- 十周年

2012/04/08/Sun.十周年

この日記も十周年を迎えた。よく続いたものだと思う。

先日、研究補助員女史とお話しする機会があった。高校生の長男氏が本好きだという。私は、それなら文章も書いてみたら良いでしょう、とお伝えした。あれを読めこれを読め、というのは余計なお節介だと私は思っている。大して本を読まない人ほど、たまたま自分が読んだ本を無闇に推薦してくる。

私が唯一、若い読書家に奨められるのは、文章を書くことの効能である。私が文章を書き始めたのは十八歳のときで、以来、二十代を挟んで、今年で三十二歳になる。この間に、人格も随分と変化した。核となる性格は変わっていないように思うものの、幾分と柔らかくなったり尖ったりした部分はある。その理由は様々だが、文章を書くことで変容した割合は無視できない。

数年前の自分の写真を見て、恥ずかしくなったことはないだろうか。当時は格好良いと信じて疑わなかった服装や髪型、あるいは仕草や所作などがみっともなくて仕方がない、いかに自分が浅はかであったかを思い知る……。全く同じことが、書き溜めた文章を読み返したときに起こる。

写真が映し出すのはせいぜい外見であるが、文章には自分の内面——中でも醜い箇所——が色濃く反映される。もっとも、一所懸命に書いている間は、なかなか気付くことができない。時間が経ち、書いたことを忘れた頃に読み返してみて、初めてわかる。しかし一度わかってしまえば、徐々にではあるが、冷静に文章が書けるようになる。何より重要なのは、文章を鍛練する過程で、それを書く自分の品性もまた錬磨されるということである。

自分自身を見つめる、その姿を受け容れる、そして望む方向に変えていく。このような attitude は後々の人生できっと役に立つと私は信じる。

文章を書くことによって生じる循環が一般的なものかどうか、私は知らない(例えば、本を読まない人がいくら文章を書いても無駄であろう)。しかし、まだ naive で、受容と変容に大きな余地が残されている若い読書家には、より大きな効果が期待できるだろう、ということは予測できる。それで、このようなことを書いた。

文芸作品を除くと、いわゆる本というものは、自分よりも若い人や未熟な人のために書かれたものが多い。考えてみれば、自分よりも知識があり思慮深く高潔な人間に対して書くことなど何もない。だから今日は、勇を振るって少し偉そうなことを書いた。

この数年間、私はほぼ私のためだけに日記を書いてきた。十周年を機に、もう少し「読まれる」ことを意識してみるのも良いかもしれない。