誌式の記述を試すのに良いかなと思う。

二十八日(土)猛暑快晴。九時、クリーニング、麦酒、『New スーパーマリオブラザース 2』。十五時、クッパ撃破、コイン一万三千枚。十八時、パスタ、麦酒。二十一時、"The Dark Knight Rises"、前作に比して緊密性・必然性を欠く物語に三十分で退屈を覚える、映像は良い。

二十九日(日)猛暑快晴。十二時、十三日に更新申請した旅券の受取、手数料一万六千円也。十三時、鱧天丼、蕎麦、麦酒。十四時、LEGO 展、再現された世界文化遺産の建築物が一堂に会す様は偉観。帰宅、麦酒。"Do Me" いわゆるヒゲダンスの楽曲に合わせて drumming、一周三十分のループを三周、腕は疲れるも大変愉快。深更、『New スーパーマリオブラザース 2』裏面を clear、コイン四万枚。

2012/07/28/Sat.

先日の日記で「小話や仕掛けを満載した小説を書いてみたい」と書いた。実際に書くかどうかはわからぬ。「わからぬ」などと言っておるうちは書けるわけがないのだが、それでも構想を練るのは楽しい。

大枠のイメージは以下のようなものである。

異世界の物語に対する構造的な興味についてはこれまでに書いてきた。異世界は実験的な仕掛けと相性が良い。自由だからである。その一方で、異世界で好き放題に暴れるよりも、現実に即した世界で文芸的冒険を試みた方が実験効果は高いのではないかとも思う。折衷案として「強い異世界」の採用が考えられる。しかし強い異世界の構築には、いわゆる設定作業——しかも膨大な量の——が必要になる。土台や核となるアイデアが欲しいところだが、それには「夢の国」という妄想が役に立ちそうである。

長い小説というのは、つまるところ「終わらない物語」のことである。これは異世界の物語と相性が良い。世界の広さ・深さは小説の長さとある程度相関する。逆に実験的な仕掛けを施すには長編は不利である。実験というくらいだから、その面白さについては何の保証もない。蓄積されたテクニックもなければ豊富なバリエーションもなく、間が持たない。実験小説のほとんどが短編であるのはそのためである。また、実験には様々な文体の試行も含まれる。一つの長い小説の中で頻繁に文体が変わるのは読んでいて煩わしい。作中作という手法で解決できなくもないが、多くの作中作が登場する必然性をあらかじめ物語の中に組み込んでおかねばならぬ。

「面白さ」というキーワードが出てきた。当然のことだが、書かれるべき小説は実験的であることや異世界の物語であることや長いこと以前に、面白くなければならぬ。この考えは筒井康隆に影響を受けてのものである。彼の『虚構と現実』では、種々の項目についての文学的実験案が縷々述べられた後、次のような一文がある。

そして最後に以上のいずれにも多数読者の興味を終りまで持続させなければならぬという条件が伴うのだが、その多数読者がいったいどの程度の知的水準、または文学的水準を持つ読者なのかは別の項目で考えなければならぬ問題だろう。

(筒井康隆『虚構と現実』「時間」)

「多数読者の興味を終りまで持続させなければならぬ」というのは、要するに「面白くなければダメ」ということである。物語の面白さは大別して二つあるように思われる。粗筋と細部である。

粗筋の面白さを担保する最も簡単な方法は「結末に対する期待」すなわち「秘密の開示」である。探偵小説(犯人は誰か)はその典型であるし、スポーツや戦記といった対戦もの(誰が勝つのか)、それにノンフィクション(事実は何か)など、実に多くの作品がこの構造に依拠している。

「夢の国」の場合、その国が存在する「特異な形状の大陸」という秘密がある。これは夢の国の住人自身にとっての謎でもある。そこで、「この世界はどのような形をしているのか」という興味を物語の駆動軸に使うことができる。このような粗筋さえ用意できれば、細部の面白さを実験的仕掛けによって演出するという冒険(これこそが最もやりたいことである)を敢行できる。

『吾輩は猫である』は細部の面白さに充ち満ちた小説だが、その知名度ほどには読まれていない。物語の主題となる興趣がないからである。粗筋がないから『猫』の何たるかを他者に説明することは難しい。あるいは退屈な場面に出くわしたとき、そこを我慢して読み進める動機に乏しい。このような作品は現代では受容され難いのである。

(粗筋があることと「終わらない物語」であることの関係については別に考えねばなるまい)

さて、それでは「粗筋のある『猫』」は面白いのだろうか。自信をもって答えることができない。前途は多難なようである。

2012/07/27/Fri.

この日記も以前は段落の行頭一文字を下げて書いていた。そうするものだと学校で習ったからである。ちなみに段落という言葉は行頭が下がったその様に由来している。

なぜ行頭を下げるのか。段落の始まりを明示するためである。従来の印刷物では段落間に行間がなかったのでそのような工夫が必要であった。ところが HTML/CSS による記述では慣行的に段落を一つのまとまりとして表示する。行頭を下げなくとも段落を容易に視認できるのである。行頭を下げることは段落の必要条件ではない——そう考えてこの日記では一文字下げることを止めた。随分と前のことである。どうでも良いことではあるが理由のあることなので記録しておく。

筒井康隆に『句点と読点』という短文がある。昔の日本語には句点も読点もなかった。句読点は必ず打たねばならぬものでもあるまい。むしろ変なところに(ただしある規則をもって)打ってやろうかという文章である。

この文章は。と、に関する極めて短い考察であるそもそも昔は。も、もなかったそうであるそれどころか濁点半濁点すらなく改行もあまりしなかったそうでそうしたことから考えるに昔の人は現代人よりも文章の読解力にすぐれていたと言えそうだ

(筒井康隆『句点と読点』)

句点はともかく読点がなくとも別段困ることはない。実際に今日の日記も読点なしで書いている。

筒井のアイデアを拡張すると句点や読点が。や、の形である必然性もなくなる。全く異なる記号でも良いのではないか。絵文字は既にそのような使われ方をしている。そう考えると感嘆符!音符♪などは絵文字の走狗といえなくもない。

そして昔は句点も読点もなかったということより重要なのは誰かが句読点を作り今やその使用が当たり前になっているという事実である。台詞を「」で括ることや複数の事柄を・で区切ることなどを誰が始めてどのように普及していったのかも謎である。

改めて考えてみるといずれの記号も初めて登場したときがあったはずであり現代の我々が新しい記号の新しい使い方を試すことに何ら問題のあろうはずもない。遠慮する理由など毫もないのである。もっともっと遊ばねばならぬと思う。

2012/07/26/Thu.

空海伝説というものが各地にある。「この温泉は弘法大師が見付けた」「いろは歌は空海が作った」などである。大抵は事実ではない、とされる。平たくいえば嘘である。そんな山奥にまでお大師様は来ないし、何でもかんでも発明したわけではない。高野山のような秘境に寺を建てるはずはなく、真言のようなマジナイを唱えるわけもない。

もちろん冗談だが、金剛峰寺開山が真実で温泉発見が嘘であることを説明するのは、意外に難しい。また、真偽の腑分けは学問的に重要であるが、いささか窮屈に感じることもある。世の論文を全て頭から信じることができればどれほど幸せだろうか、自分の生活を顧みてそう思う。もっと大らかな世界で遊びたいという欲求は止むことがない。

全部本当なのではないか。空海ってスゲエ、俺はそう思いたい。何だか寺生まれの T さんみたいだが、残念ながら空海は寺生まれではない。

もう少し一般化して、さらに妄想してみよう。

全体を見渡せば、どう考えても物理的に嘘であることが必定の逸話群がある。一方、個々の逸話の信憑性は非常に高いとする。このとき、人はどのような判断を下すだろう。彼の超人的な活動を認めるだろうか。こんなに活躍する彼は凄い、となるかもしれない。そんな彼だからきっとこんなことも……、という具合に新たな逸話が増える可能性すらある。彼が伝説的な英雄であった場合、逸話群が彼の実在性を疑わせるといった逆転現象が起きても不思議ではない。

ちょっと面白いな、と思う。

話は飛ぶ。

これまで、この日記に様々な妄想を書きつけてきた。言語に関係するもの、言語で表現可能なものが多い(文章で書いているのだから当然だが)。真面目な考察もあるが、大抵はふざけたものである。今日の空海伝説もその範疇にある。このような小話や仕掛けを満載した小説を書いてみたいな、と夢想することが多くなった。本当は書くのではなく読みたいのだが、そんな小説はないので自分で書くしかない。

2012/07/22/Sun.

十時半起床、煙草、缶珈琲、行水。十二時、ハンバーガー、冷珈琲。その後服屋、本屋。十五時四十分より按摩一時間、通常四千数百円のところ誕生日の由で三千数百円也。十八時より研究室にて細胞播種。十九時帰宅、弁当、缶麦酒。日高義樹『ホワイトハウス』読了、一九七四年の著作なりしが米国大統領の権勢の実態あるいは米国開闢期における権能趨勢の歴史的考察は興味深し。

——このような記述の効能は、簡潔であることを強いると同時に、曖昧な主観の混入を拒むことによって、日本人(というか日本語)が不得手とする客観性や定量性、すなわち記録としての信頼性を高める点にある。この種の記述が漢文調であることに留意しよう。つまり我々は、文章を明晰にしようとしたとき、母語ではなく中国語を恃んだのである。

(今では漢文を書くこともなくなったが、代わりに各分野で英語が用いられている。同じことである)

十七条憲法以来、日本の法律は漢文(調)で記されている。和語を基調とした初めての法律は日本国憲法ではなかろうか。この憲法がフニャフニャしているのは、その文言云々よりも、単なる日本語の特性ではないかとすら俺は疑っている。

読書日記

2012/07/21/Sat.

絵画教室三十回目。五枚目の水彩画の四回目。モチーフは寿司(の写真)。

下描きを終え、下塗を始めたところで本日は終了。「頑張って十月の生徒展に出しましょう」とはアシスタント嬢の言だが、八月と九月の四回(八時間)で彩色が完了するとは考えられない。年内に仕上がれば良いかなと私は思っている。

夜は呑み屋で晩餐。雑居ビルの二階にある小さな店に突撃してみた。こういう場所に一見で踏み込むのは躊躇を伴うものだが、良い店に当たったらしく、くつろいで食事を楽しむことができた。たまには開拓者精神を発揮しないと、行動範囲が知らず限られていく。広い世界に棲みたいものである。

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2012/07/14/Sat.

先週末に購入した電子ドラム(YAMAHA, DTX520K)が届いたので、早速叩きまくっている。メチャクチャ楽しい。

YAMAHA DTX520K

電子ドラムは YAMAHA より Roland、というのが定説のようである。実際にショップで検分したときも、 Roland の音の良さに感動した。しかし、学生時代に XJR を乗り回していた俺には YAMAHA に対する親しみがあったこと、たまたま来店していた YAMAHA のドラム担当の方に色々と話を伺えたこと、ちょうど YAMAHA が電子ドラムのキャンペーンを行っていたこと……などに縁を感じて YAMAHA を選んだ。しょせん偶然といえば偶然だが、大抵のことは——我々が生まれ落ちたことさえ——偶然に過ぎない。偶然に意味を与える行為こそが生きることだともいえる。何であれ縁を感じることができれば人生は豊穰になるだろう。

全く経験がなかったとはいえ、それにしてもドラムは難しい。叩けば音は出る。この点に限ればギターよりはよほど簡単である。しかしリズムを刻むこと、そして維持することが想像していた以上に難しい。購入した電子ドラムには音ゲーのような練習モード(メトロノームに合わせて叩けば音が出る。テンポがズレると音が出ない)があるのだが、テンポ 90 の四分音符を叩くことすらままならない。道は遠い。というか遠過ぎる。

ギターを始めたとき、F が押さえられず泣きそうになったことを思い出した。頑張って練習しようと思う。

2012/07/10/Tue.

僕が文中で英単語を使うときの基準については以前に書いた。その中で最も微妙なものが、「適切に対応する日本語がない場合」である。訳語がない場合は問題ない。英語で書けばよろしい。困るのは、訳語と原語のニュアンスが一致しないときである。簡単な単語ほど、意外と使い辛かったりする。

例えば happy という言葉がある。日本語では「幸せ」などと訳される。「ハッピー」というカタカナも定着している。改めて考えてみよう。Happy = 幸せなのだろうか。どうも違うように思う。幸せはいかんせん「重い」のである。「幸せになりたい」という単純な文章からは、なぜだか悲愴感すら漂ってくる。日本語の業といっても良いだろう。

だからこそハッピーというカタカナが「幸せ」とは別に使われているのだともいえる。では happy = ハッピーなのだろうか。これまた異なるように感じる。ハッピーはどうも胡散臭いのである。「あなたの毎日にハッピーを」などという Apple のコピーめいた使い方には寒気すら覚える(断っておくが僕の Apple 歴は十五年以上であり、その上で Apple は気持ち悪いと常々思っている)。

というわけで、やはり happy は "happy" と書きたい、というのが僕の感想である。一方、僕は、僕が理想とする「happy という概念」を、英語の happy という言葉に託しているだけという可能性もある。なぜなら僕は本当の英語を知らないからである。Happy という単語が、僕が思っているようなニュアンスで実際に英語圏で使われているかはわからない。

Happy もそうだが、enjoy や exciting など、僕が僕の生活の中で実践したいと思う有様は、英語の方がよく表現できるような気がずっとしている。日本語は素晴らしい言語だが、ときに辛かったり重かったりすることがあり、しかもそれは不可避的というか、自動的にそうなってしまうところがあって、この呪縛に対する抵抗は長年の課題である(わかりやすい例は歌詞である。日本語のどうしようもない自然発生的な湿気を端的に表現している一群といえる)。

僕にとって大きな救いとなっているもう一つの言語体系は関西弁である。例えば「面白い」という言葉、これにも疲れを感じるときがある。「面白さを追求する」などと言われた日には、勘弁してくれと言いたくなる。やっぱり「おもろい」の軽やかさが僕には好ましい。おもろかったらええやん、ではいけないのだろうか。おもろいは exciting に通じる点もあるなど、僕が文章を書く上で、関西弁は英語のような代替言語の一面も併せ持つ。

僕はこの日記で色々な文体実験を間歇的に行ってきたが、関西弁での本格的な記述はしたことがない。Native だからこそ感じる難しさは確かに存在する(どこまで一般的に通じるのだろうかという不安や、逆に、自分の意識が制御しにくくなるのではないかといった恐れ、などである)。しかし、一度はやってみるべきことなのかもしれない。僕が使っているのは僕語であり、日本語や関西弁や英語の分別は実のところ大した意味を持たない。——という、ある種の開き直りも必要なのではないか。

2012/07/07/Sat.

絵画教室二十九回目。五枚目の水彩画の三回目。モチーフは寿司(の写真)。

前回、前々回に引き続き、鉛筆での下書き。寿司と背景を描き込んで、ほぼ完成した。次回は余計な線を消して、下塗りから始めることとなる。

夜はイタリア料理屋で晩餐。

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