- Diary 2012/03

2012/03/31/Sat.

絵画教室のアシスタント嬢が出品している絵画展に行ってきた。いわゆる現代美術——この語がいったい何を指すのか、実のところ俺にはよくわからないのだが——の作品展で、数人の作家の絵が十数点展示されていた。アシスタント嬢も来場していたので、少し言葉を交わす時間があった。

しばらくすると、キュレーターと学芸員のトークショーが始まった。学芸員嬢のリードで、俺を含めた鑑賞者、我らがアシスタント嬢、同じく作品を出している若い男性画家、そして展示会のスタッフを交えた、作品に関するトークが展開された。

一時間以上に及んだ滞在でわかったことは、「わからん」ということであった。これまでも「わからん」とは思っていたが、それでも作品を生で観たり、その種の芸術が好きな人々に会ったり、学芸員の解説を聞いたり(だからわざわざトークショーが開催される時間に赴いたのだ)、ましてや作家本人から直接に話を伺ったりすれば、何かが「わかる」のではないかという期待があった。しかし、それは全くの幻想であることがよくわかった。

無論、何かを否定しているわけではない。「俺にとってはそういうもの」であることがわかった、というだけのことである。わからないことに不安を抱いたり、わかろうと努力したり、わかったふりに陥ったりする恐れがなくなったということで、随分とすっきりとした。

展示してある作品に心惹かれるものはなかったが、それでもアシスタント嬢の絵は面白く観賞できた。なぜなら、俺は彼女を知っているからである。結局、この種の作品を俺が楽しめる唯一の方法は、作家を通しての観賞、すなわち「この人がこういう作品を創っているのだ」という視線だけなのかもしれないとも思った。

科学を仕事にしていると、わからない事物に対して反射的な引っ掛かりを覚えてしまう。わかろう、わかりたいと思うし、もっというなら「わかるはずだ」と無意識に前提してしまいがちである。だから、どうあってもわからないことや、わかることに意味がないことには、反撥や嫌悪といった感情が湧いてきやすい。だが、これもまた極端な反応であるのだろう。

そういうことを考える機会を得たという点では、収穫のある一日であった。

2012/03/30/Fri.

「次回の日記では、僕が夢で見た国の話を書こうと思う」と書いてから半年近くも経っていることに驚いている。もっと最近のことだと思っていた。というのも、今日まで頻繁に「夢で見た国」のことを考えていたからである。

その国——というより、真に unique なのはその国が存在する大陸なのだが——について妄想を働かせている間に、それを触媒する二つの出会いがあった。一つはジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』 であり、もう一つは Skyrim である。前者はその国が発展していく歴史について、後者はその国と人々の文化について、それぞれ想いを巡らす機会を提供してくれた。

私がまず考えていたのは、特異な形状のその大陸が、実際に生じ得るのかどうか、そして形成されるのなら、どのような自然地理(地形・天候・生物)を有するのかであった。地学に疎いので SF 的な説明しかできないが、それでも「こうなるであろう」という演繹を繰り返すうちに、やがて奇妙な光景が顕れてくるから面白い。

一つ例を挙げる。その大陸は、中央部に巨大な湖ないし内海を抱えているはずである。内海は河と繋がっているが、この河は不定期ながらも周期的に「逆流」する。すなわち水は、あるときは河から内海に流れ、あるときは内海から河に流れる。このような水流は周辺の地を肥沃な沖積平野とし、それこそナイル川ではないが、農耕社会の発祥地としての役割が期待される。内海と接続している河川は複数あるはずであり、同時多発的に文明が発展する可能性も充分にある。

これらの河を眺めながら暮らす人々は何を想うだろう。内海に入り、また逆に内海から出ていく水の流れから連想されるのは、心臓を中心とする循環器系である。生理学を知らなくとも、心臓が重要な臓器であることは誰にでもわかる。河の間近で生活する彼らの間に心臓信仰が生じたとしても不思議ではない。

別の理由から彼らは、彼らの住まう大地が「天から落ちてきた」という創世神話を語り継いでいるはずである。この大地は内海=心臓を持っていることから、天から落ちてきたというよりは「産み落とされた」と理解することもできる。また一般的に、大地は「生きている」と解釈されているであろうことは想像に難くない。このような世界観は、彼らの間に発生するであろう宗教に大きな影響を与えるはずである。

その国の人々全てがその大陸の特異な形状を初めて認識するのはいつであろう。それは恐らく、大陸全土が一つの国家によって統一されたときである。ここで思うのは、その国の地理誌の発展は、その国そのものの発展(主に膨張)の歴史とほぼ同義であるということである。日本人にとっての日本列島は、ときの政府が支配していた範囲に他ならない。だからイザナギとイザナミは北海道を産んでいないし、間宮林蔵が調査するまで樺太が島であることもわからなかった(ちなみに間宮海峡は日本人の名が地理に冠せられた唯一の例である)。

したがって、大陸に住まう人々がその大陸の地理を把握していく過程は、その大陸が一つの国によって統一されていく過程、あるいは大陸を分割する複数の国々の間で比較的平和裏に交流が行われていく過程に転化できる。大陸の地理を、それが理解されていく時間的経過に従って叙述すると、それは同時に大陸の歴史にもなり得る。——ということを考えた人がその国に出現したとしてもおかしくはない。

彼が書いた地歴史を読んだ者は、当然の疑問を覚える。この大陸はいかに形成されたか、そして、この大陸の外の世界はどうなっているのか。冒険の物語がこのあたりから始まってもおかしくない。それは単純な探検であるばかりでなく、知識欲求の旅でもある。科学技術の推進や哲学的な問い掛けも含まれるであろう。それらを正しく描写するには、彼らがその時点で持つおよそ全ての社会構造をあらかじめ決めておかなければならぬ。……ということで、妄想もこのあたりで頓挫している。

2012/03/17/Sat.

絵画教室二十二回目。四枚目の水彩画の二回目。モチーフは熱帯魚(の写真)。

下書きを終えて背景から彩色を始める。面積が広いので刷毛や幅広の筆で塗るのだが、とにかく筆跡が残るのが気持ち悪い。顔料と水の配分、筆に含ませる絵具の量も塩梅がわからぬ。色々と試行錯誤している内に画面が汚くなってしまい、完全にやる気が失せた。

文章でもプログラムでもそうなのだが、自分の場合、このような自体に陥ってしまったときは一からやり直すことが多い。その方が早いし、気分も良いことを経験的に知っている。とはいえ、教室でそのようなわがままを言うのは憚られる。次回以降、画用紙をビリビリに破いてしまいたい衝動と闘いながら描いていかねばなるまい。これも修業である。

果たして完成させることができるのか、はなはだ心許ない。

夜はイタリア料理屋で晩餐。

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過去の絵画教室

2012/03/11/Sun.

少し前に「より良く生きること」について幾ばくかの考察をした。より良く生きることは、例えば幸福と関係があるのだろうか。そもそも幸福とは何か。そして、幸福を目指さなければならないとしたら、それは不自由ではないのだろうか。

人が天稟や天分を備えているというのは本当だろうか。就職活動などで幾度となく問われる適性なるものは存在するのだろうか。自分に何らかの適性があるとして、それを活かさねばならぬのだろうか。適性と嗜好が異なる場合はどうすれば良いのだろう。ただ金銭を稼ぐためだけの仕事に、自らの適性を発揮せねばならぬのは幸福なのだろうか。あるいは、適性を発揮せねば仕事にすらありつけぬというのであれば、その社会は極めて貧しいのではないだろうか。

『アリとキリギリス』の寓話は何を意味しているのだろうか。確かにアリは堅実だが、はたして幸福なのだろうか。この童話は基本的にキリギリス目線で語られる。アリ目線で見るといかなる景色が広がるのだろうか。寡聞にして聞いたことがない。

同じことが『ウサギとカメ』にも言える。私は学童の頃に、この話を何度となく父親から聞かされた。父は私をウサギになぞらえる、すなわちウサギ目線で物語る。私はそのことに何の違和感も覚えなかったが、もしかして、学校の勉強があまり得意ではない子供の家庭では、カメ目線による『ウサギとカメ』が語られていたのだろうか。そんなことがあるのだろうか。最近になってふと思う。

カメが勝利した究極の理由は、ウサギが失策を犯したからである。カメはコツコツと努力をしたかもしれないが、それだけでは絶対にウサギには勝てなかった。ここから汲み取れる教訓は、「努力するのは当たり前、その上で思いもかけない僥倖が訪れない限り、カメに勝利はない」である。こんな話を勉強や運動が苦手な子供にできるだろうか。できはしまい。ということは、『ウサギとカメ』はもっぱらウサギ用の童話ということになる。この無意識な視点が恐ろしい。不特定多数が集まる学校のような場所では、むしろ話してはいけない類の寓話なのではないか。

幸福の対語に不幸がある。幸福でなければ不幸なのだろうか。これは私が常々疑問に思っている「得と損」の関係についてもいえる。

言うまでもないことを書くのは、「得なことをしないのは損だ」という風潮が蔓延しているからである。「得なことをしない」のは「損」ではなく「得ではない」だけである。どうして「損」になるのか。いったい誰が「損」をするのか。

「保険と賭博」

まさに「放っておいてくれ」の一言である。幸福や適性といった概念は、他者と共有された価値観の中に存在する(と思われている)から、このような干渉が生じる。

私は、「より良く生きること」は「私と世界が一対一で対峙することに他ならない」と書いた。そこには共有可能な価値も尺度もない。このことは「自由であること」と密接に関係しているように思われる。自由についてはまた時間をかけて考えねばならない。

ところで、ウサギとカメの競走のゴールは山頂だったと記憶しているが、カメは帰るのが大変だったのではないか。干からびず無事に生き長らえることができただろうか。もっといえば、ウサギに足の遅さを揶揄されたカメは、どうして泳ぎの上手さや甲羅の硬さ、寿命の長さを誇ることができなかったのだろうか。そしてそもそも——、ウサギはなぜカメの鈍足を嘲笑う必要があったのか。

このような馬鹿馬鹿しい騒ぎは、自己と他者を比較しなければ生じなかったといえる。そのことに気付けば、およそ全ての優越感ゲームが無駄であることがわかるだろう。キリギリスも、アリと比較するから惨めなのであって、ただ独り自分を顧みるだけなら、好き勝手で楽しい一生だったと思うかもしれない。

2012/03/03/Sat.

絵画教室二十一回目。四枚目の水彩画の一回目。モチーフは熱帯魚(の写真)。

まずは鉛筆で下書きから。前作の鶏、前々作のエリマキトカゲは、いずれも白背景に動物が単体で映っている写真だったので、単純に被写体だけを描けば良かった。しかし今回は海中を泳いでいる魚の写真なので、岩だの気胞だのも描き込まねばならず、作業量が多い。と思っていたら二時間で描き終えてしまった。

講師氏に点検してもらったが、特に問題ないとのこと。少しは上達したのかもしれない。もっとも、彼の指導はいつも熱心なのか適当なのかよくわからないところがあるので、その言葉を鵜呑みにすることはできぬ。だが、自分でも満足できたのでよしとする。赤と青での彩色は次回から。

ところで、僕がモチーフに動物を選んでいるのは、彼らに美を感じるからである。そして、僕にとっての美の多くは機能美である。例えば、観賞用の花の造形は自然淘汰を経たものではなく、機能的でもない。僕にはこれらの花々が、まるでホルスタインやブロイラーのような、ある種の奇形にしか見えない。同じ理由で、犬は好きだがトイプードルの類は嫌いである。

それではサラブレッドはどうなのかという問題が出てくる。彼らの姿は、「走る」という機能を追求した結果の産物である。僕は彼らを美しいと思う。これは、F1 マシンや戦闘機が格好良いのと同じことである。極限の性能=物理法則に対する適応を突き詰めることにより、それらの姿は自然の写像として顕現する。つまり、僕がいう機能美とは、ほとんど自然の美しさそのものなのである。

(もっとも、何に自然を感じるかは人それぞれであろう。それに、そもそも生物は自然なモノかどうかという問題も残っている)

自然を美しいと感じる理由であるが、それは恐らく、新鮮な食材を美味いと感じる程度の理由でしかない。僕は、美がそれほど神秘的なものであるとは実のところ思っていない。ただ、芸術は美的要素のみで構成されているわけではない。美以外の成分とは何か、これから体得することができればと願っている。

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過去の絵画教室

2012/03/01/Thu.

今年度、私が実験に使用したマウスは三百匹弱ほどになる。その他に、遺伝子型がハズレの個体や、安楽死させた老齢個体を含めると、処分したマウスは五百匹を下らないのではないか(今、手元に資料がないだけで、精確な数字はもちろん把握しており、規定を遵守して報告している)。

先日行われた実験動物慰霊祭では、この一年間で、数万匹のマウスを中心に多くの動物が研究所で使用されたことを知った。これだけの数を改めて前にすると、深く思うこともある。実験動物の倫理問題については、動物を使用し始めた頃に少し考えたことがある。要諦は「動物愛護といっても所詮人間のエゴである。しかし我々はそれを無視できない」である。かなり粗削りな議論だが、基本的な認識は今も変わっていない。私は研究者として実験動物を使わざるを得ないし、同時に、一人の人間として開き直ることもできない。だが、ときに割り切れない想いを抱えて悶々とするところにこそ、学ぶべき点がある。

動物愛護のガイドラインについては、前述の日記に面白いことも書いてある。「我々は指針を手にすることによって、何となく安心する。ただ、ただそれだけのためのガイドラインなのである」。裏を返せば、実験動物を使用する際に、我々は不安を抱えているのだといえる。少なくとも私は不安である。動物を処分、否、殺すときには今なお躊躇いを覚える。この感覚は大切にしたい。平気でマウスを殺すようになったらこの仕事は辞めようとも決めている。何のための生物学かを考えれば当然の結論だと思う。

さて、先週からラットの解剖を手伝っている。ラットというのはいわゆるドブネズミで、マウス=ハツカネズミよりも体重で十倍、体長で三倍ほど大きい。これには長所も短所もある。サイズが大きいので、手術や解剖などの細かな手技が容易になる一方、飼育に労力と空間と金銭を要する。

実験をすれば腹が減る。腹が減れば飯を食うわけだが、ラットの解剖後にはどうにも食欲が湧かないことに気が付いた。マウスではこのようなことがない。単純に、ラットの大きさが鶏などの見慣れた食材に近く、それで肉を口にすることができなくなっているのである。ガラにもない話だが、今回は特に匹数が多いので仕方がない。

私は、昼間に特定の映像を凝視すると夜にはそれが夢に出てくる。ゲームに熱中しているときにはその画面が、論文を書いているときには Word のウィンドウが出てくる。この一週間はラットの内臓が瞼の裏に出てくるので往生した。マウスの場合、手術台や周囲の解剖器具なども景色として映るのだが、サイズの大きなラットでは視野のほぼ全体が内臓になってしまう。夢の中で灌流をしながら、なかなか腎臓の血が抜けないなァなどと思っているのだから、食欲の湧こうはずもない。しかるに空腹感は増す一方である。

肉気がなくて美味いものはないかと考え、今週末はうどんすきを食べることにしたが、困ったことに解剖は来週も続くのである。他には……、湯豆腐くらいか。しかし大阪に湯豆腐屋なんてあるのだろうか。豆腐のために京都まで遠征するのはさすがに疲れる。

それにしても——、とまた考えてしまうのだが、食事といえども他者の生命を奪っていることに変わりはなく、肉は嫌だが饂飩や豆腐なら食べたいというのもまた勝手な話である。思えば思うほどに至極勝手である。この問題を考え続けると、自己嫌悪に陥るか拒食症を患うか発狂するかしかなくなるので、さすがにもう止めるしかないのだが、自分が「勝手である」ということだけはたまに思い出しても良い。

漫然と口に物を運ぶな
何を前にし——何を食べているのかを意識しろ
それが命喰う者に課せられた責任——義務と知れ

(板垣恵介『範馬刃牙』)

普段意識しないことだからこそ、一年に一度くらい、真面目に考える価値はある。