- ウサギとカメ

2012/03/11/Sun.ウサギとカメ

少し前に「より良く生きること」について幾ばくかの考察をした。より良く生きることは、例えば幸福と関係があるのだろうか。そもそも幸福とは何か。そして、幸福を目指さなければならないとしたら、それは不自由ではないのだろうか。

人が天稟や天分を備えているというのは本当だろうか。就職活動などで幾度となく問われる適性なるものは存在するのだろうか。自分に何らかの適性があるとして、それを活かさねばならぬのだろうか。適性と嗜好が異なる場合はどうすれば良いのだろう。ただ金銭を稼ぐためだけの仕事に、自らの適性を発揮せねばならぬのは幸福なのだろうか。あるいは、適性を発揮せねば仕事にすらありつけぬというのであれば、その社会は極めて貧しいのではないだろうか。

『アリとキリギリス』の寓話は何を意味しているのだろうか。確かにアリは堅実だが、はたして幸福なのだろうか。この童話は基本的にキリギリス目線で語られる。アリ目線で見るといかなる景色が広がるのだろうか。寡聞にして聞いたことがない。

同じことが『ウサギとカメ』にも言える。私は学童の頃に、この話を何度となく父親から聞かされた。父は私をウサギになぞらえる、すなわちウサギ目線で物語る。私はそのことに何の違和感も覚えなかったが、もしかして、学校の勉強があまり得意ではない子供の家庭では、カメ目線による『ウサギとカメ』が語られていたのだろうか。そんなことがあるのだろうか。最近になってふと思う。

カメが勝利した究極の理由は、ウサギが失策を犯したからである。カメはコツコツと努力をしたかもしれないが、それだけでは絶対にウサギには勝てなかった。ここから汲み取れる教訓は、「努力するのは当たり前、その上で思いもかけない僥倖が訪れない限り、カメに勝利はない」である。こんな話を勉強や運動が苦手な子供にできるだろうか。できはしまい。ということは、『ウサギとカメ』はもっぱらウサギ用の童話ということになる。この無意識な視点が恐ろしい。不特定多数が集まる学校のような場所では、むしろ話してはいけない類の寓話なのではないか。

幸福の対語に不幸がある。幸福でなければ不幸なのだろうか。これは私が常々疑問に思っている「得と損」の関係についてもいえる。

言うまでもないことを書くのは、「得なことをしないのは損だ」という風潮が蔓延しているからである。「得なことをしない」のは「損」ではなく「得ではない」だけである。どうして「損」になるのか。いったい誰が「損」をするのか。

「保険と賭博」

まさに「放っておいてくれ」の一言である。幸福や適性といった概念は、他者と共有された価値観の中に存在する(と思われている)から、このような干渉が生じる。

私は、「より良く生きること」は「私と世界が一対一で対峙することに他ならない」と書いた。そこには共有可能な価値も尺度もない。このことは「自由であること」と密接に関係しているように思われる。自由についてはまた時間をかけて考えねばならない。

ところで、ウサギとカメの競走のゴールは山頂だったと記憶しているが、カメは帰るのが大変だったのではないか。干からびず無事に生き長らえることができただろうか。もっといえば、ウサギに足の遅さを揶揄されたカメは、どうして泳ぎの上手さや甲羅の硬さ、寿命の長さを誇ることができなかったのだろうか。そしてそもそも——、ウサギはなぜカメの鈍足を嘲笑う必要があったのか。

このような馬鹿馬鹿しい騒ぎは、自己と他者を比較しなければ生じなかったといえる。そのことに気付けば、およそ全ての優越感ゲームが無駄であることがわかるだろう。キリギリスも、アリと比較するから惨めなのであって、ただ独り自分を顧みるだけなら、好き勝手で楽しい一生だったと思うかもしれない。