- 殺して喰らう

2012/03/01/Thu.殺して喰らう

今年度、私が実験に使用したマウスは三百匹弱ほどになる。その他に、遺伝子型がハズレの個体や、安楽死させた老齢個体を含めると、処分したマウスは五百匹を下らないのではないか(今、手元に資料がないだけで、精確な数字はもちろん把握しており、規定を遵守して報告している)。

先日行われた実験動物慰霊祭では、この一年間で、数万匹のマウスを中心に多くの動物が研究所で使用されたことを知った。これだけの数を改めて前にすると、深く思うこともある。実験動物の倫理問題については、動物を使用し始めた頃に少し考えたことがある。要諦は「動物愛護といっても所詮人間のエゴである。しかし我々はそれを無視できない」である。かなり粗削りな議論だが、基本的な認識は今も変わっていない。私は研究者として実験動物を使わざるを得ないし、同時に、一人の人間として開き直ることもできない。だが、ときに割り切れない想いを抱えて悶々とするところにこそ、学ぶべき点がある。

動物愛護のガイドラインについては、前述の日記に面白いことも書いてある。「我々は指針を手にすることによって、何となく安心する。ただ、ただそれだけのためのガイドラインなのである」。裏を返せば、実験動物を使用する際に、我々は不安を抱えているのだといえる。少なくとも私は不安である。動物を処分、否、殺すときには今なお躊躇いを覚える。この感覚は大切にしたい。平気でマウスを殺すようになったらこの仕事は辞めようとも決めている。何のための生物学かを考えれば当然の結論だと思う。

さて、先週からラットの解剖を手伝っている。ラットというのはいわゆるドブネズミで、マウス=ハツカネズミよりも体重で十倍、体長で三倍ほど大きい。これには長所も短所もある。サイズが大きいので、手術や解剖などの細かな手技が容易になる一方、飼育に労力と空間と金銭を要する。

実験をすれば腹が減る。腹が減れば飯を食うわけだが、ラットの解剖後にはどうにも食欲が湧かないことに気が付いた。マウスではこのようなことがない。単純に、ラットの大きさが鶏などの見慣れた食材に近く、それで肉を口にすることができなくなっているのである。ガラにもない話だが、今回は特に匹数が多いので仕方がない。

私は、昼間に特定の映像を凝視すると夜にはそれが夢に出てくる。ゲームに熱中しているときにはその画面が、論文を書いているときには Word のウィンドウが出てくる。この一週間はラットの内臓が瞼の裏に出てくるので往生した。マウスの場合、手術台や周囲の解剖器具なども景色として映るのだが、サイズの大きなラットでは視野のほぼ全体が内臓になってしまう。夢の中で灌流をしながら、なかなか腎臓の血が抜けないなァなどと思っているのだから、食欲の湧こうはずもない。しかるに空腹感は増す一方である。

肉気がなくて美味いものはないかと考え、今週末はうどんすきを食べることにしたが、困ったことに解剖は来週も続くのである。他には……、湯豆腐くらいか。しかし大阪に湯豆腐屋なんてあるのだろうか。豆腐のために京都まで遠征するのはさすがに疲れる。

それにしても——、とまた考えてしまうのだが、食事といえども他者の生命を奪っていることに変わりはなく、肉は嫌だが饂飩や豆腐なら食べたいというのもまた勝手な話である。思えば思うほどに至極勝手である。この問題を考え続けると、自己嫌悪に陥るか拒食症を患うか発狂するかしかなくなるので、さすがにもう止めるしかないのだが、自分が「勝手である」ということだけはたまに思い出しても良い。

漫然と口に物を運ぶな
何を前にし——何を食べているのかを意識しろ
それが命喰う者に課せられた責任——義務と知れ

(板垣恵介『範馬刃牙』)

普段意識しないことだからこそ、一年に一度くらい、真面目に考える価値はある。